第5話 工場長はどこに
遥香の証言は、何が言いたいのかよくは分からなかったが、言いたいという意思を持って、刑事を訊ねてわざわざ現場に来たのだろうと思えた。ひょっとすると、彼女自身、自分が何を言いたいのか整理できていないが、言わなければ気持ちが変化してしまうことを恐れたのかも知れない。若い子にはありがちなことで、特に思春期などは、今まで考えていたことを忘れてしまうことがある。それはきっと、同じことを考えていても、頭の中の環境が変わってしまったことで、何が言いたかったのかを見失ってしまったことで、見えていることまで見えなくなってしまっているのかも知れない。
まだ、十九歳になったばかりの高校三年生、大学受験を控えているのか、精神的にも不安定な時期であることは察しがつくというものだ。
母親と同じところがあるのは分かっている。しかし、母親はお嬢様のレッテルがあるためよく分からなかったが、遥香にはそれがないので、分かりやすかった。
――彼女たち親子は、基本的に気が強いんだ――
というものだった。
母親に対しての娘は明らかに憎悪に満ちていた。それは、母親のそんな性格が自分に遺伝したのだという不確かなことではなく、もっとリアルにハッキリとした形のものが彼女をそういう態度に出させたのかも知れない。
浅川刑事は、遥香から聞いた話を参考にはするつもりでいたが、完全に鵜呑みにしているわけではなかった。むしろ、こちらをミスリードしているのではないかと思うようにもなっていて、
「全面的に信じてはいけない」
と思わせた。
ただ、母親に対しての怒りは、まるで父親をあんな風にしたのが母親だと言いたかったような気がして仕方がなかった。そして、父親も誰かにその性格のために、影響を及ぼしているのではないかと思った時、ここの工場長が弟であることを思い出した。彼の失踪がこの事件に関わっていることは間違いないだろう。あからさまに同じ日にいなくなったのだから。
工場長の行動パターンは、大体片桐氏が握っていた。彼の遊び癖を気にして、お目付け役にした先代も今はいない。まだ五十歳代だというのに、交通事故に遭って、あっけなく亡くなったのだ。
「その存在の大きさに反して、亡くなる時って、本当にあっけないものなんだな」
と片桐が言っていたのが印象的だった。
いきなり工場長に引き上げられた悟も、さぞやビックリしたことだろう。まさかあんなに簡単に死んでしまうなんて、前述の片桐のセリフ、そっくりそのまま自分が両親に送りたい気がしていた。
悟も一度は気が弱くなったのか、恥を忍んで兄のところに、
「戻ってきて、俺と一緒に工場を盛り上げてくれないか?」
とお願いに行ったのだが、兄はなぜか、けんもほろろに断ったという。
しかも、
「どの面下げて頼みに来ているんだ」
とばかりに罵声を浴びせたという。
「何か、二人の間に誰も知らない秘密でもあるのか?」
とウワサされたほどだったが、兄が亡くなって、弟が失踪中ということもあり、今また思い出されたが、その答えは分からずじまいになってしまいそうな気がしてならなかった。
その話を訊いた時、
「それが動機なんじゃないか? 頼みに行ったのに、けんもほろろで見捨てられたという恨み」
という人もいたが、
「じゃあ、それならそれで、どうして今なんだい?」
と言われて、何も言えなくなった。
この証言が真相に遠いとは言えない気がするが、結論付けるには早急すぎるというべきであろう。
工場長の足取りを洗うには、まず彼の遊び場を洗う必要があった。ソープにキャバクラ、そしてスナックと、夜の街を謳歌しているようだった。幸いなことに、それぞれの分野に馴染みの店は一つずつ、基本的には片桐の知っている店が多かった。
というよりも、片桐が把握している店にいることが遊ぶ条件であり、その店で何か起こったとしても、片桐には対処できるが、他の店で何か起こっても、対処できないということを言われてしまえば、おのずと行く店は決まってしまう。
実はそのことに不満を持っていたことで、何とか他に開拓できる店をとも考えたが、しょせんは若くして工場長になったのも、スライド式ということで、自分の力ではない。それをあたかもまわりに、
「すごいわ、その年でK市の工場長さんだなんて」
と、夜の街の女性はそのあたりの社会に仕組みに関しては、他の人よりも詳しい。客からいろいろ聞くこともそうなのだが、彼女たちが生き抜くために必要な知識だからであった。
お世辞と分かっているだけに、明らかなおべんちゃらは、耳が痛いだけだった。それよりもまだ、知っている店の方が気楽というものあったのだ。
まずは、ソープに行ってみることにした。そこの店は珍しく女性経営者であった。年齢的には五十歳くらいのマダムであったが、経営に関しては確かだと、片桐から聞いていたので、見た瞬間、なるほどと感じた。
「ああ、春日井さんなら、ここ最近来てないわね。ええ、お気に入りの娘がいただけどね。最近辞めたんですよ。それでそれからほとんど来てないんじゃないかしら?」
と言われて、
「それはいつ頃のことなんです?」
「一月くらい前のことかしらね。それまでは毎週来てくれていたのよ」
「客としてはどうだったんだい?」
「いいお客さんでしたよ。女の子からも人気があったし、あの優しそうなマスクで、本当に優しかったのよ。ちゃんと気を遣ってくれて、聞いてはいけないことなどもわきまえていてくれて、決して女の子に無茶ぶりもしない。だから、女の子からも人気があったの。あれで工場長さんなんだから、理想のお客さんというところでしょうか?」
と、べた褒めだった。
「春日井さんは、本当にいい人よね。飾るところがないの。でも、たまにとても寂しそうな時があって、そんな時は声を掛けられないほど気の毒でね。そんな時は、一艘妖艶にお相手してあへるようにしているの。そうすると、最後は元気を取り戻すことができた。ありがとうって言ってくれるのよ。私。涙が出るくらい嬉しかったんだから」
という女の子もいた。
「でもね、お気に入りの女の子ができて、彼女ばかり指名するので少し嫉妬したんだけど、見ていてお似合いだったのよ。うまくいってほしいって思っていたんだけど、彼女には重荷だったのかも知れないわね」
とその女の子は言った。
「じゃあ、その子が辞めたのは、春日井さんのせい?」
「せいにしては春日井さんが気の毒なんだけど、彼女も彼女なりに春日井さんのことを思っていたんでしょうね。いきなりやめていったんだから」
ということだった。
「春日井さんは、相当途方に暮れていたんじゃないかい?」
「ええ、あの時の後ろ姿忘れられないわ。私たちには慰めてあげることはできないと確信したもん。それからたまに、彼女の消息を聴きにきたことがあったんだけど、また肩を落として帰っていくだけだったわね」
と、彼女は、入り口を皆がら、虚空に引き込まエルかのような表情になった。その場所に春日井の残像でも残っているかのようであった。
春日井という男、表の顔と裏の顔ではかなり違っているようだった。
表の顔はあまりいいイメージのない。ハッキリとしない男のようだが、少なくともソープでの彼の印は、これ以上ないというほどのもので、
――これが同じ人間への評価なのか?
と感じさせるほどのもので、風俗の女の子の目がかなり肥えていて、こちらの知りたいことをしっかり捉えてくれていることを今までの捜査の経験から知っていた浅川は、結局春日井という人物への印象を変えざる負えなかったということのようである、
「最近、春日井さん、キャバクラにはよく顔を出しているということのようですよ」
と教えてくれた。
「どういうことだい?」
「寂しさも境地を超えると開き直るというのか、それまでに表に出なかった、もう一つの性格が表に出てくるんじゃないかしら? 騒いで忘れたいという思いがあるんじゃないかしらね?」
という話を訊いた。
本当に彼はソープでの評判はいいようだった。ただ、その時、彼のお気に入りであった睦月という女の子が行方不明になっていることを、教えてもらえなかったのは、残念なことであった。
その情報を持って、次には、彼がよくいくキャバクラに出かけた。そこでは、数人のキャバ嬢がいる中で、冷静な目を持っているアキと、春日井のことを好きになっていたゆりなも一緒に浅川刑事の話を訊くことになった。
「ええ、春日井さんなら、私たち皆知っているわよ。お金払いもいいし、別に変なことをしてくるわけでもない。それに彼には他のお客さんとは来店目的が違っていたような気がするのよね」
と、アキが話をした。
「そうそう、あの人は、女の子に相手をしてもらいたいというよりも、自分が私たちを楽しませてあげようという意識があったのかも知れない。たまにうんちくのような話もしてくれたんだけど、それ以上に押し付けのような強要の強制はなかったから、話しやすかったわね」
と他の子も言った。
「寂しさを紛らわせる時に来ているような気がする時もあったわ。きっとあの人は指名しるキャストをその時の心境で決めていたのかも知れない。私の時は寂しさを紛らわせる時が多かったのよ。そういう意味では最近私が多かったでしょう?」
と言われて、皆口々に、
「そういえばそうね。あなたの言うとおりだわ。よく見てるじゃない」
「ええ、皆は春日井さんの話をする時、楽しそうな話が多いので、変だなって思っていたのよ。でも、最近になって彼を見ていると分かってきたの。彼には心に思っている人がいるんだけど、告白する勇気がなかった。それはきっと、風俗の女性だったんじゃないかってね」
と言って神妙になっている彼女に、
「それ、分かる気がするわ。私は別に春日井さんのことを好きでも嫌いでもないんだけど、おかげで冷静な目で見ることができるようになったの。だから分かるんだけど、春日井さんは確かに好きな人がいてそれを本人に告白できないのが辛いんじゃなくて。自分の立場から、どうしようもない自分に苛立ちを覚えていた気がするのよね。本当に古臭いんだけど、まるで江戸時代の花魁と出入りの人の禁断の恋のようなイメージね」
とアキが言った。
「でも、あの人は、それでもいいと思っていたような気がするんですよ」
と言ったのは、春日井のことを好きになっていたゆりなだった。
「あの人は、運命を受け入れることが自分の宿命だって思っているところがあって、どこか諦めのようなところがあったの。私はそこに共感して好きになったんだけど、これって本末転倒な気がして、諦めようと思っていたんだけど、そんなある日、春日井さんが一人の女性と睦まじく歩いているのよね。煌びやかな感じなんかまったくなく、みすぼらしさすら感じさせる彼女を庇うようにしながら、まるで二人三脚でもしているかのように見えた二人は本当にお似合いだった。それを見て私は本当に諦めなければいけないと思ったのよ」
と、ゆりなが続けて話をした。
この話は皆初耳だったようで、
「そうだったも? それはいつ頃のこと?」
とアキが訊くと、
「先週くらいかしらね。春日井さんはその女の人から決して目を逸らそうとはしなかった。その女性もしっかりと春日井さんを見つめていたの。まるでこれから心中でもするんじゃないかって感じがしたくらいだわ」
とゆりなが言った。
――先週? というと、ソープで彼のお気に入りがいなくなってから後のことではないか?
それを聞いて浅川刑事はその女性が、ソープにいた女性であり、まわりの目を欺くためなのかは分からないが、結果として欺くことになったということを確信した気がした。
「それはどのあたり?」
と浅川刑事が訊くと、
「境田町の路地を入ったところ」
ということだが、そのあたりというのは、K市独特の経済圏の中で、いまだに残っている日雇いという人たちの仮住まいのようなところだった。
そういう意味では身を隠すにはちょうどいいところだったかも知れない。
さすがに、日雇いの宿というようなまるで昭和のような家は残っていないが、今でいうウイークリーマンションや、マンスリーマンションのようなもので、その走りと言ってもいいだろう。
期間工のような立場の人たちに、一定期間、家具や電気製品を付加しての賃貸。だから、敷金も礼金もいらない。家賃は日払いで、一か月の契約で二週間しかいなかったとしても、そこで違約金が発生することもない。それだけ需要も高いということだ。
この土地では、大きな会社が存在しているわけではない。つまり終身雇用や年功序列もない。非正規雇用であったり、派遣などという考え方が、ここではずっと昔からあったのだ。
時代がやっとこちらに追いついたというべきなのだろうが、追いついたまわりの時代がまずかった。バブルが弾けたり、大企業が生き残ろうなどとしている世界なので、非正規雇用や派遣を最初に切るという乱暴な状態になるのだ。
非正規雇用は最初に一応非正規で雇っておいて、皆平等に教育を受け、その中で残っていく社員を競わせるという形で、年齢が進めば、自然と正規社員になるという形である。こうなると、臨時社員もいることで、少々工場が危なくなっても、臨機応変に対応できる。これが、K市の最大の魅力だったのだ。
おかげで自殺者もいない。殺人事件もほとんどない。さらに詐欺などの怪しい連中の入り込む隙間もない。治安がいいのも当然というものだ。
それでも、期間工がうまく回らなくなると、危ない会社も出てくる。その時は銀行に積み立てておいた資金が役に立つ。
このあたりの会社や工場は、いつ何があってもいいように、銀行を貯金箱のように使っている。
銀行も、他の土地のように、融資を募ったりしなくても、預貯金だけで、十分に賄える。資金繰りについても銀行が後ろ盾にいれば、企業もうまくまわる。不良債権も中にはあるかも知れないが、そもそも貯金が担保のようなものだ。
融資も他の土地のようになかなか受けてくれない状態ではないので、手遅れになることもない。一つがうまくまわると、すべてがいい回転となるといういい例ではないだろうか。
そんな街の住宅街の奥の方にあるのが境田町と呼ばれる一体で、最先端のマンション設備と家具や電気製品。新婚夫婦が仮の住まいにすることも結構ある。したがって、不倫のカップルがしけこむにはちょうどいいところであった。
実際に、このあたりは不倫の人も結構いるようだ。だが、これも他の土地と違って、それほど大きな問題にならない。
これがいいのか悪いのか、すべてがお金で解決できるのだ。だから、不倫を重ねる人は後を絶えない。一度見つかったくらいで不倫などやめられないと思っている人も結構いる。それは男であっても女であっても同じことで、そういう意味でもこのK市というところは、男女での差別というのもあまりない。
「男女の差別はないかわりに、女性にも男性同様の義務と責任がのしかかってくることを覚悟してくださいね」
というのが、K市における男女均等の考えだった。
「他の土地は、女が平等だと言っていることに胡坐をかいて、女が義務も責任も考えようとしないから、混乱が起こる。男が何か失言をしたからと言っても、自分たちが義務も責任も果たしていると言えば、別に気にすることではない。そんな一言を気にしないのは、その言葉を認めているからで。その誹謗中傷を、誰よりも間違っていないと思い込んでいるから腹が立つんだ」
というのである。
それはそうであろう。権利を主張するのであれば、義務や責任を果たしてからいうことであって、
「女性は男性と違って」
などと言い出せば、最後、本末転倒で何も言えなくなってしまう。
それだけ、言葉には気を付けないといけないということだ。
中には政治家のように、記者会見と言って、原稿ばかりを見て、まったく訴えようともしないやつもいる。そんなやつが首相だったりするから、日本という国は怪しい国になってしまう。そういう意味では、K市のような先見の明のある都市があってもいいのではないか。今のところすべてがうまくまわっている。それを思うと、もっと、K市というのが日本全国に、いや世界に対して誇らしく発信されてもいいのではないだろうか。
きっと、国のトップがそれを抑えているのだろう。他の土地もすべてで、
「俺も俺も」
などとなると、お金もかかるし、世間が混乱し、ひいては自分の立場が危うくなる。
K市はあくまでもモデル都市なのだ。
境田町はそれなりにセキュリティもしっかりしていて、一応、このあたりを一括管理している会社も存在していた。基本的に、一か月以上借りる人は登録が必要で、町全体を管理している会社が一つあり、その他に区画ごとに管理しているところが四つあった。その四つに登録されている人の詳細なデータがあるようで、一つ一つ回ってみると、三つ目の会社で、問題のカップルと思しき二人が借りていることが分かった。
さっそく訪ねてみた。
「すみません」
と、オートロックの呼び鈴を押すと、女性が出てきた。
貸してもらった写真のゆりなさんに間違いないようだ。
「こちら、K警察の浅川というものですが、少々お話をお伺いしたいのですが」
といって警察手帳を提示すると、相手は少し訝しがったが、すぐにオートロックを開けてくれて、
「どうぞこちらへ」
と言われたので、さっそくお邪魔することにした。
最初に訝しがりはしたが、いきなり警察の訪問を受けたのだから、
「最初は誰でも訝しがるものだ」
という十分にありえるだけの時間であった。
表札には、
「春日井悟」
とあり、偽名を使っているわけでもなかった。
そういえば、見せてもらった登録簿にも職業欄に、
「春日井板金工場の工場長」
と書かれていたっけ、工場長であれば、金銭的な問題もないし、保証人も会社の片桐氏ということになっていたので、貸主にしてもこれ以上安心することもない。
ここは一か月以上でも、半年以下であれば、保証人を絶対とうわけではない。一応、半年未満の契約だったので、春日井にしても、片桐にしても、恋愛関係がどれほど長く鳴ろうとも、愛の巣としてここを利用するのは、半年未満としているのだろう。
ひょっとすると、半年未満で飽きてしまうという、最初からの考えがあるのかもしれない。
「警察の方が、どういうご用件でしょうか?」
と、まったく悪びれた様子を見せないゆりなであったが、
「実は、こちらのご主人である、春日井悟さんにお話があって参ったのですが、ご主人はご不在でしょうか?」
と言われて、それでも、別に動揺することはなく、
「ええ、朝、仕事にいつも通りに出かけましたけど、それが何か?」
とゆりなは答えた。
この様子を見ている限り、ゆりなという女性は今何が起こっているのか分からないようだ。もしこれから話をしていく中で動揺が走るとすれば、それは何も知らなかった人間が急に恐ろしいことを聞かされた時のショックなのか、それとも、知っている訳アリの話を突きつけられての動揺なのか、その見極めが必要であると、浅川は感じた。
とはいっても、言わなければいけないのは間違いないことで、多少なりともショックを受けるはずだ。逆にリアクションがなければ、よほど鈍いのか、それとも、感情を表に出さないというのが普段からの性格なのか、どちらかではないだろうか。
「実は、今朝、春日井板金工場で殺人事件がありまして、被害者はご主人のお兄さまに当たる川崎直哉さんなんですよ」
と浅川刑事は言った。
「まあ、直哉さんが殺されたんですか?」
とゆりなはいったが、これは少し意外だった。
「あなたは、川崎直哉氏をご存じなんですか?」
と言われたゆりなは、
「警察の方がこちらを訊ねてこられたということは、私のことも分かっていらっしゃるんですよね?」
と訊くので、
「ええ」
と浅川刑事が答えると、
「そうですか。じゃあお答えいたしますが、直哉さんはうちのお店のお客さんでもあったんです」
「というのは、ご主人が連れてこられたわけではなく?」
「ええ、そうです。まったく別々のお客さんだったんですが、偶然お店で出会って、二人ともビックリしているようでした。私たちも、二人が雰囲気も容姿もまったく似ていないし、名字も違っているので、まさか兄弟だったなんて、想像もしませんでした。それを思うと、偶然というのは恐ろしいと思いましたね」
と、こちらも悪びれずに話してくれた。
ここまで話を伺った感じでは、ゆりなの話に何ら疑わしいところはなかった。むしろ実に自然な受け答えで、知らない人は、普通の主婦だと言われて、信じて疑わないに違いない。
「じゃあ、あなたも、川崎氏のことをご存じなんですね?」
「ええ、でも、それほど詳しいというわけではありませんよ。お客さんとしては、いいお客さんだったと思います。接客していて安心感があったのは、春日井さんよりも、直哉さんの方だったからですね」
「そうだったんですね? 直哉さんはよくお店には来られていたんですか?」
「いいえ、最初はそんなに来ることはなかったんですが、お役の中に弟がいるということを知ってから、よく通ってこられるようになりましたね。普通なら逆ではないかと思うのですが、きっと直哉さんは春日井さんを意識していたんでしょうね」
という話を訊いて、
――こんなことなら、さっきお店に行った時、殺人事件の話をすればよかった――
と思った。
まさか、被害者が常連だったなどと思いもしない。お互いに距離を置いている兄弟がまさか同じお店の常連同士だったなんて、思ってもみなかったからだ。
「そうですか。でも今あなたは、春日井さんとご一緒にお住まいなんですよね? 失礼ですが、ご結婚の意志はおありなんでしょうか?」
と言われたゆりなは、少しビクッとしたようだったが、すぐに平静を取り戻して、
「まだ同棲状態なので、どうなるかは分かりませんが、気持ち的には結婚も考えています」
と言われた。
彼女は、おそらく事実に対しての話よりも、精神面での話の方に反応するようである。かといって、キャバクラのキャストと常連客という間柄での同棲状態、今の反応も想定内のことだったので、彼女に対して精神面での話の奥深くを引き出すことは難しいのではないだろうか。
「ところで、直哉さんが殺害されているとすれば、主人はどうしたというのです? 警察の方が今こちらに来られたということは、主人は会社にはいないということでしょうか?」
と、話の流れから、結構早い段階で分かっていたのだろうが、刑事がなかなか切り出さないことで痺れを切らせたのか、ゆりなは自分から質問をしてきた。
やはり、彼女は春日井のことが心配なのだろう。ただ、その心配は愛情からの心配なのかどうか、ハッキリとは分からなかった。
「ええ、工場長は会社におらず、片桐さんという方が、常連のお店を教えてくれて、そのお店であなたと春日井さんをこの界隈で見たと言っていたんです」
と言われて、
「そうですか。私たちの商売では、常連さんと仲良くなったりすると、境田町に部屋を借りるということも結構あるんです。私を見たというその人も、きっと同じようなことをしているんでしょうね」
と、告げ口されてしまったことへの皮肉を込めてなのか、ゆりなはそう言って、嘲笑しているようだった。
「片桐さんはご存じでしょうか?」
と訊かれて、
「いいえ、私は知りません」
とゆりなは答えたが、あくまでも自分が知らないという言い方だったのは、自分は知らないが、お店のスタッフは知っているかも知れないということを暗に匂わせた気がした。
それだけ、ゆりなに限らず店の事情を、いや、K市という特殊な街にあるキャバクラとしては、キャストにもそれなりの事情が分かっている人が多いということであろう。
「最近、片桐さんと一緒にいて、何か変わったことはありませんでしたか? どんな些細なことでも構いませんが」
と言われて、ゆりなは少し考えているようだ。
それはごまかそうとして、長考しているわけではない。本当に思い出せないようで、それでも少し経ってから絞り出したかのように、
「そういえば、あの人、最近何かに怯えていたような気がするわ。元々気が弱くて、いつも何かに不安を感じる方だったんですが、その不安が最近は自己嫌悪から来ているものではないかと思うことがあったんです。寝ている時、時々悪夢でも見ていたのか、寝言を言っているかと思うと、急に大声を出して目を覚ますことがあったんです。額からは汗をぐっしょり垂らして、どうしたのかと訊いても、何でもないというだけなんですが、いつも同じことで悩んでいるように思えたんですが、ハッキリと聞き取れたわけではないんですが。あの寝言を聴いている限りでは、やはり自己嫌悪ではないかと思うんですよ」
とゆりなは言った。
「そうなんですね」
と答えた浅川だったが、春日井氏が何に怯えていたのか、それが彼の失踪、そして今度の事件に関係があるのかないのか、重要な話だとは感じたが、どのように影響してくるのか、まだ分かっていなかった浅川刑事だった。
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