第13話 方広寺鐘銘問題と家康の反応に対する一考察

歴史上の事件において、私が理不尽だなあと感じるものの一つに、大坂の陣のきっかけとなった「方広寺鐘銘問題」への解釈があります。

「家康が豊臣家を滅ぼすために銘文に難癖をつけた」といった「難癖」を、未だ少なからず目にしますので…

当時の「避諱」という常識からすれば、少なくともこの銘文を見た知識階級の人々で、この騒動を幕府側の理不尽な言い掛かりだ、と見なした方はいなかったのではないでしょうか。

どうもその辺り、豊臣側の最初に犯した重大な非礼と、その後の幕府側の呪詛云々という難癖を何故かごっちゃにして考え、挙句の果てに全てを難癖として論じる向きがある様な気がしてなりません。


この問題について、銘文作成者の清韓の弁明や学識者の意見等、学術的な解説については「名前の禁忌習俗」(講談社学術文庫)等に譲りますが、そもそも家康が非礼に不快を覚えたにせよ、その後の豊臣家に対する要求が手厳しいものになったのは、思うにこの銘文が慶長16年の二条城での会見後に作られたもの、という事が根本的な理由ではないでしょうか。

あれだけ配慮を重ね「豊臣家の臣従」という方向への軟着陸を目指した家康に対し、それを無視するかの如き、家康を上位者と認めない挑発的な(政治的配慮皆無の無神経な、の方が実態には近そうですが)態度を銘文という形で返されたのでは… 

家康の反応は、要は「いつまで天下人の気分でいるのか」という苛立ちの発露ではないかと。


豊臣家に対するあの一連の要求は、「みじめに屈服し天下人としては政治的に死ぬか、幻想を抱いたまま抵抗して物理的に死ぬか、好きな方を選べ」という家康の「最後通告」ではなかったか。

個人的には、どうもそんな気がしてなりません。

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