第30話 摂関政治衰退の「原因」としての道長  

摂関政治はよく「頼通以降入内した后から皇子が生まれず、外戚としての地位を失い衰退に向かった」といった旨の記述がなされます。

それは確かに事実ではありますが、何故「皇子が生まれなかった」か、何故衰退への契機となったのかについては、「天命」のみでなく「人事」による理由もあるかと思います。

そんな事を考えていくと… 結果論なのは百も承知ではありますが、やはり道長が摂関政治を完成させ、摂関家嫡流の座を自らの系統に確立した事が最大の原因なのではないでしょうか。


藤原氏の系図を見ながら摂関の順を追っていくと一目瞭然ですが、摂関が常置の様になった忠平以降、親から子への真っすぐな継承はなかなか続かず、早世や血縁、時には国母の意向などの様々な理由でしばしば横に行ったり時に斜めに行ったりと、「嫡流」が定まらずあちこちへ移動しています。

ですが裏を返せば、それは実力者が競って娘を入内させる事により皇子誕生の確率を高める、基本的には運よく当たりを引いた「成人の実力者」が権力の座に就くという、嫡流が定まらぬ未完成故の強靭さを持っている体制とも言え、伊達に百年以上続いた訳ではない様に思います。

この辺り、後に師通(38)が急死した際、充分な後見も経験も無い未熟な忠実(22)しか摂関家には居なかった事が白河院の復権、そして院政へと繋がっていった事を鑑みれば、「摂関家」が確立し、「御堂流の嫡系しか摂関に付けない」という原則が出来てしまったが故の事態であり、かつての様な摂関政治であれば、嫡流の座が移動しただけで体制自体はそのまま暫くは続いたのではないでしょうか。


まああくまで突き詰めればという結果論であり、考えてみた以上の意味はありません。「満ちれば欠ける」が世の常なのだから、満たしてしまった道長のせいだ、などと言うのは暴論というものでしょう。

「衰退を招いた責任」という観点からは、「摂関政治」の本質とその権力の源泉を理解せず無為に過ごした子と、理解しつつ結果として「一穴を開ける」方に回った子の方をこそ語るべきと思うのですが… それは次回にでも。

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