第46話 今川氏輝の急死に関する一考察


歴史を考える上で「史料的根拠」は重要であり、それを第一義とするのは確かに正しい事でしょう。しかしながら「常識的思考」というのも同じくらい重要では無いか。そんな事を思う際真っ先に浮かぶものの一つが、今回取り上げる今川家当主・氏輝が24歳で急死した案件です。


「海道一の弓取り」として有名な今川義元の兄であり、その死が後継を巡る花倉の乱勃発、ひいては義元の家督相続へと繋がったこの一件。一般的には普通の病死として語られ、事件性を明言する史料も確かに無い様なのですが…

 

●年初は小田原に赴き歌会に参加したりと、普通に活動していた当主が急死(亡くなる前に病臥していた、等という話も見当たらず)

●氏輝と同日に弟の彦五郎も急死(今川家嫡流がよく名乗っていた格の高い仮名からして、おそらく当時の最有力継承者)

●次代の義元政権で反武田から親武田へと、今川家の外交路線が大転換


これら同時に起こった要素も踏まえて考えれば、彼の急死の背景に何か政治的な事情を疑ってみる方が普通であり、この件に関しては「事件性を示す史料が無いから病死だろう」ではなく、「自然死を示す史料が無いから事件ではないか」と考える方が遥かに常識的な思考では無いでしょうか。



氏輝に関しては寿桂尼の後見期間の長さ等、確かに病弱をうかがわせる様な要因もありますし、若いとはいえ急死の可能性が無いとは言えぬでしょう。

また路線転換も、花倉の乱時に援軍としてやって来た北条軍と何らかの軋轢が起こり、それが原因になった… などという可能性も無論あり得るでしょう。

ですが当主と最有力継承者が同時に死んだ、という一件に関しましては、余程信頼出来る根拠があって初めて自然死を考慮するレベルの不自然さであり、まずは陰謀や政変があった事を前提として考えるべき案件としか私には思えません。


そんな事を20数年前にも思ったのですが、近年の「今川義元とその時代」(戎光祥)などを見ても、やはり今川史の世界では、そういう声は殆ど挙がっていないご様子。

私としては不思議で仕方が無い事なのですが… さて。

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歴史夜話 @bunwa

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