ボスの言葉
「まぁ、そういうことだ。次からちゃんと納めてくれればいい。さあ、今日はもう帰るんだ」大きな椅子に座り、黒いスーツに身を包んだ恰幅のいい男はそう言った。この男はマフィアのボスである。カーテンは閉め切っているため、部屋は暗く、顔はよく見えないが、それがより一層威厳を感じさせるのだった。「すみません、本当にありがとうございます」向かい合ってソファに座っていた老人は立ち上がり、何度も頭を下げながら部屋を出ていった。ソファにはもう一人40代くらいの男が座っていたのだが、老人が出ていったため取り残されるかたちになった。もっとも、彼は老人とは面識がない。共通点と言えば、上納金を納めていないということである。
「ボス、どうして奴を許すんです?奴はこれで3回目ですよ」とボスの横に立っていたトニーは言った。するとボスはゆっくりと葉巻を口にくわえると、マッチを擦って火をつけた。マッチに火が付く瞬間、ボスの顔が一瞬暗闇に浮き出た。その目は、ソファに取り残された男を見ていた。ボスは何度か葉巻をふかすと、ゆっくりと吸い、煙を吐き出した。そして、「エンツォ、奴を追いかけて殺せ。遺体は沈めろ」と言った。ドアのすぐそばに立っていたエンツォは何も言わずに部屋を出ていった。そのままボスは立ち上がり、ソファに座る男に向かって歩いていくと、その横に座り、肩に手を置いた。「すまない。待たせてしまったな。たしか上納金が払えないということだったが……」「すみません、すぐに払わせてもらいます」男は声を震わしながら言った。「そうか、別に何もせかすつもりはない。払えるようになったらでいいのだがな」「いえ、ぜひ払わせてください。この通りです」「そうか、わかった。今日の夕方5時にお前の店に取り立てに行かせる。さあ、もう行け」「ありがとうございます。ありがとうございます」そう言いながら、男もまた何度も頭を下げながらそそくさと逃げるように部屋を出ていった。
「いいか、トニー」男が部屋から完全に出ていったことを確認すると、ボスは上目遣いで話し始めた。「人間の恐怖の源は想像力だ。暴力じゃない。あの男はあの男自身の想像力によって恐怖したのだ。この想像力をいかに使うかが肝心だ」そう言い終わるやいなやエンツォが部屋に戻ってきた。「殺しを頼むときはエンツォではなく、マルコに頼む。エンツォはそのことをわかっているから、ただ部屋を出ただけだ。老人は死んじゃいない。ただ、あの男は老人が死んだと思っている。そして、『ボスは上納金を納めない者を殺す』と周りに言う。すると、他の人々も私を恐れて上納金を素直に納めるようになる。もっとも、私は老人を殺していない。このことも、風の噂か、人づてか、いずれ彼らは気付く。すると、今度は彼らは私がどんなに慈悲深い男であるかと思うようになる。私の言葉一つでだ。いいか、大事なのは言葉の使い方だ。想像力だ。わかったか、トニー」そう言うと、ボスは葉巻を吸い、煙を吐き出した。白い煙はじんわりと広がり、部屋に溶けていった。
「はい。最近は若者が私の店でいたずらばかりするので、商売あがったりなんです。え?どんないたずらかって?奴ら、テーブルの上に置いてある塩や胡椒の小瓶を舐めたりするから、気持ち悪がって客が来ないんです。はい。はい。ええ。お願いします」そう言うと男は頭を下げ、部屋から出ていった。その男は以前上納金を納めていなかったあの男だった。なんでも、彼はイタリアンレストランを経営しているのだが、若者のいたずらに困り、ボスに助けを求めに来たのだった。それは、ボスの言っていたように、彼がボスの慈悲深さに気付いたことを意味した。それで、トニーとアンジェロで彼の店に行くことになった。
その日の夜、トニーとアンジェロは店全体が見渡せる壁際の席に座っていた。二人はボルサリーノを被り、コートで身を包んでいた。「来た。奴らだ、トニー」若者は四人組で、乱暴に席に着いた。酒瓶を片手に酔っぱらっているらしかった。アンジェロは広げていた新聞紙を折りたたんでテーブルに置くと、席を立ち、若者の方にゆっくりと歩いて行った。トニーもそのあとに続いた。アンジェロの身長は約2メートル、体重は100キロをゆうに超えているので、若者はすぐに二人に気付いた。
「おっさん、トイレはあっちだ、ここじゃない。それとも脂肪が邪魔で前が見えないのか?」若者の一人がニヤニヤと笑って言った。ヨレヨレのシャツは胸元が空いていて、胸毛が汗で濡れている。「おっさん、聞こえないの?耳に脂肪でもつまってるの?」若者四人は下品に笑った。アンジェロはポケットに手を入れたまま何も言わなかった。その後ろでトニーもポケットに手を入れたまま、静かに動向を見守っていた。
「脳みそは空っぽなんじゃねえの」若者は大笑いしたが、突然、「おっさん、あんまり調子に乗るなよ」さっきまで笑っていた若者の一人がポケットからナイフをチラつかせた。「俺たち楽しく飯を食いたいだけなんだし面倒はよそうぜ。なあ、おっさん」
と、アンジェロは静かに口を開いた。「ドン・リッチャレッリの言葉だ。二度と店に来るな」その言葉を聞くやいなや、四人の顔色がみるみる間に変わった。そして、何も言わず一目散に店から出ていった。トニーは逃げるように去っていく四人の背中を見た。やがてその背中は小さくなり、夜の闇に消えていった。
「いいか、トニー」アンジェロはさっきまで若者が座っていたテーブルに目をやりながら言った。「ボスの持つ影響力は言葉にも及ぶ。ときには、その言葉は暴力以上の力を持つ。その力は絶大だ。いい意味でも、悪い意味でも」アンジェロがポケットからタバコを取り出したので、トニーはマッチで火をつけた。「耳に脂肪がつまった人間も、脳みそが空っぽの人間もいない。人間は耳で聞いた言葉を理解するために必死に脳みそを働かして想像するんだ」トニーはテーブルに残った倒れた酒瓶をじっと見つめながら、アンジェロの言葉を聞いていた。その後もアンジェロの話は続き、店主からもお礼の言葉を言われたが、トニーは覚えていなかった。ただ、倒れた酒瓶が目に焼き付いて離れなかった。
それから、月日が流れた。ファミリーの評判は落ち始め、激しい抗争が起こった。その抗争でアンジェロは死んだ。ある日、トニーはボスに呼ばれ、部屋に入った。
トニーがソファに座るなり、ボスは話し始めた。「トニー、最近ファミリーの評判が落ちているのは知っているな。ファミリーにとって評判はとても重要だ。評判が落ちると、影響力も落ちる。影響力が落ちると、他のファミリーの影響力が上がる。結果、抗争が起きる。アンジェロの尊い犠牲があって何とか抗争はおさめたが、次はわからない」トニーは何も言わず、話を聞いていた。「トニー。どうして評判が落ちたか知っているか?」トニーは黙っていた。「私の名前を出して、ゆすりをしている男がいるという噂を私は耳にした。その男はどうやらファミリーの一員らしい。トニー、その男が誰だか知っているか?知っていたら教えてくれないか?」
またしてもトニーは何も言わないので、ボスは静かにつづけた。「トニー、教えてくれないか?」しばらく沈黙があったあと、トニーは耐えきれず言った。「ボス、俺がやりました。申し訳ありません。この通りです」トニーは頭を床につけて謝った。「トニー、私は怒っていない。正直に言ってくれたのだ。頭を上げるんだ」トニーは泣きながら謝り続けた。「トニー、私は怒っていない。さあ、もう行くんだ」トニーは泣きながらボスに感謝した。トニーは深く反省した。ボスはなんて慈悲深い人なんだ、こんなにも慈悲深い人を俺は裏切ってしまったんだと思いながら、部屋を出ていった。
トニーが部屋から出ると、ボスは立ち上がり、カーテンで閉め切られた窓を見た。そして一言、「マルコ」と言った。マルコは何も言わずに頷くと、静かに部屋を出ていった。マルコが出ていくと、部屋の厚く重いドアはゆっくりと閉まっていった。
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