第20話 「源三位の末裔」たち

治承4年、源三位は衆寡敵せず自害し、嫡子仲綱以下一族郎党も壊滅状態となりました。

幸い、この時都に不在だったらしい頼兼と、知行国の伊豆にいた広綱という二人の子は生き残ったのですが… 頼兼は乱後父祖の職・大内守護を継ぎ京武者として活動するも、その子頼茂の代に政争絡みによってか後鳥羽院に討たれ、広綱も頼朝政権に加わり駿河守にまでなるも、後にこれも政争絡みか謎の逐電を遂げる事になり… かくして源三位の直系は歴史の表舞台から姿を消しました。

しかしながら「源三位の末裔」を称する者たちは後の世にも少なからず見受けられ… 江戸時代にも大河内・池田・太田など数家の大名家を出すに至っています。



本願寺の坊官・下間氏。

徳川家の譜代・大河内氏。

太田道灌の活躍で名高い太田氏。

武田信玄の名臣・馬場信房が高名な馬場氏、等々。


これらの氏族が本当に源三位の子孫なのか、正直なところ良くは存じません。

ですがもし自称だとしたら、嫡流が絶えている為名乗り易かった、という面は無論あるのでしょうが、源三位が先祖として誇るに足る存在だった、という証左とも言えるのではないかと思います。

…まあ彼の行動を好意的に見てみれば、「平家の専横と不忠に怒り、老いの身をも顧みず決起。自らと一族郎党の血で新時代への道標を築いた」という、まさに「英雄」以外の何物でもありませんし、不自然な話でも無いでしょう。



「埋木の花さく事もなかりしに 身のなる果ぞかなしかりける」

この「平家物語」の記す源三位の辞世の句が果たして本物なのかどうか。

ただ物語での創作にしては、作中で語られる勇壮な源三位像からは少しずれる感じもしますし、むしろ史実の彼が敗北を見越して事前に用意していたもの、と言われた方が違和感の無い様な内容の気もします。

何にせよ、後代には武名・家名共に見事花を咲かした、という事で、以って瞑すべしと思って頂きたい所なのですが、さて…

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