第3話 記憶喪失のこと

「ところで、殺された社交さんとはどんな人だったんでしょう?」

 と桜井刑事に訊かれて、

「そうですね。直接の上司でもないし、いつも同じ事務所にいるわけではなく、たまに巡回で来られるくらいなので、詳しくは分かりませんが、何か気が弱いところがあるという話は聞いたことがあります。逆にいえば、優しいということなんだと思いますが、二代目社長ということなので、その分のコンプレックスのようなものがあるという話を工場長から聞いたことがあります。でも、今はちゃんと会社を切り盛りしているので、その情報が今は当てはまるかどうかは分かりませんね。でも、人の性格というのはそれほど簡単に変わるものではないと言います。今本当にしっかりされているのであれば、以前にあった気が弱いというウワサも怪しいものではなかったかと思えるほどですね」

 と、弘子は言った。

 弘子の話を訊いていると、彼女は結構人の性格を捉えるのが上手いように聞こえる。誰か一人でもその言葉通りだと分かれば、他のことも信用してもいいのではないかと思えるほどだった。

 弘子はまた少し思い出したのか、話を続けた。

「そうそう、社長さんは結構単純なところがあると言ってましたね。人の話をすぐに信用するところがあるので、そこが頼りないと言ってました。でも、これもウラを返せば一途で頑固なところがあるという意味もあり、軽いというわけでもなさそうに思えましたね。何しろ、たまにしか来ないので、詳しくは分かりませんね」

 と、弘子は言った。

「この事務所はどうですか? 殺された社長さんと仲の良かった方はおられますでしょうか?」

 と桜井刑事に聞かれたが。

「私が知っている限りではいないと思いますよ。工場長は社長に結構気を遣っていたのは分かっていますが。それはあくまでも、工場長として社長の視察を気にするのは当たり前のことで、私が接待の席の手配をしているんですが、他の人の、例えば営業社員の外部の人への接待よりも、工場長が社長を接待する方がワンランクもツーランクも上のところが多いですね。たまにキャバクラの領収書なんかもあったりして、一応この会社では、支店長や工場長クラスの人の接待費は他の社員よりも格段に高いんです。それは社長接待の分であることは、私は自分の仕事の前任者から伺いました。いわゆる工場長枠と呼ばれるのでしょうが、私はあまりこういうのは古臭い風習に思えて好きではないですね」

 と、明らかに怪訝そうな表情で吐き捨てるように話していた。

「これは、言いにくいことを言わせてしまって申し訳ありません。あなたとしても、死んだ人のことを悪くは言いたくないけども、一言くらいは言わせてほしいというところでしょうか?」

 と桜井刑事が訊いたが、

「まあ、そんなところでしょうか。私も本当に死んだ人を悪くは言いたくありませんけども、庶務の立場としてはいつも複雑な気持ちになっていたので、一種の愚痴のようなものだということですね」

 と聡子は言った。

「なるほどですね。この工場は会社の中でも結構古い方なんでしょう? 吸収合併されたということですが、この工場は合併された方の会社に属していた会社なんでしょうか?」

 と桜井が訊くと、

「ええ、そういうことになりますね。私は合併してからの入社なんですけど、何でも吸収された側の会社では、特許を申請している商品があって、それは時代に関係なく結構売れているものなんだそうです。その商品の姉妹品も結構売れていて、そのあたりの分野に関しては他の会社の追随を許さないという感じだったんです。そのため、社長はこの会社に目を付けたんでしょうね。いくら看板商品があるとはいえ、それだけでもっていたような会社ですから、時代が吸収合併など当たり前という時代だったこともあってか、買収し始めてから、結構早い段階で吸収合併が決まったと言います。ただ、看板商品があったというのは大きかったようで、対等合併とまではいきませんが、吸収合併というわりには、吸収された側の条件も悪くなかったようで、そういう意味ではスムーズな会社譲渡だったようですね「

 と弘子は言った。

「私はずっと警察しか知らないので、吸収合併をあまりよくは知りません。でも吸収された側は大変だということをいろいろなところから聞いてますね。それが原因で事件が起こるということも少なくはないからですね」

 と、桜井はいう、

「ところで工場長さんは何というお名前なんですか?」

「新谷工場長と言います。今日は出張で県外に行かれているので、警察に連絡してから警察の方が来られるまでに連絡は入れておきました。たぶん、昼過ぎくらいには帰って見えられると思います」

「会社の方で他にはどなたに連絡されました?」

「副社長に連絡しました。三浦副社長と言われるのですが、たぶん、もうすぐ来られるのではないかと思います」

 と弘子は言った。

「ここの工場の社員さんたちはまだ来られていないんですか?」

 と言われたので、

「いいえ、数人の人はもう来ていると思います。たぶん、事務所に入りにくいという意識があるのか、たぶん、工場の方にある詰め所のようなところにいると思います。ええ、工場の奥の方に入荷口があって、その横にちょっとした詰め所があるんですよ。昔はあちらが事務所だったと聞いたことがあります」

 と弘子が言った。

「ところで、この事務所で、カギを持っているのは誰がいるんですか?」

 と訊かれて、

「基本的には、私と工場長と、入荷の責任者の方の三人には、常駐用にカギを持っています。もし残業であったり、夜間作業でやむ負えず残らなければいけない社員は、前もって工場長の許可を貰って私が貸し出すことになっています。ノートに貴重して、合鍵を渡す形ですね」

 と言って、合鍵を収納している、木でできた小さな、壁に備え付けの、まるで巣箱のようなケースにかかっている合鍵を見せてくれた。

「ここの右端三つが事務所の合鍵です。反対側のキーは、社用車のキーになっていて、こちらも同じようにノートに貴重して使うようになっています。車のキーはさすがにいちいち工場長の承認はいりませんけどね」

 と弘子は言った。

 中を見ると、三つとも合鍵は入っていた。

「末松さんのカギを見せていただけますか?」

 と言って、桜井が訊くと、弘子はカバンの中からカギを出し、キーホルダーのようについている札に、工場事務所と書かれ、数字の二の文字が書かれていた。一番は工場長で、三番が入荷担当の主任なのだろう。

「入荷担当の主任さんというと、以前怪我をされてやめられた主任さんがいると言っておられましたが、その人は入荷担当の人だったんでしょうか?」

 と訊かれて、

「ええ、そうですよ。だからと言って、今カギを持っているわけではありませんからね。というよりも、入荷担当の主任さんがカギを返してきた後で、事務所のカギは全部変えましたのでね。なぜなら、辞めていく人はカギを返すようになっているけど、悪いことを考える人はその間に合鍵を作っているかも知れないですからね。それくらいのセキュリティはうちのような会社でも行っていますよ」

 と、弘子は言った。

 それも当たり前のことであろう。ちょっと考えれば分かることだった。

「あなたはカギを持っている。入荷担当の人はカギは持っているんでしょうか?」

 と訊ねられたので、内線で詰め所に連絡を取ると、入荷担当の主任は来ていたので、事務所の方に来てもらえるように連絡を取った。

 彼がやってくるとさっそく、事務所のカギのありかを訊かれると、彼も財布の中からカギを出してきて、案の定番号に三番がついていた。

「ということになると、後は工場長さんだけですよね。工場長が帰ってこられたら、まずそのあたりの事情を訊いてみる必要がありそうですね」

 と桜井刑事がいう。

「先ほども申しましたが、社用車での出張ですので、たぶん、三時間はかかろうかと思います。そうなると、昼頃か、少し昼を超えるかくらいではないでしょうか?」

 と弘子は言った。

「出張先というのは、この会社の別の工場か何かですか?」

「いいえ、うちの会社への出張ではなく、研究何です。広く公募されているセミナーのようなもので、その講義を受けに行っています。工場長クラスの中間管理職が受ける講習のようで、社長も推進していたということです」

 と、弘子はいう。

「この会社では、そういう研修を積極的に受けるような体質なんですか?」

「ええ、そうですね。研修関係に関しては積極的に受けさせてくれる会社であることは間違いないようです」

「なるほど、では、ここの工場長は仕事熱心な人なんですね」

「そうですね。ここの工場長は、吸収された方の会社では、社長だったらしいんです。だから、経営者としての意識もあるし、勉強熱心でないと、前の会社でも社長までは務まらなかったのかも知れませんね」

「前は社長さんだったですか?」

「ええ、そう聞いています」

 この話をしている時の桜井刑事の表情は急に変わった。どうやら、工場長が以前社長だったということに興味を持ったようだ。事務所のカギももう一人持っている人がいるとすれば、それは工場長だけだ、しかし、出張先は、車で片道三時間はかかるというではないか。三時間というと、往復するだけで六時間、さらに犯行を行い、いろいろと準備や後始末も考えると、果たして犯行は可能なのかと考えてしまう。

「昨日、この事務所は何時まで人がいたんですか?」

 と桜井刑事が訊くと、

「最後は私でした。ちょうど給与の集計や、月末処理の前準備などで忙しく、午後十時近くまで会社にいたと思います」

 と言った。

 先ほど聞いた被害者の死亡推定時刻として。

「死後五、六時間というところでしょうか?」

 と言っていたので、三時か、四時が犯行時間ということだろうか?

 そうなると、絶対に不可能ではないかも知れないということもあり、工場長のアリバイを調べる必要もあるようだ。

 アリバイを調べるのは、まずカギを持っている三人ということになるだろう。工場長と目の前にいる末松弘子。そして入荷担当の三人である。

 そして次に調べることとしては、動機の問題である。殺害されるには、何か殺される理由があるはずである。少なくとも被害者は衝動的な殺人ではないだろう。夜中に誰かが呼び出して、話し合いにはなったかも知れないが、用意していた凶器によって殺害されているのだ。そして犯人は犯行を匂わせる部分の指紋を拭きとるという行為も忘れてはいない。

 もう一つ桜井刑事が気になったのは、被害者の殺害された時の姿勢であった。おそらく前からナイフで刺殺されたのだろうが、刺されたまま床に倒れ込むわけではなく、机に倒れるように腰から上を机の上に俯せに覆いかぶさるような姿勢になった。

 そんなことをすれば、刺さったナイフがさらに身体に埋め込まれてしまうのではないだろうか。刺されてしまったことで身体がいうことを訊かずに、目の前の机にまるで助けを求めるかのように倒れ掛かったかのようにも見える。

 確かにナイフで刺されて出血していく中で意識が朦朧としてきて、予期せぬ行動にでることもあるだろうが、それにしても、妙な気がするのは、桜井刑事だけであろうか。

 もう一つ気になったのは、胸に刺さったナイフである。なぜ、犯人は凶器を胸に刺したまま立ち去ったのか? 被害者が俯せになって机の上に倒れたことで、ナイフを抜き取ることができなくなったとも考えられるが、果たしてそれだけだろうか。他のことの後始末に時間が掛かっていまい、ナイフを抜き取ろうとした時、死後硬直が始まっていて。すでにないふぃを抜きとることができなくなってしまったとも考えられる。

 なんにしても、この被害者の殺されている場面は、おかしなところが多いような気がする。桜井刑事は今までにたくさんの殺害現場を見てきた。中には第一発見の時点で不思議なことの多い殺害現場もたくさんあったように思う。だが、そのほとんどに何か理由のようなものがあり、犯人にとって無駄になることはほどんど死体のあった状態で見つけることはできなかったような気がする。

 犯行現場というものは、死体が発見されて数時間くらいしか、完全な状態で保存されることはない。まずは肝心な死体が解剖に回され、まわりの状況も時間とともに変化してくる。血液であったり、証拠になるであろうことも、時間が経ってしまうと発見することも難しくなるだろう。血痕の後も時間が経ては変色もしていくだろうし。臭いも消えていく。いくら現状保存したとしても、状況が保存されるだけで、捜査に使用できる内容は、時間とともに消えていくと断言してもいいのではないだろうか。

 それだけ初動捜査というのは重要で、例えば犯人を早期に逮捕できれば、証拠もその人を犯人だと考えて絞って捜査することができる。時間が経てば、その利点は消えていってしまい、立証も難しくなるというものだ。

 桜井刑事は、捜査に思い込みは禁物だということは分かっている。それは現場の状況証拠にばかり捉われてしまい、そこに犯人や被害者の利害関係などという動機やメンタルな部分で見落としてしまうからであろう。

 殺人現場には必ず大なり小なりの欺瞞が隠されているものだということを桜井刑事は経験から分かっていた。ここにはどのような欺瞞が隠れているというのだろう?

「ところで末松さん。最後に一度、殺害現場となった場所をもう一度ご確認願えますか? 死体はもう運び出して今、司法解剖に回していますが、最初発見された状態とどこか変わっているようなことがあれば、おっしゃってきださい:

 と言われて、もう一度、自分が死体を発見した場所まで行ってみた。

 なるほど、死体がないだけで、他は一緒だった。ただ、机の上にタオルのようなものでくるまれた何かがあったのに気付きながら、まわりを見渡していた。

「これは何ですか?」

 と訊くと、

「ああ、これは被害者の胸に刺さっていた凶器なんですよ。一度ご確認いただけますか?」

 と桜井刑事がいうので、

「あ、はい」

 と答えると、桜井刑事はタオルを持とうと手を動かしていたが、

「このナイフは、俯せになっていたおことだから、まだご覧になっていまうはずですよね?」

「ええ、首筋を触って、死んでいるのが分かったので、むやみに動かしてはいけないと思ったんです」

「そうですか、それは賢明でしたね。我々も助かりましたよ。変に指紋がついたりすると、変な疑いを持ったりしてしまいますからね。お互いに気まずくもなってしまって、このようないろいろな情報も頂けなかったかも知れませんしね」

 と言って、桜井刑事は笑った。

 これから殺害現場をもう一度見ようとするのに笑うというのは不謹慎にも感じるが、少しでも緊張をほぐしてくれようとしているのだと贔屓目に見てしまった。

 弘子は桜井が手に持ったタオルから見え隠れしているナイフを凝視した。凝視したというか、一度目に入ってしまうと、目を切ることはできなくなってしまっていたのだ。

タオルが外され、全貌が確認できると、そのナイフを見るのが初めてであることが分かった。そこで完全に目を切ることができなかったことに嫌な予感を感じていたが、そんな予感というのは当たるもので、後から思えば、

「やっぱり」

 と感じたのだが、それは明らかに後の祭りだった。

 ナイフの刃の部分を見ていると、そこに光が反射し、弘子の目をついたのだ。

「わっ」

 と声を挙げて、顔を背けたが、時すでに遅しであった。

 一瞬目の前が真っ暗になったのを感じた。額が急に熱を持ったような気がして、頭がボーっとしてきた。これは、頭がボーっとしてくるという意識にさせることで、この後襲ってくる苦痛に耐えられるようにしようという、囁かなる抵抗だったのだろう。

 だが、襲ってきた恐怖を避けることはできず。一気に頭痛となって襲ってきたのだ。

「うう、痛い」

 と言って、その場にうずくまってしまった弘子は、

「大丈夫ですか? しっかりしてください」

 という声を遠くの方に聞きながら、目の前にシルエットのように浮かんだ桜井刑事の顔がだんだん大きくなっていき、まるで自分を襲う正体不明の男のように思えて、その恐怖を感じたまま、意識を失っていったのだ。

 気がついた時には、まったく違う場所に寝かされていた。簡易ではあるがベッドに寝かされているのを感じると、まわりの壁がやけに白く。まわり全体が城で着色されていることを感じていた。

「ここはどこなのかしら?」

 と軽く口にして、身体を起こそうとすると、身体が痺れて起き上がることができない。左腕の肘のあたりに痛みを感じた。針が刺さっているようで、よく見ると、自分は点滴を受けているのだった。

「そうだ。確か、光るものを見た気がした。光るもののせいで頭が痛くなって、それから黒い影が、大丈夫かと訊いていた」

 というところまでは覚えていた。

 だが、それ以前の自分がどうしていたのかが分からない。何か大きなショックがあったのは覚えているのだが、それが何だったのか、分からない。今の状態を見ていて想像できるのは。ここが病院であるということ、意識を失って、ここで点滴の治療を受けているということだけだった。ここがどこの病院なのかも想像はつかないが、会社から一番近いところであれば、K大学病院であるだろうと覆った。

 そう思うと、自分が朝出勤するところまでは思い出していた。どうやら記憶がないのはそこから先で、事務所にどうやって入ったかということもハッキリと思い出せるものではなかった。

――本当にどうしたというの?

 目の前にまるで髪の毛か、糸くずのようなものが見える。

――そうだ、飛蚊症のようなものかも知れない――

 と感じた。

 今までに飛蚊症のようなものを感じたことが何度かあった。本を見ていたり、何かに集中していると、急に目の焦点が合わないような気がしてくると、見ている字がまるで虫メガネでも見ているかのように、丸くなったその部分だけが大きく、そして湾曲して見えるのだった。

――老眼鏡ってこういうのかしら?

 などと思っていると、そのうちに飛蚊症も少しずつ治ってくる。

 最初の頃は、

「よかった」

 と一安心したものだったが、それは実に甘い考えだった。

 恐ろしいのは目がハッキリと見えるようになってからのことで、そのうちに、今度は頭痛が襲ってくるのだった。目がだいぶ治ってからのことではあったが、次第に眉の上あたりが痛くなってくる。気難しい人が眉間にしわを寄せることがあるが、まさに自分がそんな難しい表情をしているのではないかと思っていると、痛みは頭全体に回ってくる。どこかで痛みの感覚がマヒしているのではないかと思うほどの痛みがあり、それは痛みを意識しないようにできないかという無意識に起きる本能のもののようではないかと思っていた。

 その痛みはまるで虫歯のような痛烈な痛みであり、確かに虫歯の時も、痛みを少しでも和らげようと何も考えない時は、一瞬痛みを忘れることができるが、そんな状態が長く続くはずもない。

 もうそうなってくると頭痛薬も通用しない。気休めだとは思って頭痛薬は一応飲んでみるが、やはり効いてくるという意識はない。それどころか、今度は吐き気を催してきて、胃に痛みがするくらいであった。

 ひどい時には、意識を失いそうになるくらいで、こういうのを片頭痛というのではないかと感じる。偏頭痛とも書くようだが、まるで扁桃腺の痛みのようで、どちらかというと、弘子は偏頭痛と書きたい方だった。

 身体の特徴からか、低血圧の女性の方に多く見られるというが、本当なのだろうか? と考えたこともあった。

 飛蚊症が偏頭痛を引き起こすのか、偏頭痛の前兆が飛蚊症なのかは分からないが、今までに何度も会ったパターンなので、飛蚊症を感じると、その後の偏頭痛がセットで襲ってくると思い、恐怖に感じていた。

 それでも、最近ではあまりなかった症状だった。

 それだけに、久しぶりに飛蚊症を感じると、怖くなったのも無理もないことで、久しぶりなだけに身体が慣れていないことで、いつもよりも強力な偏頭痛に見舞われるのではないかと思ったのだ。

 この日は偏頭痛よりも、貧血気味であった。手足のしびれを感じていたような気がする。顔が熱くなってきたかと思うと、まわりの声がまるで温泉の中にいる時のように遠くで籠って聞こえるようだった。まるで自分でありながら自分ではないと思っていると、

「このまま気を失ってしまいそうだ」

 と思い、その予想は見事に当たって、気を失ってしまったのだ。

「ひっぱたいても、起きる気配がなかったので救急車を呼んだ」

 と同僚の人から言っていたようだ。

 その人は、弘子に飛蚊症から偏頭痛の気があるのは知っていたが、貧血になるということは知らなかったと言っていた。

 今まだ弘子は、まだ夢の中にいるような気がしていた。

「いつもだったら、ここまで意識が戻っていれば、起きるはずなのに」

 と思うのに、その兆候はなかった。

 だが、それは夢ではなかった。

 いや、夢に違いはないが、眠っている時に見る夢ではない。起きているのに見ている夢であった。目の前には知っている人の顔が浮かんでいるが、皆こっちを見ながら、、まったくの無表情だ。

「皆私を忘れてしまったの?」

 と訊いても何も言わない。

 どうやら、弘子は夢の世界に閉じ込められたようだ。

 ということは、本当の弘子は目を覚ましていないのだろうか?

 いや、目を覚ましていて、やはり皆に見つめられている。

「大丈夫なの?」

 と心配そうに聞いているが、弘子はまったくの無表情だ。

 まるでパラレルワールドが存在しているが、一つの世界にしか弘子は存在できないようで、もう一つの世界に取り残された弘子は、いわゆる現実の世界では抜け殻のようになっているのであった。

 弘子は頭の中で分かっているつもりでいるのdが、兄か話が通じない。先ほど気を牛穴った時に見た光の影響がずっと続いているようで、現実世界との隔絶は、何かの結界を感じさせるもので、まわりの人間がどうかしたのではないと思っているのは、弘子だけだった。

 だが、弘子の中にそんな気持ちがあるからか、現実世界では、まったく別人格を持った弘子がいるようで、そんな弘子を見て医者の診断は、

「記憶喪失のようですね。ただですね、これは普通の記憶喪失とは違うものではないかと思うんです。確かに本人の症状は確かに記憶喪失なのですが、本人の心の中では、正常だと思っているようです。逆に我々がおかしいと思うようなですね。ひょっとすると記憶喪失というものがすべてそういう現象で、記憶が戻った時、そう感じたということを忘れてしまうことで、その人は初めて現実社会に戻ってくれる要因になるのではないかと思います」

 と言っていた。

 警察の方としても、

「いまいち、よくは分かりませんが、要するに記憶喪失になってしまったということでよろしいんでしょうか?」

 と桜井刑事が訊ねた。

「まあ、そういう感じでいいと思います。たぶん、他の記憶喪失と原因は違うんでしょうけどね」

 と医者は言った。

「というと?」

「他の記憶喪失では、精神的に思い出したくないショックを受けたり、外的に頭を殴られたりしてのショックからがほとんどなんでしょうが、彼女の場合は、どうやら目から来ているようですね。何か閃光のようなものを見て、目の感覚がマヒしたことで、パニックに陥り、それが記憶を失う原因だったのではないかと思われます」

 と医者は言った。

「なるほどですね。では、治る可能性についてはどうなんでしょう?」

 と桜井刑事が訊くと、

「治る確率は他の記憶喪失に比べれば高いと思います。それに結構早い段階で治る可能性は高いです。しかし、逆に長引くと、今度は治る可能性が急激に落ちてきて、そのまま行くこともあるでしょう。そのあたりが難しいと私は思っています」

「分かりました。それではよろしくお願いします」

 と言って、桜井は先生に任させることにした。

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