第31話 摂関政治を揺るがせた子達 ~「無為」の頼通、「見切り」の能信~

道長とその跡を継いだ嫡子・頼通の時代に全盛を迎えた摂関政治。

その衰退の人為的な面での要因と言えば… やはり何といっても当事者の頼通が政治体制や権力の源泉を良く理解せず(とはいえ、理解していた父の方が異端とも言えますが)、体制の危機を認識出来ぬまま「無為」に過ごした事こそが根本的な原因なのは間違いないでしょう。

それは自分の入内させた養女に子が無くとも、弟達の入内工作の妨害に余念が無かった辺りにまず端的に表れているかと思いますし、そもそも父親ばりの認識があれば、もっと活発な入内攻勢を掛けるなり、なりふり構わず尊仁親王(非藤原腹の皇太弟・後の後三条天皇)の取り込みを図り、不可能なら排斥して一旦リセットし、他の皇族と改めて関係構築を図る等、時の最高権力者であった彼には幾らでも打つ手自体はあったでしょうから…

そして、その尊仁親王の後見として非主流派の大将格であった異母弟・能信の方が、間違いなくこの問題に対する理解が深く、ここぞという所で絶妙の「見切り」を見せて踏み込んできた事も、やはり大きな影響があったと言えるでしょう。



能信の足跡自体も、その気性の激しさや胆力を感じられる興味深い話が多いのですが、やはり一番と言えば、摂関政治という強大な堤に開けた蟻の一穴、即ち後朱雀天皇崩御間際にその遺詔を得て、頼通の意に反して尊仁親王を皇太弟に擁立した一件がひと際目立ちます。

一見「機を見るに敏」の見本なれど、横紙破りにも思える行為ではあります。

ですが頼通の反対の為に今まで実現出来ていなかった事を、彼が最後に天皇の背中を押して実現した、という側面が強いものでもあり、彼には最高権力者たる兄の不興は買っても、陰の最高権力者であり天皇家の家長的存在でもある姉の上東門院の理解は得られる、と見切っての行為だった様に思えます。

また、本家側の教通(頼通の同母弟)を名義貸しに近いとは言え、いつの間にやら春宮太傅として自陣営に近い側に引き寄せたのも、万一頼通が強硬手段に出ようとした時の「命綱」(教通を巻き込む形での「陰謀」は、まず上東門院の理解が得られない)としての要素も多分にあったのではと。


しかしまあ、二十代の頃は部下同士が京都市内で数十人規模の大乱闘を繰り広げたりと「犬猿の仲」以外に表現しようの無かった教通を、摂関の座を巡る水面下の争いに乗じたのでしょうが、よくもまあ取り込めたものです…

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