幸せを運ぶ青い犬

増田朋美

幸せを運ぶ青い犬

その日も暑い日だった。こんな日だから、外へ出るのはなかなか嫌だなあとされることが多いのであるが、そういうときであっても、犬の散歩はいかなければならないものである。杉ちゃんとジョチさんは、真っ黒なイングリュッシュ・グレイハウンドのたまを連れて、バラ公園に散歩に行った。流石に足の悪いたまは、公園の中をノロノロと歩くのみであるが、二人は散歩を続けていた。

「ちょっと暑いから、休憩しようか。たまも疲れているみたいだし。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうですね。犬は汗をかくことができないと言いますからね。」

ジョチさんもそう言って、二人は東屋へ入ったのであるが、そこにはすでに先客がいた。まだ、30代なかばくらいの女性で、その隣には、一匹の犬が座っていた。毛の長いコリーによくにている上品な犬であるが、何故か分からないが、犬の家は、見事なブルーであった。

「よう、アオくん。今日は暑いねえ。」

杉ちゃんが声をかけると、

「杉ちゃん、見かけで判断しちゃだめですよ。アオくんなんて馬ならそういう名前があるかもしれないですけど、犬でアオくんという例は無いんじゃありませんか?」

と、ジョチさんは言った。

「だって白い犬は白でしょう、黒い犬は黒でしょう?じゃあ青い犬はアオなんじゃないの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「すみません、この子は本名はメイちゃんなんです。ペンキがかかって青い色になってしまっただけです。」

と、女性が言った。

「ああ、そうなんだ、メイちゃんね。種類は何ていうんだよ?」

杉ちゃんがまた聞くと、

「ボルゾイです。ロシア原産の犬です。」

彼女はそういった。

「はあ、ボルゾイ。それはまた高級な犬を飼ってるな。それで、お前さんの名前は何ていうの?」

杉ちゃんという人は、一度質問を始めると答えが出るまでやめないくせがあった。

「はい、加藤と申します。加藤千歳です。」

と、彼女は答えた。

「加藤千歳さん。聞いたことのある名前ですね。何か、習い事でもされていませんでしたっけ?一度、国立劇場で名前を拝見した記憶がありますが、人違いですか?」

ジョチさんは、彼女に聞いた。

「ええ。そのとおりですが、どうして私の事を前もって知っているのですか?」

「はい。一度、国立劇場で、あなたが立方として踊られているのを拝見しました。確かその時に踊られた曲は、鐘ヶ岬でしたよね。あの、鐘に恨みは数々ござるの歌詞で有名な曲です。」

とジョチさんが言うと、

「そうですか。やっぱりこんな田舎に来ても、私のことはしっかり知られてしまっているのですね。私は、東京で暮らすのがつらくなって、こちらにこさせてもらったんですけど、やっぱり私の事を知っている人は居るんだ。」

千歳さんは、がっかりした様子で言った。

「バカにしないでもらいたいな。富士は発展途上国みたいに遅れている場所じゃないよ。東京ほどではないがちゃんと電車も走っているし、車だって走ってるよ。それに、駅の奴らは、皆優しくて親切だし、ショッピングモールもあって、インターネット設備もちゃんとある。まあ、文化的なレベルは低いのかもしれないが、それでもいいところとしてほしいもんだぜ。」

杉ちゃんはでかい声でそういうのだった。

「ええ、僕も東京へは新幹線で度々出ていまして、東京は確かにすごいところだなと思ったことはありますが、富士市が遅れていると感じた事は無いです。それに今はオンラインでつながることも可能です。ですから、こちらでも、加藤千歳さんという日本舞踊の舞踊手さんが居ることはちゃんと知られています。」

ジョチさんがそう言うと千歳さんは、小さい声で、

「そうなんですね。ごめんなさい。東京では皆私の事を、舞踊手としか見ていないから、それなら、知らない場所に引っ越そうって決めたのに。」

といったのだった。

「そうなのね。それでは、なにか嫌なことでもあったのか?お前さんの事を知っているやつがいて嫌なことが。」

杉ちゃんはすぐにそういう事を言った。杉ちゃんという人は、すぐに人の話を聞きたがるくせがある。

「安心してください。僕たちは怪しいものではありませんよ。ただ、精神疾患とか、それなりの事情があって。生きづらさを感じている方々に、勉強や仕事をしてもらう部屋を貸しているだけのことです。ときには、セラピストの先生などを紹介する事業もやってます。僕はその施設の管理人をしている、曾我正輝と申します。今は名刺がありませんが、後でお送りできますよ。」

と、ジョチさんがにこやかに言った。

「別に宗教関係でもなにもないよ。ただ困ってる人を見ると、放っておけないだけ。ただそれだけのこと。」

と、杉ちゃんがそういった。

「そうなんですか。そのような施設はどこにあるんですか?」

と、千歳さんは言った。

「なんですか?来てみたいですか?」

ジョチさんはそう言うと、

「ええ。少し興味持ちました。私は、もう舞踊家として生きるよりも、普通に女性として生きてみたいんです。それをトライしたことは無いので、やってみたいんです。私は、ずっと舞踊家として、周りの人の庇護しか受けていなかったけど、そうでなくて自分らしく生きてみたいと思うんです。」

と、千歳さんは言った。

その間に、グレイハウンドのたまは、青い犬のメイちゃんと、顔を舐めあっていた。なんだかたまも彼女を気に入ったらしい。すぐに他の犬と仲良くなれるのも、たまの良いところであるといえる。

「なんだかたまさんも楽しそうですね。施設に来るときは、青いワンちゃんもつれてきてくれて結構ですよ。庭で遊んでくれていればそれでいいですから。」

ジョチさんは、たまとメイちゃんを眺めてそう言いながら、手帳と鉛筆を巾着から取り出して、製鉄所の場所と電話番号を書いて、彼女に渡した。

「まず初めに、製鉄所と言うんですが、その施設に来ていただいて、利用者名簿に名前を書いてもらうことが必要になりますから、来られるときに、製鉄所にいらしてください。場所は、富士山エコトピアのバス停で降りていただけるとすぐです。エコトピアのバス停から、唯一見える純和風の建物です。」

「ありがとうございます。富士市に移住したばかりなので、嬉しいです。あの、それからお願いなんですけど。」

と、加藤千歳さんは言った。

「あたしが、病気になった事は、黙っていただけないでしょうか。こちらにこさせてもらったのは、そのせいでもあるんです。」

「はあ、そういうことなら隠さないでちゃんと僕らには話して貰えないものかな?利用者さんたちには黙ってもらってもいいけど、どうせね、すぐに分かっちまうことだよ。そういうことなら、先にこっちには話しちまった方がいい。そういう事は、隠さないで、ちゃんと話したほうが、よりお前さんのことを理解できるってものだ。僕らは変な宗教法人でも無いので、それを利用して金を巻き上げるとか、そういうこともしないから大丈夫。」

と、杉ちゃんがすぐに言った。こればかりはジョチさんも杉ちゃんに同調した。精神疾患は時々病名が独り歩きしてしまう感覚があるが、それでも悪性腫瘍と同じくらい重篤になりやすいし、何よりも周りの人からの理解が欠かせない。なので、病名は隠してしまわないほうがいいのである。

「本当に、そういう事はしないんですか?私、こう見えてちゃんと歩けるから、本当にそうだとは言えないってすぐ言われてしまうんですけど、神経の病気で、時々足や腰などが、痛くてどうしようもないときがあるんです。始めは、踊りのせいで腰を傷めたのかと思いましたが、検査しても何処にも異常は見つからなくて。MRIなんかもやったんですけど、どうしてもだめでした。」

「はあなるほど。隠さなくていいんだぜ。お前さんは、線維筋痛症というわけだね。」

千歳さんがそう言うと、杉ちゃんがすぐ言った。

「いやあ、あれだって、立派な病気と考えていいんだぜ。ただの怠け者でもなんでもないの。そうなったのはちゃんと理由があるからだろうし、それはちゃんと、専門家に見てもらって、原因を探してもらったほうがいいぜ。もちろん病院も必要だろうけど、東洋医学を利用してもよし、カウンセリングみたいなのを使ってもよし。色々道具はあるから、それを利用すればいいんだよ。その斡旋なんかも僕らがするからね。それに、お前さんには大事なメイちゃんが居るし。」

「あ、ありがとうございます。そんな事を言ってくださったのは、初めてです。私の周りでは、みんな仕事をする気がなくなって怠けているんだとしか言われなかったし、痛いといえば双羽黒みたいなことは言うなとか、そういう事を言われるばかりで。やはりこちらの人たちは、みんな優しいんですね。」

千歳さんは、杉ちゃんたちを見てとてもうれしそうに言った。

「まあ、双羽黒も性まで悪い人ではなかったようですからね。気にしないで、生活できたらいいですよね。それを目指して僕たちも活動しているわけですし。どうぞこちらにいつでもいらしてください。本当に僕たちは、悪いことはしませんし、ばかにすることも決してしませんから。どうぞ、お気軽に来てくださいね。」

ジョチさんがそう言うと、

「ありがとうございます。偶然の出会いで、すごいことがやってくるってあるものなんですね。そんな事、信じていませんでしたが、病気になってそういう事もあるんだなってわかりました。そう考えると、私は幸せものかもしれませんね。それなら、ぜひ、そちらの施設に伺いますね。」

それと同時に、お昼の12時を告げる鐘がなった。杉ちゃんが、もう帰らなければならんなというと、

「私も、帰りますね。じゃあ、失礼いたします。」

と、青い犬のメイちゃんの紐を引いて、加藤千歳さんは、杉ちゃんたちが来た方向とは反対の方へ歩いていった。確かに、線維筋痛症で歩くのがつらいということもあるのかもしれないが、メイちゃんのあるきかたは独特で、後ろ足を引きずって歩いているように見える。もっと短くまとめると、後ろ足がほとんど役に立っていないようなあるき方だった。たまは雄犬らしく彼女のあるき方を心配そうに眺めていた。

「あの青い犬は、なにか虐待でもされてたんだろうかな?なんか変なあるきかただぜ。犬用の車椅子とか、そういうものを使えばいいのに。まあ、犬だから、そのままのほうがいいっていう考え方もあるか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですね。まあ、悪徳な引取屋などから、保護した犬なのかもしれません。引取屋に預けられる犬は雑種ばかりでは無いと、以前聞いたことがあります。中には、血統書があるような立派な犬も、飼い主の勝手な事情で引取屋に出した例もあるようですから。引き取った犬の飼育は、非常に劣悪で、少しでも繁殖能力があれば、無理やり繁殖犬にさせられたり、役に立たないと引取屋で処分してしまうこともあるようですよ。」

と、ジョチさんが言った。そんな障害のある犬を、つまりたまにしてみたら障害のある女性なのだろうが、たまは気になってしまうのだろうか。ずっと青い犬が千歳さんと一緒に帰っていくのをたまはずっと眺めていた。いくら、たまさん帰りましょうと言っても、聞かなかった。

「やれやれ。たまも、色男だねえ。あんな障害のある犬を好きになったりするんだからね。」

杉ちゃんがやっと動き出したたまを見ながらそういった。ジョチさんはたまの紐を引いて、

「いいんじゃないですか。今はいろんなカップルさんが居るんですから、事情があるカップルさんがいてもいいと思いますよ。」

と苦笑いした。

その次の日。

「えーと、こちらですね。この豪華な建物が製鉄所か。製鉄所なんて、変わった名前だわ。そういう工場でも無いのに。」

と、いう女性の声がして、製鉄所のインターフォンのない玄関の引き戸を叩く音がした。

「こんにちは。昨日お会いした、加藤千歳です。」

と言う声と同時にワンという犬の声も聞こえたので、メイちゃんが一緒に来たんだなということがわかった。

「ああ、来てくれたんですね。どうぞお入りくださいませ。」

と、ジョチさんがそう言うと、ガラッと玄関の引き戸が開いて、加藤千歳さんがそこにいた。青い犬のメイちゃんも一緒に座っている。

「製鉄所という名前が不思議でしたけど、こういう支援施設であることがわかってよかったです。これから、時々こちらにこさせてください。よろしくお願いします。」

「とりあえずお入りください。」

千歳さんがそう言うとジョチさんは、彼女を応接室へ通した。その間に、メイちゃんは中庭で遊ぶように、放してあげた。ジョチさんは、千歳さんを椅子に座らせて、製鉄所を利用するための基本的なルールや、利用料などを説明した。一応、利用者は今のところ二人女性が居るが、彼女たちも事情があって、皆ここへ来ている人たちなので、あなたの事を否定することは無いと思うとジョチさんは言った。唯一公式に設けられているルールとして、製鉄所を終の棲家としないことを伝えた。それは必ず守って貰わないと困るルールである。つまり永住してはいけないということである。

それを言われて、千歳さんは、ちょっと不安そうな顔をしたが、

「いえ大丈夫です。女性であればそうなんですが、必ず変わるときはあります。」

とジョチさんは、にこやかに言った。

「どのくらい時間がかかってもいいですから、必ずここを最後は出て言ってもらうことが、利用する第一条件になります。永住することは絶対にいけませんよ。うるさいくらい言いますが、それは守ってくださいね。」

「は、はい。わかりました。やっと安寧の場所が見つかったと思ったのに、また出ていかなければならないなんて。」

と、千歳さんは言っていたが、

「いや、それも遠くないんじゃないでしょうかね。」

ジョチさんは言った。庭で、二匹の犬が遊んで居る声が聞こえてくる。多分たまが、メイちゃんと遊んでいるのだろう。

「ちなみにたまさんは、僕らが飼育している犬では無いのです。たまさんは水穂さんという男性が、ここで飼育しているんですが、彼は事情があって動けないために僕が代理で散歩に行ったんですよ。それであそこの東屋で、お会いしたというわけです。」

「そうなんですか。本当に運命なんて偶然の連続だと言いますが、そうなんですね。私は、そんな事全く気にしなかったんですけど、今では本当に大事なんだなって思います。なんかそういう偶然を、大きな事に変えられたらいいのになと思います。」

千歳さんは、ジョチさんに同調するように言った。

「中庭に行ってみますか?」

二人は応接室から出て、中庭に行った。行ってみると、真っ黒なイングリッシュ・グレイハウンドのたまと、青い色のボルゾイが、楽しそうにロープを加えて力比べをしていた。その近くには、水穂さんが杉ちゃんと一緒に二匹の様子を眺めていた。それを見て、千歳さんは、思わず顔が真っ赤になってしまうほどの衝撃を受けたのであった。水穂さんはそれくらいきれいな人であった。なんだろう、まるで何処か西洋の作曲家の生き写しのような気がしてしまうのだった。そんな衝撃を、隠せなかったらしい。千歳さんは、こう言われてしまう始末だった。

「はあ、お前さんは、恋をしたか。」

気がつくと、杉ちゃんにそう言われていた。

「いやあ、そういう事はいいことだぜ。それは前向きに生きるきっかけにもなることだからな。ははははは。」

「新しい会員さんよろしくお願いします。磯野水穂です。」

水穂さんがそう声をかけてくれたので千歳さんは、何をいっていいか分からなくなり、

「ご、ごめんなさい!」

と、言ってしまったのであった。

「ごめんなさいって誰に言ってるんだよ。それより自己紹介でしょ。」

杉ちゃんに言われて千歳さんは、

「ほ、本当にすみません。私、加藤千歳です。これからよろしくお願いします。」

と急いでいった。変なやつと杉ちゃんも笑ってしまったのであるが、水穂さんには笑われないで済んだのが良かったと思った。それに、加藤千歳と名を名乗っても水穂さんが何も反応をしないというところが、また嬉しいところだった。思えば、東京にいた頃は、自分の事を知らない人はいなかったし、次も頑張ってねと言うような励ましをしてくれる人はたくさん居るものの、自分の悩んでいることや、それ以外の事を聞いてくれる人はだれもいなかった。それは本当に寂しかった。それはみんな、自分、加藤千歳が有名になりすぎたことが原因なのだが、それは何も楽しくなかったというのが正直な感想でもある。

たまと、メイちゃんは、とても楽しそうに遊んでいる。

「たまもすごいなあ。犬のくせに、女を口説くのはうまいなあ。」

杉ちゃんが苦笑いすると、

「そうですね。」

と、千歳さんは言った。それと同時に、水穂さんと自分がもう少し距離を縮められたらと思った。若い頃はとにかく自分が大好きで、自分を有名にしようと頑張ってきた千歳さんだったけど、なんだか初めて、水穂さんのことを好きになって、この人に、なにかしてあげようと思う気持ちになったのだった。それは生まれて初めてのことで、千歳さんにはとても嬉しい体験だった。

その次の瞬間、水穂さんが偉く咳き込んでしまった。魚の骨でも喉に引っ掛けたような、激しい咳こみ方だった。それと同時に、水穂さんの口元から、赤い液体が噴出する。馬鹿野郎、こんなところでやるやつがあるかよと言いながら、杉ちゃんが彼の口元を拭いてやっているが、この様な光景は千歳さんは見たことなかった。いくら花柳界にいたとしても、ここまで重度になる人はそうはいない。一体どういうことだと思っていると、

「具合悪いなら、早く寝ろ。」

と、杉ちゃんに言われて、水穂さんは、その場を立った。立ったときに、着ているものがはっきり見えた。このぼかしたような、そんな派手な柄付きの着物は、舞踊界では絶対着てはならない着物だと、千歳さんにもわかった。銘仙である。千歳さんの水穂さんを思う気持ちは、どっと崩れ落ちた。それと同時に、千歳さんは、日頃から軽蔑している人を好きになってしまった自分が、恥ずかしくなってしまった。

「私、何ていうことをしたのでしょう。」

千歳さんは思わず言ってしまう。

「いやあ、何でも無いんですよ。ただ好きになったのならそうすればいいだけのことですよ。」

ジョチさんがそう言うが、千歳さんにとっては、考えられない屈辱であった。それでは私、何をしたのか。本当に自分が情けないような気がしてしまうのだ。私はやっぱり花柳界にいたほうが良かったのかとさえ考えてしまった。

たまと、メイちゃんが遊んでいるのを見て、千歳さんは二匹が可愛いなと思うことはどうしてもできなかった。でも、二匹は、他人から見たら本当に可愛くて、楽しそうなのだった。







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幸せを運ぶ青い犬 増田朋美 @masubuchi4996

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