第45話 「宋襄の仁」考(3) 私説「宋襄の仁」
この故事について色々と思う所を述べてみましたが、私見をまとめてみると以下の様になります。
●まず全体の背景として、桓公亡き後も国防の為に会盟を護持したい襄公と、中原進出の為に会盟を無力化したい成王のせめぎ合いがあった。
●襄公は盟主となり諸侯の結束を図るも、楚の挑発行為は絶え間なく続き… 遂に「対楚同盟」という会盟の存在意義を示す為、武力での直接対決を余儀なくされる。
そして「楚に対抗出来る事を示せなければ会盟、ひいては自国の国防体制が揺らぐが、戦いで力を消耗し過ぎれば自国そのものが揺らぎ本末転倒」そんな深刻なジレンマを抱えたまま、地力で遥かに勝る楚との決戦に臨む羽目に。
●成王はそんな襄公の苦境を見透かし、「成果」を必要とする宋軍を誘引しより完全な勝利を得るべく、戦場でしきりに「隙」を示す。宋に大打撃を与えて屈服させる事が出来れば、一挙に「邪魔な会盟の解体」と「中原への橋頭保」という垂涎の二兎が得られるのだから。
●襄公は成王の誘いを看破した上でその逆用を思いつき、故事で描かれる様な言動を取り敗退するという奇策に出る。
それは自身の「愚行」によって「会盟の機能不全」という問題を、「まともにやれば勝てた戦いなのに盟主のせいで負けた(裏返せば会盟自体は機能していた)」という話にすり替える為であった…
●会盟の存続が利となる諸侯が、政治的思惑からこの「物語」を受容。
当初は統治階級層をはじめ少なからぬ者達が事態の「内実」を理解していたものの、やがて「会盟の性質自体の変化」「時の流れによる風化」「無理解な記録者」といった要素が重なる事でそれは忘れ去られ、最終的に表面上の「襄公の愚行」のみが「宋襄の仁」として残る事に。
更に言えばこの出来事に対する焦点が、「春秋」注釈書の「左氏伝」と「公羊伝」における「襄公の君子の戦」への評価を巡る対立、といった明後日の方向に発展した事や、宋自体に元来「守株」の故事に見られる様に、亡国の民として何処かネタにされ易い素地があった事なども影響したかも知れません。
私の中で整合性を求めて考えた末の、推測に推測を重ねた様な代物ではありますが… それでも事実の断片くらいは捉えているのでは、と思っております。
何せ疑いの目で「左氏伝」を見返せば、気になる事は少なくありません。
敗戦とはいえ具体的な宋の損害が「襄公が負傷し左右の人々が戦死した」と書かれるのみ(大敗の際によく見受けられる「戦車を何乗失った」「将が討死・捕虜になった」といった記述は無い)なのは、「国主が負傷する程の激戦」という態を見せただけで案外少なかったのでは、とか。
襄公があれだけの「愚行」を行ったにも関わらず、「人々に非難された」と書かれるのみで、君主の地位を引きずり降ろされるどころか内紛さえ起こらなかったのは
何故なのか、とか…
そもそも「左氏伝」中の襄公の記述自体、「管仲に斉の太子を託された」「斉軍を打ち破り内乱を鎮めた」「諸国を流浪中の重耳に馬80頭を贈った」といった様に事実が淡々と記されている故事前後の部分の事績と、「宋襄の仁」へと至る一連の失敗譚の中で周囲の反応と共に詳細に描かれる公の言動とを比べると、私などは違和感ばかりを覚えてしまうのですが、さて。
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