第39話 源実朝暗殺事件考(1) 公暁単独犯説への違和感 

建保7(1219)年、鶴岡八幡宮にて将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺され、源氏将軍が断絶。

この事件は有名ではありますが、「黒幕は誰か」「目的は何か」など諸説も入り乱れており、なんともすっきりしない印象が強い事件でもあります。

「北条義時」「三浦義村」といった定番から、はたまた「御家人共謀」「後鳥羽院」など、さもありなんという名前から正気を疑う名前まで、黒幕候補も色々ある中、どうも近年は黒幕のいない「公暁単独犯説」を唱える方が少なくないとも聞くのですが… しかしそもそも、この説は成り立つ余地があるのでしょうか?


まず「単独犯説」では、公暁が実朝を仇と狙う、という事からして説明が難しく思えてなりません。

頼家が失脚した時点での公暁は4歳に過ぎなかった事からして、当然実朝が「仇」という認識自体、ある程度の年齢になってから、当時の話を聞いてなり情報収集をしてなりの事だったでしょう。

ですが当時と現在の状況を鑑みれば、そもそも事件当時12歳で元服前だった実朝よりも、元凶・北条時政の流れを引き、今なお権勢を振るっている義時の方をこそ「仇」と思う方が自然な気が…

言うなればこの事自体が、公暁が「思い込みが激しく思考力に問題があった」とでも立証しない限り、「黒幕」に偏った情報を与えられて思考誘導された、という証左に思えてなりません。


また別の角度から疑問を呈すれば… そもそも本当に公暁は実朝を討ったのでしょうか?

史料では「覆面をした法師が実朝を討ち、『父の仇を討った』と言った」と書かれているのみであり、「公暁を直接現場で見た」という話は、見た覚えがありせん。

穿ってみれば「暗殺犯が公暁を称して行った事件」とも取れる気がするのですが。

更に言えば私などは「物陰から急襲し、裾を踏みつけ動けないようにしてから一太刀で首を討ち落とした」という描写からして、「親の敵を討とうと猛った若き復讐者」というよりは「手練れの堅実な仕事ぶり」を感じてならないのですが…


少なくとも私にはこれらの史料を見て、「公暁が実朝を手にかけた事は疑いない」などとはとても言い切れないのですが、さて。

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