第4話 桜井刑事と九条聡子

 桜井刑事が話を訊いたのは、川越博士だった。K大学病院でも精神科の権威ということだったので、記憶喪失のような病気に関しては、結構川越博士が治療を行うことが多かった。

 ただ実際の治療は助手が行って、川越博士はその監修を行っている場合もあり、特に最近は記憶喪失になる人も増えていて、その症状や原因も多様化している。精神的な面や、肉体的な面での記憶喪失も様々で、結構いろいろと精神科の仕事も多かった。

 その中で川越博士の懸念しているのが、

「薬物による記憶喪失」

 というものであった。

 最近、市中に安価で粗悪な薬物が出回っているということは、警察の方でも分かっている。だが、それ以外の一般市民はおろか、病院の方にもそこまでの情報は下りてきていないようだ。

 だが、さすがに川越博士くらいになれば、自分の研究でそのことが分かってきていた。実際に、

「警察に報告するべきだろうか?」

 と考えたこともあったようだが、まだまだ研究資料が不足しているおとや、下手に知らせて対処法も分かっていないのに、いたずらに不安を募らせてしまうことはいけないことだと考えたのだった。

 したがって、警察は捜査の中で入手した話からの情報で、川越博士は自分の研究から導き出された情報であり、出所はまったく違っていたが、同じ内容を示していた。川越博士は、独自に研究を進めながら、薬物を抑える特効薬の研究もしていたのだ。

 博士は医療と一緒に薬学においても権威であり、だからこそ、博士の称号を得ることができたのだ。

 世界的にも有名で、その権威を発揮できる川越博士は、医学、薬学会では、一つも二つも頭の上であり、研究結果もいかにも世界に発信できるものであった。

 桜井刑事は、先ほどの捜査にて、第一発見者への事情聴取という初期段階の捜査で、

「事情聴取している最中に、相手が急に意識を失ってしあう」

 という状況に陥り、さすがに放っておくわけにもいかないということで、救急車を呼び、自分も一緒に病院まで一緒に来ることになった。

 意識は病院に来る迄戻るわけではなく、本人はすでに目覚めているつもりであったが、どうやら、限りなくリアルさのある夢を見ていたようである。そのことは本人以外の誰にも分かることではなかったが、川越博士は分かっていたような気がする。

 だが、博士はそのことについて一切言及することはなかった。

 博士の診察室を出た桜井刑事は、署の方に連絡を入れた。署の方ではすでに捜査本部が立ち上がっているようで、今現在としてはどういう状況なのかということを、浅川刑事に聞いたのだ。

「どうもすみません。病院に行くことになってしまって」

 と言って謝罪すると、

「いやいや、それはいいんだが、どうしたんだい? 第一発見者の女性に話を訊いていたとたん、急に気を失ったというではないか?」

 と浅川刑事に訊かれて、

「ええ、救急車はK大学病院に運ばれたんですが、そこで少ししてから彼女は意識を取り戻すことができたんです」

「それはよかったじゃないか」

 と浅川刑事に言われたが、

「それがですね。どうも記憶喪失のようで、まだ話が訊ける状況ではないんです。頭がボーっとしているようでですね。もし意識がハッキリしてきても、記憶喪失だということなので、どこまで聴取ができるかというのは疑問です。たとえできたとしても、記憶喪失の人の証言ですから、どこまで信憑性があるかですね」

 と桜井刑事は話した。

「それでも、とりあえずは話を訊く必要はあるだろうね。何しろ第一発見者でもあるし、何かを見たのかも知れない。もう少しそこにいて、彼女が少なくとも意識がハッキリした状態で、どのような記憶喪失なのかを君の目で確認してもらいたいんだ」

 と、浅川刑事に言われ、

「分かりました。私もそのようにしたいと思っています。主治医の川越博士と話をしながら、いろいろと伺ってみたいと思います」

 と桜井刑事は言った。

「川越博士が主治医なら安心もできるというものだ」

 というと、桜井刑事は意外な気がして。

「浅川さんは川越教授をご存じなんですか?」

 と訊かれて、

「ああ、この間、意識不明の女性が運ばれて、その人が記憶喪失で、しかも、何かの薬物を摂取しているということで、入院中のはずなんだ。薬物の問題があったので、私が最初に様子を見に行ったんだけどね。その後に麻薬捜査班が、いっているとは思うんだが。私は最初に川越博士と話をして、さすがに博士と呼ばれるだけの人物で、この人に任せておけば大丈夫だと思ったくらいだったんだよ」

 と、浅川刑事は言った。

「そうでしたか。その人は意識は戻ったんですかね?」

 と訊かれて、

「意識は戻ったらしいんだけど、記憶を失っているうえに、まだ薬が効いているのか、ハッキリとはしないそうなんだ。それは博士からも一度連絡があったし、麻薬捜査班の方からも聞いていることなので間違いはない。ところでその第一発見者の女性は記憶喪失になったということだけど、まさか薬物によるものではないだろうね?」

 と言われた桜井刑事は、

「まさかそんなことはないはずです。もしそういう話があれば、博士の方から最初にそういうお話があるはずですからね。しかも、浅川さんから聞いた今の女性のこともあるわけでしょう? 警察への報告は必須でしょうからね。だからこそ、最初に浅川さんにも通報されたんでしょうからね」

 という話を訊いた浅川刑事は。

「それはもちろん、その通りだ。私も博士の人格というものは尊敬に値すると思っているので、このあたりの話は博士に任せながら、我々は警察として、事実を見つけていくだけだと思っているんだよ」

 という話に、桜井刑事も同じ意見を持っているようで、

「私もそう思います。ただ、今回は殺人事件が絡んでいるので、ちょっとややこしい気はしますが、私は第一発見者の彼女も気になっているんです。たぶん、何かを知っているのではないかという感じもあるし、知っているのであれば、もしそれを封印したままになれば、彼女の中で記憶にはないけど、何かのトラウマが残ってしまうと、それは精神的に大きなダメージとなるのではないかと思いますからね」

 と桜井刑事は、弘子に同情を寄せているようだった。

「ところで、その後の捜査の方がどうですか?」

 と、桜井刑事は話を変えた。

「ああ、こっちでは捜査本部ができて、鑑識からも報告があったりして、今は近所の聞き込みだったり、被害者の交友関係、さらに副社長や、工場長の話を訊いたりしているよ」

 という浅川刑事に、

「誰か、何か怪しいと思われる人はいましたか?」

 と訊いてみたが、

「今のところは怪しいと思われる人はいないね。少し事件は膠着状態に入るような気がするんだ」

 と浅川刑事が言ったが、考えてみれば、事件というものは、途中で停滞することは往々にしてあるものだ。

 そのことは、大体の捜査員が分かっていることで、ほとんどの場合に類に漏れないと言ってもいいだろう。

 それを思うと、今のところ、桜井刑事は少々長く病院にとどまっている方がいいような気がした。他の捜査は他の捜査員が行っているのだから、最初に事情聴取をした相手が体調を崩したのは自分の責任ではないないとはいえ、若干の責任を感じていないわけのない桜井刑事にとったは、浅川刑事の言葉はありがたいものだった。

 とりあえず、浅川刑事から少し話が訊かたことはありがたく、とりあえずは、病院で一息つくののいいかと思い、電話を切ってから、急に腹が空いてきたのに気が付いた。時間もすでに昼近くなっていたので、まずは食堂で何かを食べようと思い、行ってみると、まだ中は少なく、ゆっくりと食べれることが分かると、少し安心した気分になっていた。

 救急車か搬送された形で運び込まれた中に自分も一緒に付き添っていたという緊張感もあった。

 何しろ病院というと、警察が来る時というのは、あまりいい状況の時ではないのが分かっているので、今日もいつもと同じような緊張感を抱いたままやってきて、捜査に戻ろうにもまだ回復していない相手を待つ必要があり、捜査本部も自分を病院で待機するように話をしてくれている。捜査も気にはなるが、一旦落ち着いた気分になったのも事実であり、こんな気分になったのって、最近ではあまりなかったので、新鮮な気がしていた。

 結構広い職層で、さすがに大学病院。自分が行っていた大学の学食よりもかなり広く感じられた。しかも病院という性格上、明るさが十分に取られていて、精神的にも明瞭な感じになるのが、さらに桜井に安心感を与えた。

 気が付けば今日は朝から何も食べていない。まだ二十代の桜井刑事はまだまだ大食漢の年齢であった。

 メニューを見ると、ステーキがあった。ランチにステーキというのも贅沢な気もしたが、目の前で貧血気味に倒れた人を見た後だけに、ステーキくらい食べた方がいいようあ気がした。

 そもそも、殺人事件の捜査で、ナイフで刺された人の現場を目の当たりにしているのだから、本当ならステーキはきついのかも知れないが。さすがに今まで何度となく刺殺死体や、三逆な殺害現場を見てきたことで慣れてきてしまっているのかも知れない。しかし、本当はそれ以上に空腹感には勝てないというが本音で、

「ステーキ定職を一つ」

 と頼んでしまっていた。

 少し待っていると、目の前の厨房で焼いているのが見えた。焼いているのを目の当たりにすると、食欲は最高潮で、出来上がって鉄板に乗せられたままトレイに乗せてくれた肉は、ジュージューという食欲をそそる音を立てていた。

 トレーを持って、窓際のテーブル席に腰を下ろすと、贅沢に天井の高いスペース全体がパノラマとなっていて、巨大スクリーンを思わせるビューが、桜井刑事のホッとした気持ちをさらに落ち着かせる気がした。

 ビューの表を見ていると、遠くから見ているよりも、目の前にガラスがある方が、立体的ではなく平面的に感じられる。つまり距離感というよりも、物体の大きさが目立って感じられ、そこに写っている人が、皆静止しているかのように感じられ、不思議な状態を醸し出していた。

 目の前に広がる大きな公園では、看護師が車いすを押して、患者を散歩させている姿で、そこには病人を思わせない寛ぎ感を思わせるほどだった。看護師の白い服が眩しく、人によっては点滴をぶら下げたまま、その針が腕に刺さっている光景が見られたが、普段のような痛々しさは感じられず、ポカポカ陽気も手伝ってか、まるで睡魔が襲ってくるかのような錯覚に陥ってしまっていた」

 それを感じた桜井は、

――俺はどうしちまったんだろう?

 と感じていると、鼻をくすぐるようなステーキの匂いに誘われて、フォークとナイフを手に持った。

 表からの光を見ると、ナイフやフォークに反射している光を感じると、

――この光に彼女は反応したんだろうか?

 と感じた。

 ただ、話をしていて気になったのは、目をしばたかせていたので、眠たいのを意識していたため、起きなければいけないという意識からの行動だったのか、それとも、何か思いださねkれ場いけないことを思い出せずに、必死に思い出そうとしていたのか、そんな様子に見えた桜井だった。

 最近、記憶喪失の人が多いという話は、どこかで聞いたような気がした。誰から聞いた話だったかは覚えていないのだが、たぶん、誰か刑事から聞いた気がしたので、刑事課の人間だったような気がする。しかもそれがいつのことだったおかも思い出せない。それを思うと、

「僕も、一種の記憶喪失なのかも知れないな」

 と感じたが、自分の場合は、情報がたくさんありすぎて、キャパシティをオーバーしているのではないかと思うのだった。

 桜井刑事は、肉体派だと思っているので、頭の回転や記憶に関しては、ほとんどよいという自覚はない。したがって、日頃からメモを取ることで忘れないように癖をつけている状態だった。

 だが、メモを取るようになってから、それまでほとんどないと思っていた記憶力が伸びてきた気がした。さすがにメモがないと不安ではあったが、きっとメモを取ることで安心感が深まり、そのおかげで、記憶がよくなったと思い込んでいたのだろう。

 それこそ自己暗示というものだ。こういう話は、川越博士が専門なのかも知れないが、川越博士と話をしていると、今まで考えたことがなかったと思っていることも、潜在意識の中にあったような気がして、改めて話を訊いたという意識になるのであった。

 川越博士の顔を思い出してみると、以前どこかで会ったような気がしていた。それをさらに思い出そうとすると思い出せないというループに入ってしまいそうなので、余計なことを考えないようにする癖がついてしまったのかも知れない。

 そういえば、先ほど博士と話をしている時に、今と同じ感覚があったような気がした。博士がそういう意識を呼び起こしてくれるような暗示をかけていたのか、それとも自分が博士にそういう意識を持ってしまったのかのどちらかであろう。

 そう思うと、

「博士はマインドコントロールができるのではないか?」

 と思った。

 心理学を志している人は、その成果を試したくなるだろうから、自分で実験を考えるような気がする。その時に一番ありえる成果としては、催眠術であったり、マインドコントロールのようなものではないかと思うのは、桜井刑事だけであろうか。

 桜井刑事は、博士のことを思い出しながら表を見ていると、そこに一人の女性がこちらを見て、手を振っているのが見えた。彼女は車椅子に乗って、頭には包帯という痛々しい雰囲気で、後ろから看護師に押されていたが、こちらに向かって手を振っている姿を見ると、その痛々しさを感じさせない雰囲気に圧倒されそうな気がした。

 看護師は、ニコニコしながら頭を下げていたが、その様子を見ると、これが彼女のいつものパターンではないかと思い、自分を知っているから手を振っているわけではないかのように思えた。

 彼女が、後ろを振り返って看護師に何かを話しかけている。その様子から、看護師はチラッとこちらを見て、頭を下げたかと思うと、車いすを引っ張って、今来た方向に戻っていった。

「何だったんだろう?」

 と独り言ちたが、気にせずにステーキに舌鼓を打っていたが、今度は腹の具合も舌の具合も慣れてきたことで、食欲はある程度満たされた気がした。

 そもそも、桜井刑事は腹が鳴るほどに食欲が旺盛であっても、少し腹に入れば、それだけで満たされた気分になり、気が付けば半分も残しているということもあったりした。そういう意味で、高価な食事はもったいないとも言えるのかも知れないが、逆にそんなにたくさん食べれないだけに、そんな時こそ、おいしいものを食するという気分になるのかも知れない。

 ステーキは冷えてきていて、少し硬くなっているので、おいしさは半減していた。だが、自分では十分に満足できた気がしたので、もったいないという気持ちで、全部食べようとは思わない。それがいつもの桜井刑事だった。

 食後のコーヒーを頼もうと、後ろを向いた時であった。入り口のところに車いすに乗った一人の女性がこちらに向かってきていた。看護師に後ろを押されている姿は既視感を感じさせたが、果たしてその人は、やはりというか、先ほど自分に手を振っていたその女性だったのだ。看護師に向かって話しかけていたのは、ここに来たかったので、相談していたのだろう。そう思うと、何か嬉しく感じられた。

 しかも、彼女のイメージは今までにどこかで会ったことがあるという思いであって、それがいつだったのかハッキリとは思い出せないが、この感覚に間違いはないと思うのだった。

 彼女はニコニコとさっきの笑顔と同じだった。やはり、初めて見た顔ではないような気がする。

 すると、彼女がおもむろに口を開き、その唇をついて出てきた言葉に、桜井は驚愕してしまった。

「桜井君」

 やはり、そう呟いたのだ。

 思わず桜井は、

「はい」

 と答えた。

 すると、看護師はビックリしたような顔になり、

「すみません。桜井さんなんでしょうか?」

 と訊いてきたので、

「はい、そうです。桜井です」

 というと、また看護師はビックリして、穴の開くほどの目で、車いすの彼女を見つめた。

「覚えていらしたんですね?」

 と話しかけるが、車いすの彼女は、何のことなのかさっぱり分からないという様子だったのだ。

「どういうことでしょうか?」

 と、桜井が訊くと、

「実はこの方、記憶喪失なんですが、あなたのことだけは覚えていたんですね?」

 と言われた桜井は、

「私も経った今思い出したのですが、ひょっとして彼女は、九条さん? 確か、九条聡子さんだったかな?」

「ええ、そうです。あなたの方も忘れていたということでしょうか?」

 と訊かれて、

「忘れていたというよりも、私が知っているのは、中学三年生の頃ですので、もう十年は経っています。しかも、まだ子供の頃ですからね、今は正直だいぶ彼女も雰囲気が違うし、自分も違っているはずなんですけどね」

 と桜井は言った。

「まあ、中学時代の……。ということは、今までの途中の記憶をすっ飛ばして、桜井さんを覚えていたということなんでしょうね。そんなに仲が良かったんですか?」

 と言われて、

「いえ、ほとんどお話をしたことはなかったですね。もっとも、僕がずっと片想いをしていただけなんですよ。でも、今の彼女も昔の面影がありますね。今の彼女と普通に出会っても、好きになっているような気がするくらいですよ」

 と、恥ずかしげもなく言ったが、彼女との思い出がいい思い出だったのは、彼女に対してのイメージがブレずに、最初から最後まで一緒だったからなのかも知れない。

 少なくとも今までの桜井の知り合いの中で、ずっとイメージが変わらずにいた相手は、彼女だけだったように思う。

 そういえば、小学生の頃の初恋だと思っている恋に関しては、その女の子もあまりイメージが変わらなかったのだが、ある日髪の毛を思い切り切ってきたことがあった。その時を境にそれまでずっと仲良く遊んでいた桜井だったが、急に彼女を避けるようになった。自分のイメージしていた好きだった彼女がどこかに行ってしまった気がしたからだ。そんなイメージを自ら変えてきた彼女に対し、同じ人間でありながら、片方では好きなままなのに、片方では避けるようになったというジレンマを感じているうちに、次第に相手が自分を避けるようになった。自然消滅ではあったが。しょせんそれだけの恋でしかなかったということであろう。

 初恋を思い出させるくらいの懐かしさを、聡子は持っていた。記憶を失っていて、桜井に声を掛けた時点であれだけのショックを受けた看護師は、それまでの自分に対しての態度と明らかに違う桜井に対しての態度に対して、嫉妬のようなものがあったのかも知れない。

 聡子のあどけない表情には、疲れのようなものが見える。それが年齢を感じさせる唯一のもので、その雰囲気がなければ、桜井も見た瞬間に、彼女が聡子であるということをすぐに看破したことであろう。

「桜井君は、どうしてここにいるの?」

 と訊かれて、思わずどう答えていいのか湧かなかったので、看護師さんを見ると、彼女は軽く頷いた。

 それを見て、桜井は意を決したかのように、

「聡子ちゃんに会いにきたんだよ。待ってていてくれたのかな?」

 というと、まるでサルになったかのような満面の笑みを浮かべ、桜井は自分の姿が彼女の瞼の裏に英雄であるかのように写っているのではないかと思ったのだ。

「私も待っていてよかった」

 と聡子はいうので、

――ひょっとすると中学時代は自分の片想いだと思っていたけど、お互いに片想いだとずっと思っていたのかお知れない――

 と感じた。

「彼女が記憶喪失だというのは、どういうことなんですか?」

 ハッキリとは分かりませんが、ショッピングセンターで倒れられて、それでこちらに搬送されたんです。ちょうど川越博士が追われたので、見ていただけたんですが、とにかく記憶を失っているということだったですね」

 と言った。

 看護師は桜井が刑事であることを知らないので、余計なことを言ってはいけないと思い、最小限の話しかしなかったが。そもそも相手が刑事であっても、迂闊に話をするわけにはいかない。プライバシーの侵害、個人情報の問題に抵触するからだった。

 それにしても、桜井は時々自分が初恋と言ってもいい、聡子のことを最近特に思い出すようになっていただけに、彼女だと分かった時は本当に嬉しかった。

 だが、最初に声を掛けられた時、懐かしさを感じたはずなのに、それが聡子だとすぐに思わなかったのはなぜだろうか? もし、聡子だと悟ったとしたら、それは自分の思っていた聡子とほんの少しでも違っていたことに対して、思い込みの激しい自分に対しての戒めの気持ちがあるからだろうか。

「中学時代と、今の彼女はやっぱり変わってしまっているんでしょうね? そうでなければ、最初に彼女から声を掛けられた時、あのような不思議な顔はすることがないと思うんですけども」

 と、看護師に言われたが、

「いや、そうでもないんですよ。すぐに分からなかったのは、やはり表情が違っていたからなんですが、懐かしさは確かにあったんです。しかもこの懐かしさは誰なのかというのも分かっていたつもりでした。だからこそ、その違いを意識してしまったことで、彼女と違ってほしいというような意識が働いたような気がするんです。今ではその思いを打ち消したくて仕方のない自分もいるんですが、彼女が記憶喪失だと聞いて。打ち消してはいけないと思うようになりました」

 と、桜井は言った。

「ねえ、桜井君」

 と聡子が訊いてきた。

「何だい?」

 と答えると、

「私、高校は女子高志望なんだけど、桜井君とは離れ離れになっちゃうよね? でも私は桜井君のことが好きだから、私のことを忘れないでほしいの」

 というではないか。

 このセリフは中学時代に言ってほしいと思った一言であった。今でもその一句ずつを覚えているつもりの言葉だった。

 自分が創造した言葉を、どうして彼女がなぞるように言えるのか、それも不思議だった。

 それよりも不思議なのは、もう十年も経っているのに、あの時の言葉を一字一句忘れていない自分の記憶力が恐ろしく感じられる。

 逆に、

「僕のこの記憶力の半分でも、君に与えられたらよかったのに」

 と聡子にいうと、聡子は寂しそうな表情になり、

「桜井君、そんな悲しそうな表情をしないで」

 というではないか。

 聡子は悲しそうな顔をしているが、実はその意味は、あくまでも桜井のことだったのだ。桜井の顔を見て悲しそうに感じたら、聡子も悲しそうになり、楽しそうであれば、楽しそうなのだ。そのことが分かってくるのを感じると、聡子がとても可哀そうに思えてきた。

 本当なら悲しそうに思ってはいけないのだろうが、そう思うことで、自分の正当性を証明しようとしているようで、その思いが、聡子に言ってほしかった言葉を忘れずにいたという意識に繋がっているのかも知れない。

「僕は、どこか上から目線のところがあるんだろうか?」

 と、その思いが、聡子に悲しい思いをさせて売るのではないかと思うと、またしても悲しくなってくる。

 しかし、これが彼女を迷わせてしまっているのだと思うと、

――恋愛感情の根底は、気の毒に思うところにあるのではないか――

 と思うようになっていた。

 桜井は、ここで聡子に遭ったことを、最初はずっとよかったと思っていたが。それも聡子の無意識の意識の中にあることであれば、そういうことなのかと考えてしまうのだった。

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