ええ……?

第8話

 今の状況を、なんといえばいいのか理解できない。


 いや、頭では理解しているんだ。ただ、心ではなんか飲み込めないまま、十分ぐらい経っている。


 昼休みが終わり、教室に帰ろうとした瞬間に、つまづき転んでしまった。


 これが、事の発端なんだが、それから保健室で診てもらったところ、軽い捻挫ねんざだと言われそのまま一時間、休養きゅうようを取ることになって、保健室のベッドで寝ていた。


 しばらくして目覚めた時に、横に成海なるみの姿があって。


 そこまでは別にいいんだ。幼馴染だしな。面倒見がいいし、よく気を遣ってくれる。よく知っている、成海なんだ。


 ただ、今日の成海は距離が近くね? と思って今も過ごしているんだけど。


 ほんのり甘い香りが漂ってて、


「足……大丈夫なの?」


 顔のすぐ近くで、横髪をくいながら言った。


 そのいつもさらさらな髪は、お行儀よく耳に掛かり、残りの毛先はすとんと落ちる。


 その優艶ゆうえんさは、見惚れてしまうほど誘惑ゆうわく的であった。


「ああ。大したことがないから、大丈夫だよ。心配かけてごめん」


「ふふっ。それならいいのだけど」


「……それより、成海なるみは授業どうしたんだ?」


 素朴な疑問をぶつけた。


 まさか、授業を抜け出してここにいるわけじゃないだろうに。


「ん? 授業? 体調不良で抜け出してきたわ」


 ……え? 成海、お前どうした。


 本当に体調が、悪いのか?


 そう、思っていると、


「というのは建前で、透くんの様子を見に来たの」


 成海ってこんな事するやつだったっけ?


 前までは、休み時間を使って、様子を見に来てくれてた覚えしかないんだけど。時間の使い方をきっちりさせてる印象がいつもあるし。


 いや、心配してくれるのはとてもありがたい。それは本当だ。


 たかが、捻挫ぐらいで自分の授業を捨てて様子を見に来てくれるのは、とても恵まれているなって思ってたりする。


「……まだ、足首痛い……?」


 言いながら、テーピングされた右足をツンツンしてきた。


 お、おいやめろ。まだ痛いんだよ。


「いっった!! 痛い……」


 痛みが電流のように走ってきて、とても耐えられん。


 その激痛で、背筋が反りそうになる。


 まだ……こんなに痛いのか。ってあれ?


 ……そういえば、先生はどこ行ったんだろ?


 保健室が、かなり静かな気がする。


「……そういえば先生がいない気がするんだけど、どこかに行ったのか?」


「先生は、会議だって言って一時間空けてるわ」


 ……なんと。


 なんという、タイミングなんだ。


 成海は、続けて言う。


「……だから、今、この保健室にいるのは私と透くん、二人だけよ。ドキドキするわねっ」


 声音は少々上擦ってて、妙にテンションが高い。


 成海は、喜んでいるらしかった。……え? 喜んでるの?


 やっぱり、ここ最近の成海は変だ……。


 少し心配。


「会議なんだな……。今何時くらいなんだろ」


 成海は、時計を見に行き、言った。


「今は一時三十分ってところかしら。まだ三十分あるわねっ」


 妙な言い回しに、違和感を覚えた。


 ん? まだ三十分ある……だと?


 言われた言葉を頭で処理しながら反すうしていると、ベッドの左側がギシッと音を発しながら沈む。


 そして、俺の左ひじ辺りに、細く白い健康的な手が置かれ少しシーツが沈み、ベッドの縁に膝を立てて、乗っていた。


 何をするのかと思えば、そのまま俺にまたがり腰を曲げて、四つん這いの体勢になった。


 成海の髪で、周囲の視界は閉ざされ目の前には、パーツがきれいに整った顔そして、鼻は少し高く、宝石のアメジストのような紫色の瞳が、目の前に現れる。


 あの~。えっと、成海さん? この状況は、見つかるとちょっとやばいですよ?


「おっおい、成海、これはやばいって」


「しっ。静かにして」


 言って、俺の唇に、人差し指をあてる。


 成海はそのまま続けた。


「今から、私の呼び方を名前に変えて。あと呼び捨てで呼んで欲しい。わっ私も……と、とおるっ……って呼ぶから……いいわね?」


「ああ、わ……わかったから……ゆっ……由夏ゆか


 少し、抵抗はあった。


 こんな事言われたの初めてだったし、状況も状況で。


 幼馴染を名前呼びって、今まで意識してなかっただけに、実際に行動に移すと、とてもいたたまれない。


「あ……ありがとう。とっとおるっ」


 二十センチくらいだろうか、その距離しかない、由夏の頬はまるでりんごのように色づいていた。


 ぎこちない呼ばれ方に、俺までも照れてしまう。


 頬が熱くなっているのがわかった。


 気が付いたら、胸の鼓動が激しい。脈を打っている力強いリズムは、現実に引き戻す唯一のきっかけになっていて。


「――透ぅ? 大丈夫なの?」


 そして、そのきっかけをはっきりさせるかのように、突然にやってきた。


 この声を、聴いた時は終わったと思った。

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