第9話

 ガラガラと鳴った引き戸のあと、聞き覚えのある声を聴いた時は冷や汗をかいた。


 俺はこの時、状況をようやく理解した。


 ……修羅場しゅらばに近い状態だ……。


 寝ているベッドの上に、由夏ゆかが四つん這いの体勢になって、俺を見ている。


 視界が全く開けていない俺には、声で判断するしかなかったが、その判別はすぐに出来た。


 特徴のある、少し高めな声音、そして語尾のイントネーションがちょっと落ちるのは、心配している時だ。


 今、このベッドの周りには、白いカーテンが四方に囲まれている。


 なので、外からも内側からも様子がわからない。


 ましてや、俺は、由夏の髪でさらにわからない。


「おっおい。どうするんだよ。これ」


 俺は囁いて、由夏に問いかける。


「しーっ。静かにしてて」


 また、俺の唇に人差し指をあてて言う。


 そして、ここから動く気配がない。


とおる? 寝てるの? 起きてたら返事して?」


 と言っており、普通なら返事をしている状況なのだが、今はするに出来ない。


 このまま、寝てると判断して、教室に戻っていただけないだろうか。


 そんな思考が頭をよぎる。


 けれど、現実ってそう上手くはいかないもんなんだ。


「透は、ここで寝てるのかぁ……」


 上履きが一定のスピードで鳴り、だんだん大きくなってこちらに近づいてくる。


「透の寝顔、少し……だけでも見てみたいな……。えへへ」


 お、おい、なにを言ってるんだ?


 ちょっと変態じみた言葉を聞きながら、一瞬の静寂に包まれた。


 すると、カシャンと、カーテンが動く音がした。


 ……ああ、終わった。


「だっ……だれ?」


 うかがうような少し低めの声音になって、問いかけていた。


 そして、説明を始めるかのように凪咲は続ける。


「こ、この艶々した、さ、さらさらな黒髪……。もしかしなくても成海なるみ……さん?」


 まるで、言いにくいことをさらけ出している時ように、気まずそうな声音で言った。


 そして、それに反応した由夏が、顔を上げ凪咲を見る。


 それと同時に、真っ暗闇だった視界に、光が一気に差し込み、思わず目を閉じてしまった。


「ええ、私よ。って翠川さんじゃない。どうしてここに?」


「それは、こっちのセリフなんですけど。人の透に何をしてるの?」


 おいおい……〝人の〟って……良く言い切ったな。


 バチバチと火花がまた散ってるような、雰囲気を感じる。


 なあ、由夏。なんで隠れようとかしないで、そのままの体勢でいたんだ?


 こんなの、リスクしかないんだが。


「〝人の〟ってまだ決まったわけじゃないわよね?」


 おま、なにを言って。


 ……全て知ってると言わんばかりの自信を感じた。


 そして由夏が、俺に振り向き言う。


「ね? 透?」


 ええ……?


 いきなり、矛先ほこさきがこっちに向いてきて焦りを覚える。


「……」


 どう答えていいのかわからず、俺は黙ってしまった。


 それは、合っていると言っているようなもので、もう由夏には気づかれたに違いない。


「透が無言なのは、もうほぼ認めているようなものね」


 やっぱり気づかれた。


 もう、仕方ないな。


「白状するよ。俺と凪咲は、本物の恋人関係じゃない」


「ちょっ、ちょっと! 透! 恋人……でしょ?」


「ああ、〝仮〟の恋人な」


 凪咲が、頬をぷくっと膨らませ、俺に近寄る。


「ふふっ。ほら、やっぱりじゃない」


 言って、由夏ゆかは、俺の頬を手で撫でる。


 そのまま、俺の顔に、由夏の顔も近づけて言う。


「私にも、まだチャンスはあるの」


 口角が少し上がって、確信を得たように微笑んだ。


 何を考えてるのか俺にはさっぱりだが、この関係はおおやけにされるとちょっと……いや違うな。だいぶまずい。


「なあ、由夏、一応なんだが、この関係は内緒にしてもらえないか?」


「ええ、それは構わないのだけれど、どうして?」


 近づけた顔を、そのまま俺の方を向いて言う。


 その拍子に、流れた髪がすとんと落ちて、左側からくる光が少し遮断された。


 ……まだそこにいる気なんだな。すごい執念を感じるぞ。


「……凪咲、言ってもいいか?」


「……うん。もういいよ言っても。そうしないと話が進まないでしょ」


 理解が早くて助かる。ありがたい。


「凪咲は、恋愛アレルギーに掛かってるんだ。それを治すために仮の恋人になった」


 それから、仮の恋人の状態であれば、アレルギー症状の拒否反応、人避けが起きていない事。そして、インターネットに載っていたあの真相を確かめるために、この関係になった事。さらに第二の目的である、男避けの事を話した。


「ええ。状況は分かったわ。あのインターネットの記事を見たのね」


「あれ? 知ってるのか?」


「もちろんよ。ただ、その記事はデマよ。その……最後にキスとか色々書いてあるやつでしょ?」


 由夏は知っていたのか。


 しかもデマだったなんて。


 衝撃の事実が、耳に入ってクラクラしてきた。


 今までやってた事は何だったんだ。


 凪咲なぎさが、確かめるように由夏ゆかに言う。


「うん、そうだけど……。デマ……なんだね?」


「ええ。今の凪咲さんを見ると、もう治ってるように……見えるけど? 名前も憶えているようだし」


「なあ、由夏。どのタイミングで名前を忘れるんだ?」


 少し悩んで、言った。


「はっきりとは言えないけど、その距離感ならすでに忘れていても不思議ではないわ」


「そう、だったのか」


 俺は、混乱していた。


 あれが、デマだったなんて……。


 でも、知れてよかった。これでキスをする必要がなくなったんだからな。

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