第5話 見ているはずの犯人
桜井刑事は、もう一度川越博士に逢う必要があった。今度は聡子の話についてであった。まさか桜井刑事が聡子と知り合いだと思ってもいなかった川越啓二はビックリしたが、
「世の中には、本当にこのような偶然というのも存在するんだな」
と感心していた。
医学、心理学、精神学の医者として、このような偶然を全面的に信じているわけではないが、いわゆる、
「科学で証明できないことは起こり得るはずはない」
ということを提唱することはなかった。
「それこそ、科学に対する冒とくで、そんなことを我々が決めるというのは、上から目線である証拠だ」
と言っていた。
つまりは、
「科学というものを解明するには、科学を人間の心理と切り離して考えるものではなく、心理が科学の裏付けと考えるなら、科学を人間の尺度で図るということを冒涜だと思うのは当然だ」
というものである。
「科学によって証明されるものは、あくまでも科学の範囲でしかなく、自然を科学として解釈することは、科学というものを無制限に発達させる力になる」
と考えられるというのである。
いつも、非常に難しいことを言っているが、要するに
「科学には自然科学という言葉があるように、自然ですら、科学の一種だと考える考え方であるが、自然は無限の可能性があるのに、科学には限界がある」
ということであるが、その考え方は明らかに矛盾している。
川越博士と話をしていると、こういった会話で自分が分からなくなり、頭の中が混乱し、そこでプロパガンダに巻き込まれるという話を訊いたことがあったが、桜井には信じられなかった。
桜井は大学時代から川越博士のウワサは聞きつけていた。
川越博士は自分の大学にも教えにきていたことがあり、実際に講義を訊いたこともあった。その内容までは一つ一つ覚えているわけもないが、まさか、刑事という仕事に就くことで、博士と対等に話ができるようになるなど思ってもみなかった。
だが、今となって考えてみると、
――確か博士は警察が嫌いなのではないだろうか?
というものだった。
確か講義を聴いている中で、
「警察の事情聴取とは、いかに曖昧なものであるか」
ということを、話していたような気がした。
その中で、
――博士は警察の捜査に詳しいんだな――
と思ったものだが、その内容は、自分が刑事になって捜査をするようになると、逆に思い出すようになっていた。
確かに博士の言っていたような取り調べがあったのは間違いないようだが、まるで自分が過去に事情聴取を受けたことがなければ、ここまでリアルには言えないだろうと思うようなことだった。
確かに博士は職業柄、警察の捜査に協力することもあっただろう。講義の中で。自分が犯罪計画を立てたとすると、どんな話になるかということを博士なりの解釈から話してくれたことがあった。
相手の警察に敢然と立ち向かうという、犯人の側から見たサスペンスだった。
そして、一度教授が講義の中で、小テストを行ったことがあった。
それは、たった一行、
「私の講義を受けた中で、自分が凶悪犯だったら、どのような犯罪計画を立てるか、小説のプロットを真似たような描き方で表現しなさい」
というものであった。
そもそも、小説のプロットについて説明がない。つまり知らないければ最初からテストは零点だということだ。
それだけ、博士の私見も授業もリアルであり、発想自体が難しく、そして、上から目線で傲慢なテストもなかった。
「警察など信じるものではない」
と言いたげな気がした。
そんなテストの模範解答と呼ばれたものの中で一つの例を出してくれた。その例には自分独自の犯罪を含めたもので、結構面白いと思った。
やはり、博士は自分を犯人として作り上げることで、フィクションの中で、嫌いな警察に挑戦するというやり方だった。
博士の発想としては、
「完全犯罪を作ろうとすると、そのどこかに解れがあった場合、そのことが相手に分かってしまうと、犯人側の負けである。犯人というのは、すべてに主導権を握っているのだが、その分諸刃の系のようなもので、最初は絶対に見破られないという自信の元に出発するが、一度綻びができると、そこから先はボロボロになる。なぜかといいと、あくまでも完全犯罪の思想は百から始まっていて、それが次第に数を減らしていく。ぐ十くらいになると、もう限りなくゼロに近い気分になってしまう。それでも、下手くそな犯人よりもよほどしっかりした犯罪であるにも関わらず、負けが確定したように思えるのだ。それが完全犯罪だと自信を持っていればいるほど、ダメなんだ。なぜだと思うかね?」
と生徒に質問してみたが、
「いいえ、私には先生のお考えが分かりません」
と答えた。
「そう、その通りなんだ。君は今の答えは正解なんだよ。だから逆にいえば、何を答えても正解だし、不正解でもある。答えなどないのさ。だけどね、さっきの質問とすれば、完全犯罪に自信を持っているということは、それは百という完璧なところから、減算法で、どんどん可能性が低くなっていくということなのさ。普通の犯罪であれば、最初は、三十パーセントくらいから始まった発想が次第に確立していって、七十パーセントくらいになったら実行しようと思うんだろうね。気持ちとしては自分の中では限りなく百に近い、本人には完全犯罪などありえないという思いがあるからさ。さて、減算法と加算法、まったく違っているが、ある一点を捉えると共通性がある、だから結果に現れた場合は、正反対になるんだけどね。それは人間の意識の問題になってくるんだけど、減算法というのは、百から下がってくると言っただろう? 最初の百というものに自信を持っていれば持っているほど落ち込みやすいのだが、百ではなくなった時点で、限りなくゼロになってしまったということさ。つまりは、減算法を考える人にとって百かゼロしかない場合。百は百でしかなく、ゼロであっても、九十九であっても同じということさ。逆に加算法はその逆で、ゼロか百しか頭になければ、ゼロはゼロでしかなく、一でも百でも発想は変わらないということさ。つまり、有か無かという考えであり、その方が普通の人間にはしっくりくる。つまり普通人間は加算法で出来上がっているということ。だから自分に自信が持てない人間が多いというのも頷ける気がするんだ」
と博士は言った。
その言葉は今でも忘れられなかった。博士を見ていると、
――この人、いつかは完全犯罪でもしそうな気がするな――
というものだった。
博士はこのことを証明したくて、小テストをやったのだろう。自分たち学生を研究資料として使ったのだ。
そして、得られた結論から、学生に還元する形で、博士の自論をただで『進呈した』ということなのだろう。
桜井刑事は頭の中で博士のことといえば、このような発想が一番大きく残っていた。今博士がどんな研究をしているのか、今回初めて触れることができたような気がしたが、今では博士を恐ろしく思える。
「この博士だったら、自分の研究のためには、患者だろうが、モルモット代わりに使いそうな気がして恐ろしい」
と感じられた。
特に最近は記憶喪失患者が多いという、社会的な要因からなのか、それとも人間の弱い部分がちょうど今の時代に反応し、記憶喪失者を増やしているのか。桜井にはよく分からないでいた。
今までに桜井刑事は捜査を行っている過程で、博士の言っていた加算法、減算法という言葉を思い出すことがある。そして、いつも見事な推理で事件を解決していく浅川刑事の発想も、いつしか博士の考え方につられる発想で理解しようとしていたのだ。実際に謎解きの話し方として浅川刑事は減算法、加算法を口にする。それはまさしく川越博士の発想のそれと同じで、
「博士といい、刑事といい、二人は似たところがあるのか、それともどこか両極端なところが引き合って、客観的に見ると、実にお互いの理論を補って埋めているように思えてならないのだ。しかも、片方が充実してくると、エネルギーを吸い取られた片方は萎んでいくわけではなく、その時の状況によって、お互いの力が相手に同じ影響を及ぼすわけではない。それぞれに力の均衡があることで、バランスを保っているに違いない」
という発想を持っていた。
博士に、当時のことを話すと、
「そうか。私の講義を受けてくれていたんだね。それは奇遇というものだ。しかも、もっとビックリしたのは、君が記憶喪失の女性である九条聡子さんと以前からの知り合いだったということだよ。最初に、K警察に連絡をした時、浅川刑事が来てくれたんだが、もしタイミングがずれていれば、君だったかも知れない。しかも、その君が今度は殺人事件の第一学研社としてではあるが、別の記憶喪失の女性を連れてくるというのは、どこまで偶然が重なるのかと思うと恐ろしくなるくらいだよ」
と、博士は本当に驚いているようだった。
「聡子さんのことも気になるんですが、弘子さんの方はどうなんでしょう? まだ意識が朦朧とした状態なんでしょうか?」
と桜井刑事が訊くと、
「ああ、そうだね。これは難しいところなんだけど、君も知っていると思うんだが、記憶喪失の人間が、過去のことを思い出そうとして無理をすると、頭に激痛が走るんだよ。それは結構なもののようで、人によっては、その激痛のせいで、思い出すことをやめてしまう人もいる。これは、なった人でなければ分からないと思うんだけど、一度その苦痛を味わうと、条件反射が身体に残ってしまうので、思う出そうとしても、頭痛を怖がって、何とか頭痛が来ないように思い出そうという気持ちになってしまうんだろうね。そうなると、思い出せるものも思い出せなくなってしまう。そのくせがついてしまって、一度思い出せなかったという意識が上つけられ、思い出すことをやめてしまうんだろうね。日頃から頭のいい人や、機転の利く人に多いことなのかも知れない。本当はそういう人こそ、自分のことを一番よく分かっている人であって、何とも皮肉なことではないかと思うんだ」
と、川越博士は言った。
「記憶喪失にもいろいろ種類があると思うんですが、弘子さんのような場合というのは、あまり聞いたことがありませんが、どうなんでしょうね?」
と訊かれた博士は。
「人の中には、過去の忌まわしいことを忘れ去ってしまいたいという願望があると思うんです。その一つのことに対して、本人が、今の性格であったり、今の状態であったりを、その時の延長上で起こったことだとすれば、それがなかった自分はまったく違った人生を歩んでいると思うでしょうね。ショックなことがトラウマとして残ってしまっているというのも、そのあたりに原因があると思うんですが、その思いを抱いている時に、急激なショックを受けたり、障害が起こるような場面に出くわすと。忘れてしまいたいと思う本能が沸き上がってくるんじゃないでしょうか? 本当はその時のことだけをなかったことにしたいと思っているのに、現在がその延長上にあるという意識からか、そこからすべての記憶を封印しようとするのかも知れないですね。それが彼女の記憶喪失なのかも知れません。きっと光化何かで急激に意識が委縮してしまったのではないかと私は思っています」
と博士は言った。
「じゃあ、思い出す可能性は高いんでしょうか?」
と言われて、
「何とも言えないですね。彼女の性格にもよりますが、今は記憶の奥に封印しているという感情から記憶喪失なのでしょう。だからそこを開けてやればいいだけなんですが。すべての意識を失うのは、彼女の表向きの感情ではない。無意識に行ったことなので、彼女自身が記憶を失っていることに戸惑っているはずです。そして冷静になってくるとどう感じるかというと、きっと、思い出したくないことがあるから記憶喪失になったんだと思うでしょうね。その通りなんですが、それが何なのか、それすら分かっていない。これは私が子供の頃に見た怪獣ものの特撮なんですが。ある男の意思によって、ある物体がその男の想像通りのものに化けることができるという内容なんですが、そのうちに大きな怪獣に変身させたんですが。そのまま建物を壊してしまい。その男はビルの下敷きになります。で、その男が怪獣のことを実際に忘れてしまわないと、怪獣は消えません。しかし、昏睡状態で、生死を彷徨っている状態なんです。だから、何とか医者は助けようとするんですが、何とか手術は成功し、意識が朦朧としている男に対して。怪獣のことを忘れさせて、最後はモノと姿に戻るという話なんですが。少し無理がありますよね。子供向けなので問題はないのですが。意識が戻った状態で、皆がまわりから怪獣のことを忘れろと責め立てるんです。その男が忘れたからよかったものの。本当であれば、危険な行動なんですよ。私も子供だったので、何も感じませんでしたが、大人になって見ると、何か違和感があったんです。人間の自営本能から、あんなに責めたてられると、普通なら委縮してしまいます。本当なら、一度思い出してから忘れるようにしないといけないプロセスなのに、特撮ドラマはそれをすっ飛ばしていました。人間の記憶や意識というのはそんなに簡単なものではないんです。あれが大人向けの番組だったら、視聴者の中には、何かおかしいと言ってるでしょうね。今だったら、SNSで炎上なんてことも大いにあるんじゃないでしょうか?」
と博士は言った。
博士が何を言いたいのか、ハッキリしたことは分からなかったが、桜井は、それほど悲観的に考えることはないような気がしていた。ただの勘ではあるが、一つは悲観的に考えても仕方がないという思いと、どうしても、彼女に対して自分が贔屓目になっているのではないかという思いがあるからだった。
「ただ、一つ、これは君の同僚である浅川刑事にもお話をさせていただいたことなのだがね」
と博士は少し、言いにくそうにしていたのを察して、
「ああ、そうですよ。どうして、聡子さんの記憶喪失に浅川さんが絡んでいるのかが疑問だったのですが、どういうことだったのでしょう?」
と、桜井刑事は訊いた。
「最初に、聡子さんが運ばれてきた時は、軽い精神分裂症を病んでいたので、それによる一時的な記憶喪失なのかも知れないと思っていたのですが、いろいろ調べてみると、彼女は薬物障害も患っていました。そこまでひどいものではないんですが、安価で粗悪なものですから、続けていくと、次第にひどくなってきます。記憶喪失もそのあたりから来るモノかも知れないと思う警察に一応通報しました。それでやってきたのが、浅川刑事だということですね」
と博士は言った。
「さっき、聡子さんは、明らかに私を意識して声をかけてきましたが、私は記憶喪失だと知らなかったので、何が悪いのかって思いました。でも、よく見ていると、さっきこちらに私が連れてきた末松弘子さんに症状が似ているような気がしたので、ひょっとして記憶喪失なのかも知れないとは思ったんですよね。それを思うと、何か私のまわりで、記憶喪失が多いのは、本当にただの偶然なのかって思ってしまうんですよね」
と桜井刑事がいうと、
「確かにそう思われるのも無理もないことだと思います。実際に記憶喪失の人と一生関わることなく人生を終わる人というのが大半でしょうからね。でも、記憶喪失というのも一種の病気なんです。しかも、精神的な病気なので、いつ何時発症してしまうか分かりません。発症経路も多種多様ですしね。潜在意識が起こさせるものもあれば、外的要因によるものもある。ショックを受けたことを忘れたくて、自分から記憶を封印する場合もある。したがって。逆にいえば、一生のうちに一度も記憶喪失の人間に関わらない人もいれば、ずっと関わっていく人もいるということですね。ただ、これは認知症のように、年齢がくればかかりやすかったりするものでもないですので、十分に治る可能性は高いということです」
と川越博士は言った。
なるほど、博士の話は実に分かりやすい。話を訊いている中で、理解できる部分も十分にあり、だが、次第に桜井の中で、
――何か博士は我々に隠しているところがあるような気がする――
と感じた。
何か、自分が、いや警察がということなのかも知れないが、疑問を抱こうとする中で、何とかうまくごまかそうとでもしているかのように思えてならない。気のせいだとは思っても、そう思えば思うほど、気になって仕方がなかった。
ただ、今回桜井が関わった殺人事件との相関関係はどこにもないような気がする。利害関係がどこかにあるのであれば分からなくもないが、それこそただの偶然で済まされることなのだろうか?
とにかく、今は博士を信じるしかないので、変な疑いを抱くことはないだろう。ただ、一つショックだったのは、聡子が薬物に侵されていたということだった。
博士の方は時計を見ると、
「すみません。これから医局会議に出席しなければいけないので、私はこれで失礼しますが、何かあれば、こちらから連絡も入れますので、浅川刑事の方にもよろしくお伝えください」
と言って、そそくさと用意をして、研究室を出ていった。
桜井もこのままこの病院にいる必要もなかったが、何か後ろ髪をひかれる思いだった。
それはやはり、聡子のことが気になるからであろうか。一番引っかかったのは、自分を見た時のあの屈託のない顔だった。
「明らかに記憶喪失だったな」
という思いと、まさか、それが薬物によるものであったとすれば、悲しすぎるような気がした。
精神分裂症もどこから来るのか分かっていないようだったし、事件にかかわりがあれば、捜査もできるのだが、捜査に関係のない相手なだけに、一般人として、昔の知り合いとして、会ってあげるくらいしかできないのであった。
とにかくまずは本部に帰って、事件の進行具合を訊いてみることにしようと思った。時刻としてはまだ昼過ぎだったのだが、本部に戻ると、少しはいろいろなことが分かっているのではないかと思えたのだ。
K警察署に設けられた、殺害捜査本部では、浅川刑事と、松田警部補が話をしていた。そこに鑑識も入っているようで、どうやら報告を訊いているようだった。
「ただいま戻りました」
と言って、捜査本部に顔を出した桜井刑事は、
「ご苦労様」
と、松田警部補にねぎらいの言葉を掛けられたが、
「さっそくで悪いのだが、第一発見者の女性は記憶喪失なんだって?」
と浅川刑事が訊いてきた。
さすがに、先日記憶喪失になった聡子と関わっただけに、記憶喪失というワードは、今の浅川刑事には敏感な言葉なのだろう。
「ええ、そうなんですよ。原因に関してはハッキリとはしないんですが、どうも明るい光が目を差した時に、急に意識を失ったようで、その時に一緒に記憶も喪失したのではないかと、先生のお話です」
と桜井刑事がいうと、
「確か運ばれた病院は、K大学病院だったよね?」
と浅川刑事が訊くので、
「ええ」
と答えた。
明らかに浅川刑事は分かっていて聞いているように思えてならなかったのだが、
「じゃあ、もしかして、その先生というのは、川越博士ではないのかな?」
と、想像していた答えが返ってきた。
「ええ、そうです。浅川刑事は川越博士をご存じのようですね?」
と訊くと、
「ああ、知っているよ。この間、一人の女性が記憶喪失になったということで、治療をしていたようだが、その時に薬物が検出されたのでということで、通報があったんだ。私がその通報を受けたので、話を伺いに行ったという経緯があってね」
と、説明をした。
松田警部補は初耳ではないようだったが、麻薬のことに関してまでは知っていたかどうか、様子を見ている限りではよく分からなかった。
「まあ、その件と今回の事件とは関係がないので、これ以上は言及しませんが、何か最近は急に記憶喪失が起こるというのをよく聞く気がするので、そのあたりは気になるところですね」
と、浅川刑事が言った。
するとそれを聞いていた鑑識が、
「これは少し不思議なんですが、今回の被害者の腕に注射の痕があったのですが、気になって調べてみたんです。見た感じがいかにも麻薬中毒者の腕のようだったからですね。でも、被害者からは、薬物反応はありませんでした。だから、先ほどは報告をしませんでしたが、今のお話で薬物という話が出たので、少し引っかかりましてね」
と言っていた。
それを聞いた松田警部補は浅川刑事に、
「被害者の所持品から、何か発見されたかね?」
と言われたが、
「いいえ、何も発見されませんでした。中茶器やアンプルなどがあれば、分かりますからね。さらに被害者の家の家宅捜索でも、そういったものは発見できませんでした」
という報告を受けた。
「ところで、被害者の坂上氏のことなんだけど、彼には誰かに殺害される動機のようなものはあったのだろうか?」
と松田警部補が訊くと、
「それが、誰も心当たりはないというのです。会社の従業員や幹部の人にも聞いたのですが、どうも臆病者だったということで、人の恨みを買うような大胆なことができる人ではなかったというのです。会社内でもあまり人と関わることはなかったので、詳しいということはなかったというのですが」
と浅川刑事がいうと、
「でも、社長をやっているんだろう? それなりにしっかりはしているだろう?」
と、松田警部補が訊くと、
「それはそうなんでしょうが、何と言っても、彼は二代目社長で、世襲なので、そこまではないということです。だから幹部の方も逆に社長にはお飾りでいてもらって、幹部がうまく協力しあって、会社を盛り立てる方がいいという体制になっていました。今どき古臭いと言われるかも知れないが、K市というところは、いまだにそういう企業も残っているということです」
という話を浅川刑事は言った。
浅川刑事はこの事件勃発前に解決した犯罪で、いかにもこのK市の体質を垣間見るような動機を孕んだ事件を解決していたので、そのことが頭をよぎったのだろう。松田警部補も桜井刑事も分かってはいたことだが、まったく違う事件だという意識があり、頭の中をリセットして犯罪に対応するのが刑事だと思っているので、意識しないようにしていた。
しかし、浅川刑事の方はそうではなかった。
確かに二人が考えるやり方が刑事としては、マニュアルに沿っていると言えるのであろうが、何か引っかかるところがあれば、それを意識してしまうのも、刑事としての勘を信じるという意味で必要なことだと思っている。
まるで昭和の頃の捜査のようだが、杓子定規にすべて新しいことが正しいという考えは恐ろしいと、浅川刑事は考えていた。
「ところで、被害者の女性関係とかの裏話はないのかね?」
と松田警部補が言った。
臆病者の二代目社長、いわゆる幹部の連中から、
「お飾り」
と言われる状態なので、その存在がどこまで会社に浸透しているかは、一目瞭然であり、まるで、
「路傍の石」
のようなものではないか。
社長でなければ、その存在すら、誰にも見えることなく、意識されず、見えているのに見えない存在というレッテルを貼られ、すでに終わっていると思われるであろう、そんな性格であれば、お飾りになってしまったそのはけ口を別に求めるのも当たり前というものだ。
「今のところ、一軒のキャバクラに通っているという話は聞いたことがあります。ただ、それも幹部があてがった場所であり、贔屓の女の子というのも、どうやら幹部が裏でお金を回して接待させているという話を訊きました。もちろん、本人が死んでしまっているので、幹部としては、捜査上、そのうちに警察が彼女に行き当たると思って先手を打ったんでしょうね。ちゃんと本当のことを警察に言わなければ、彼女が疑われるわけですからね」
と別の捜査員が言った。
「その情報は、幹部からのモノなんだろうね?」
と浅川刑事の質問に、
「ええ、その通りです。キャバクラというところに勤めながら、会社から裏金を貰っているという都合上、自分からはハッキリとは言えないでしょうからね。自分が重要容疑者にでもなれば話は別でしょうが」
と彼は答えた。
「そこに、幹部の何かの思惑があるとは考えられないかね?」
と浅川刑事が訊ねたが、
「どういうことですか?」
と浅川の真意がハッキリ分からずに聞き返した。
「いえね、この事件に関係があるかどうか分からないが、会社経営のために、社長に対して、傀儡という立場になってもらうためには、幹部としても、かなりの気を遣う必要がある。まさかとは思うが、今度の犯罪にそのような傀儡に対しての、歪のようなものが根底にあれば、それが動機に結び付いてくるのではないかと思ってね。せっかくキャバクラのキャストを会社として裏で雇っている形になっているのだから、彼女を利用しない手はないという考えが幹部にあれば、どうなのかなと思ってね」
と、浅川刑事は言った。
「それは考えすぎかも知れませんよ。彼女たちは、中には同じように企業と繋がっている人もいるようで、それが他の土地との違いになるのかも知れませんが、ここではそれが横行しているふしもあるということです。これはあくまでも裏の裏と言えるウワサなんですが、そんな彼女たちを企業の戦略に巻き込むため、麻薬が使われているのではないかというウワサも聞いたことがあります。でも、まさかそこまでは考えにくいし、あまりにも信憑性の薄いところからの情報なので、却って信じられないと思っていたんですよ。でも、先ほどからの話を訊いていると、まんざらでもないような気がするんですよ」
というではないか。
「じゃあ、キャバクラなどの風俗店と、企業とがキャスト単位で結び付いているのは、公然の秘密のようなものだということですか? だから、今回の事件にその関係がどこまで関わっているかは分からないが、別に特別なことではないと言いたいわけですね?」
と浅川刑事は、念を押す感じで話をしたのだ。
「ええ、その通りです」
という話を訊いていて、桜井刑事が一つ何か閃いたのか、
「今、ふっと頭をよぎったことなのですが、第一発見者の彼女は、記憶を失う前に誰かを見ているのではないかと思ったんです。記憶を失ったというのは、何か都合がよすぎるような気がするんですよね。あくまでも、今のキャバクラの話を訊いていてどうしてそう思ったのかは分からないんですが。閃いたとでもいえばいいのか、偶然が多いこの事件ですが、どうもそれに惑わされているようにも思う。つまり都合のいいと思うことをどう解釈するかによって、事件の見え方がまったく違ってくるような気がするんです」
と桜井刑事這は言った。
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