第42話 「武田信玄」とはどんな人物か


色々と知識が増え、多面的に物事を考えられる様になると、時に以前なら思いつきもしなかった様な疑惑が浮かび、頭から離れぬ事もあるかと思います。

そして私にとってその中の大きな一つに、「武田信玄とはどう評すべき人物なのか」というものがあります。


「戦国時代を代表する文武両道の名将」

初めて戦国時代に触れて以来、長らくそんな評価に疑問を抱いた事は無かったのですが… ある時彼が記した「北条氏康・氏政親子の忘恩と背信を罵り、その滅亡を祈念した願文」を見て衝撃を受けたのを契機として、色々と考える様になりました。

私は元より信玄の北条への敵愾心の強さを感じてはいたものの、自己の正当性を内外にアピールする為の政治的なポーズの側面が強いのでは、と思い込んでおりました。しかし神への願文という、他人が見る前提ではない為しばしば筆者の本音が滲み出る文章において、あれだけ踏みつけにしある種敵に追いやった感のある相手を、全く悪びれず己には一切の非が無いかの様に罵る人というのは、さて、まともな人物なのだろうか、と。

そう思ってから、あらためて彼の行動を子細に、先入観を持たぬ様に意識して考え出して見ると… まあ次から次へと疑問が。


信義など何処吹く風。自らの利となると見れば和睦でも同盟でも約定でも破る。

信玄もしばしば行ったこれらの行為は、これまでは乱世であればまあ止む得まい、と単純に考えていましたが、それぞれの行為は本当に「目先の利」に飛びついただけでなく、長期的な事も視野に入れての行動であったものなのか。

例えば謙信との最初の和睦をあっさり踏みにじって決定的な不信を買い、果ては泥沼の「川中島」へと至り、少なからぬ将兵と時間を失う羽目に陥ったのは本当に止む得なかったのか。

また、北条の顔を潰す行為を重ねつつ断行した駿河侵攻において、いざ北条が敵に廻ると、それに対し「全く想定外の事が起きた」様な体たらくで一時撤退にまで追いやられたのはどういう訳だったのか。

他にも義信事件の事、勝頼の処遇の事、諏訪氏の跡目問題の事、家康との共闘と紛争の事等々… まあ湧き出る事湧き出る事。



以前山梨出身の学者が「山梨は江戸時代天領だった期間も長く、これという藩主がいない。その為『郷土の殿』というと信玄になり、なんでもそれに結び付けて語られがち」「信玄堤も信玄が作り始めたものでは無い」といった趣旨の話を書かれているのを見た事があるのですが、そういった感じの先入観や強固な「甲陽軍鑑史観」の様な「厚化粧」を剥ぎ取ってみた信玄像とは、さて、どのようなものになるのでしょうかね。

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