第3話

 ジクリ、という鈍い痛みとともに、頭がぼうっとする。ヤヨイが巻いてくれた包帯には、うっすらとだが血が滲んでいた。

「…………っ」

 左腕を押さえてかがみこむ。隣に座っていたヤヨイが俺の手を握る。

 電車に揺られること1時間。撃たれた腕は悲鳴を上げていた。

 なんでだよ。しっかり止血したんだったら2時間ぐらい持つだろうが。

「次で降りましょう。ご主人様」

「……太白にはまだ付いてないぞ」

「次の駅で境界線近くにはつくはずです。それに」

 責めるような視線が俺を射貫く。


「見ていられません」


 ヤヨイの言う通り、俺の体は惨めなほどボロボロだった。元々痣で醜い体ではあるが、呼吸は荒くなり、顔面蒼白で、肩からは赤い血が包帯に滲んでいる。痛みを分散しようと、足元はぶるぶると震えている。

 吐く息からは湿気……というのだろうか。それがなくなり「はあはあ」という音から「かひゅ、かひゅ」という音に変わっていた。


「次は太白。お降りの方は…………」

 機械アナウンスが車内に流れる。太白といってもかなり広い地域なので、こんな片田舎で降りる奴はほとんどいない。


「降りますよ。私の肩に掴まって、全体重をおかけください」

「……っ! ああ、でも……重いぞ?」

「ご主人様の体重は23歳成人男性の平均より極めて軽いです」

 俺の減らず口など一向に気にする様子もなく、ヤヨイは俺の腕に頭を滑り込ませ、俺を引きずるようにして電車を降りた。


「……お前さ、電車賃、あるわけ?」

「抜かりありません。2人分の電車賃はきっちり計算してきました」

「……さすが」

 きりっとした表情で一万円札を見せるヤヨイ。万札に描かれた偉人の顔もどこか誇らしげである。


 駅構内の改札横で駅員が切符を確認している。富裕層なんかはICカードか自らの体に埋め込まれているチップで改札は素通りできるのだが、切符文化を今も尚引きずっている連中も多くいる。

「……切符を拝見いたします」

 駅員が俺の肩を見てぎょっとする。しかしそれには一切突っ込まず、すぐに定型文を口にした。さすがプロである。めんどくさそうな乗客には関わらない、仕事人の流儀に感服だ。

「えっと、切符、ないんすけど」

 ただこちらも拝見してもらう切符がないので、どう対応すればいいのかわからない。

 駅員は冷めた目でこちらを見て、「乗車賃はお持ちですか」と聞いてきた。

「こちらに」

 ヤヨイが一万円札を駅員に手渡す。釣銭を受け取ると、やっと俺を解放して駅構内のベンチに座らせた。

「私はこれから針と糸を調達してきます。ご主人様は動かず、じっとしていてください。傷口が広がりますので」

「お前縫えるのか」

「医療技術は緊急事態に備えあらかじめインプットされております。実際にやったことはありませんが」

「それは頼もしいこった」

 ロボットに皮肉は通じないのか、ヤヨイは俺を一瞥すると「不審者にはついていかないように」とだけ言い残し、太白のスラム街へと飛び出していった。


 スラム街第3区「太白たいはく」。他のスラム街と同じようにれっきとした「危険地帯」ではあるのだが、1つだけ、他とは違う大きな特徴がある。

 ここには富裕層の居住区も存在している。もちろん富裕層とスラムの住人の居住区は明確に分けられているのだが、富裕層が住む街並みは王都には劣るものの、美しい中華風の街並みと、サイバーパンク……っていうんだっけか。それら2つが混ざり合った独特な街となっている。そのアンバランスな魅力が人を惹きつけ、多くの観光客が来る非常に珍しい区域となっているのである。

 まあ今いるのは太白でも片田舎のれっきとしたスラム街だが。ここも駅員がいるのが不思議なレベルの寂れた駅舎である。


 片田舎の駅に血が滲んだ包帯巻いてベンチにボケっと座っている男、か。

 不審者もいいとこだな。


「もし! そこの方!」

 しかしそんな不審者に声をかけてくる勇気あるものが現れた。

「そこの方です! あの! 肩から血を流しているそこのお兄さん!」

 最初は無視していたのだが「肩から血を流したお兄さん」という不審者は俺しかいないので反応せざるを得なかった。

「あ! よかった! 気づいていらっしゃったんですね!」

 振り返ると快活そうな女がニコっと笑った。年は20代前半だろうか。俺と同じくらいに見える。

 明るい茶髪をポニーテールにして、くりっとした赤みがかっている目をキラキラとさせてこちらを見つめている。


 驚いたのはその服装である。

 向日葵のような笑顔でこちらを見つめる女は、白い制服を着ていた。制服には糸のような細い繊月のバッジが光っている。この国ではある意味有名なこの格好。


「太白警察本部所属、東雲茜しののめあかねと申します! 階級は巡査であります!」


 婦人警官がいったい俺のような善良な市民に何の用だろうか。

「見回りに来ていたら駅でけが人を見つけましたので!」

 太陽の方を向いて元気に咲き誇る向日葵のような女性は、朗らかに笑った。


「なるほどなるほど! 電車でテロに遭遇し、運悪く撃たれてしまい病院にいくところだったと。そうでしたか! それは大変でしたね!」

 俺の噓八百をまんまと信じ込んだ婦人警官、いや茜さん。そんなんで警察務まるのだろうか。


「今は、その、連れを待っているところでして」

「そうでしたか! しかしその状態で長時間待つのはお辛いでしょう? 本官が救急車を呼びますので! お連れ様にも連絡しますね」

「あ、えっと、それどこの病院ですかね……?」

 茜さんはきょとんとした顔をした。

「どこって……銀湾ぎんわん自治区にある総合病院ですが……」

 それはまずい。あそこは王立病院の傘下にあるところじゃないか。

「ああ、えっと、その、ご迷惑ですし、大丈夫ですよ」

「迷惑などということはありません! 警察は市民を助けるためにあるのですから!」

 善意が痛い。エクスクラメーションマークが多い。

「いやほんとに……救急車は、やめてください。嫌いなんです」

 救急車嫌いってどういうことだよ。言い訳が苦しすぎるだろうが、俺。


 しかし、茜さんは残念そうに眉根を下げると「うーん」と手を組んで悩んだ。そうかと思うと次の瞬間にはパッと顔を上げた。

「それではここからすぐ近くの、本官の知り合いの病院に行きましょう! ご案内いたします! 本官の肩にもたれかかってくださいね!」

 言うが早いか、さっそく俺の腕を自分の肩にかける茜さん。

 どうしよう。かなりの有難迷惑なのだが、ニコニコと笑いかける彼女をみるととてもそんなことは言えなかった。

 

 ノーと言える日本人になりたい。


「それにしても、電車でテロなんて……そんな通報なかったけどなあ。私みたいな交番勤務には連絡来ないのかなあ」

 不思議そうにぼやく茜さん。

 とりあえずこの交番のお姉さんがちょっと抜けているのは、間違いなさそうだ。


「着きました! 近かったでしょう? さ! 傷口が開かないうちに治療してしまいましょう!」

 5分くらい歩いたところだろうか。茜さんが肩から俺を解放してニコリと笑った。

 目の前には、中華風の木造の建物があった。木は赤く塗られ、青銅色の瓦屋根が太陽の光に晒されキラキラと光っていた。

 扉の上には木製の看板があり「シノノメ診療所」と主張の強い達筆な字で書かれていた。


「あの……『シノノメ』って」

 俺が聞くと、茜さんは後頭部をポリポリと掻いて「えへへ」と笑った。

「知り合いの、とは言いましたが、ここは本官の父が経営している診療所でして」

 そう言って彼女はさっさと中に入ってしまった。


「何の用だ茜。今日は休診日だぞ」

 中に入ると待合室らしき場所で、小太りな眼鏡をかけた男が新聞を読んでいた。

「けが人見つけっちゃったんだからしょうがないでしょ! 警察官として放っておけなかったんだもん」

 俺に話しかける時よりかなり砕けた口調だ。ほんとに親子なんだな。


「……まあいい。患者の名前と症状は?」

「肩口から血が流れてるの。包帯は巻いてあるんだけどね。あと……名前、えっと」

 茜さんは「あー……」という声を出してこちらを振り返り、申し訳なさそうに聞いてきた。

「すみません。お名前、お聞かせ願えますか?」


「スラム街第2区『螢惑けいこく』所属。日影真昼、な。包帯外すぞ」

 小太りな親父、もとい茜さんの父である東雲英雄しののめひでおが面倒くさそうに、しかし丁寧な手つきで俺の包帯を外していく。

「いっ……つ」

「ああ、痛えよなあ、銃で撃たれてるもんなあ」

 そう言って俺の銃創を平然とみる医者。白衣が少しタバコ臭い。

「お前、麻酔は得意か」

「得意も不得意もないっすけど……」

「ならいい。ま、苦手でも打つけどな」


 そう言ってニヤリと笑うと、英雄さんは茜さんを呼んだ。

「あかね! 手術台の準備! 今日は看護師が休みだからな」

 診察室の奥から「はーい!」という元気な声が聞こえる。

「そんじゃ、2時間後にな。おやすみ」

 英雄さんは手術台に俺を乗せるとにやりと笑った。次第に瞼が重くなっていき、俺はしばしの眠りについた。


 涼やかな風が、入院室の窓を通り抜ける。窓の外からは、俺の住んでいたスラムによく似た街並みが見下ろせる。

「病院ってなんでこんなに眠くなるんだろうな」

 独り言を呟くくらいには、暇で、穏やかだった。


 手術が終わった後、俺はこの入院室に寝かされ、英雄さんから怪我の説明を受けた。

「傷自体はそんなにひどいもんじゃなかった。あと1ミリずれていたら大事だったがな。輸血が必要になったのは面倒だったが……上手いこと貫通してよかったな」

 けだるげにそう言うと、英雄さんは入院室に置いてあった新聞に手を付ける。

「よく輸血パックありましたね」

「馬鹿、今何年だと思ってんだ。血の代わりになるもんなんかいくらでもある」

「こんな片田舎のちっせえ診療所でもな」と付け加える。なるほど、今は輸血の代用品があるのか。この技術も月からの受け売りなのだろうか。


「……あの、俺、明日には王都に行かないとなんすけど」

「なめてんのかお前」

 新聞越しにギロリと睨まれる。医者特有のこの目、苦手なんだよな。

「三日は安静にしてろ。さもなくばその点滴に大量のインスリンをぶち込む」

 人殺しである。


「……王都になにしに行くんだ」

 面倒くさくて仕方がないというふうに英雄さんが聞いてきた。

「……カリングループに行くんです」

「その恰好でか」

 英雄さんが俺の黄ばんだタンクトップを見ながら言う。

「……はい。この格好で」

 彼は大きなため息を吐くと大儀そうにパイプ椅子から立ち上がり「おい茜!」と娘の名を呼びながら入院室を出て行った。

「……入院費どうすっかな」


 しばらくすると、英雄さんと入れ替わるように茜さんが入ってきた。

「……どうも」

「調子はいかがでしょうか? 父ではありませんが、三日間は安静に、ですよ! 本当は一か月くらい様子を見るものなんですからね!」

 涼しい病室には暑苦しいくらいの笑顔で話しかけてくる。あの父親からどうやってこの子が生まれたんだろうか。


「茜さんは、勤務地、ここらへんなんですか」

「いえいえ! 本官は銀湾自治区ぎんわんじちくの交番勤務です!」

 銀湾自治区、というのはさっきも言った太白唯一の観光都市である。居住区には王都まではいかないがそれなりに余裕のある富裕層が暮らしている街だ。


「なら、どうしてあの駅に?」

「あー……えっと、見回り……そう! 見回りです!」

 妙に歯切れが悪いが、ありえない話ではない、のか?

「そうっすか。なら、そろそろ持ち場に戻らないといけないんじゃ……」

「あ! えっと、今は、そう! 休憩時間ですので!」

 休憩時間にしては長すぎると思うのだが。


「あ! あの! 本官も、聞きたいことがあるのですが」

「……? なんすか」

 ハキハキとした彼女には珍しく、少し迷った表情を浮かべたが、やがて決心したのか俺の方をまっすぐ見つめて聞いてきた。

「さきほど、本部から連絡がありました。螢惑で月人病患者となんらかのアンドロイドと思わしき女性が太白行の電車に乗って逃亡した、と」

 まずい。非常にまずい。

「……見つけたら捕縛するように、とのことでした」

 しまった。完全にミスった。成り行きとはいえ、警官を信用するべきではなかった。

「あ、あの、これには深い訳が」


「王都に行かれるのですよね」


 …………え?


「さきほど父から聞きました。王都では真昼さんの情報がすでに出回っています。おそらく、銀湾自治区も例外ではありません。本官もなんとか動いてみますので、三日間、この診療所でじっとしていてください」

 それはつまり。

「匿ってくれる、ってことっすか」

「その言い方には語弊があるといいますか、なんといいますか……」

 茜さんは「えへへ」とまた後頭部を掻くと、話始めた。


「うちの父は、もともと王立病院の外科医だったんですよ」

「? ……はあ、そうっすか」

「ただ、王立病院のやり方というか……命に値段をつける行為が、どうしても性に合わなかったそうです。スラム街の人間と富裕層の人間をするやり方が」

「……………………」

「ですから、この診療所を開いて、スラムの人を格安で、時にはタダで診察しているのです」

 ご立派な人である。俺には、まぶしいほどの。


「父にとっては、どんな人も救うに値する人間です。そんな父が、たとえ国の命令だからといって、自分の患者を易々と引き渡すような医者ではありません」

 だから俺のことも匿ってくれるってわけか。

「それに、私も」


 茜さんが向日葵のように微笑む。


「本官も、大切な市民を守る義務がありますので!」


 コンコン、と機械的なノックが入院室に響いた。ノックの主はこちらの返事を待つことなく静かに部屋のドアを開ける。

 ヤヨイだった。

「ああ! ヤヨイさん! 父とのお話は終わりましたか?」

「はい。ご主人様の怪我の具合、把握いたしました。茜様、大変感謝しております」

「いえいえ! 市民の安全がを守ることが本官の喜びですから!」


 ヤヨイはベッドに横たわる俺を見るとスタスタとこちらに近寄ってきた。

「ご主人様。知らない人についていくなと、申しましたよね」

「け、結果的に、こうして拾ってもらったんだから、べつに」

「ごしゅじんさま」

「…………すまん」

 針のような視線に背筋が凍り付く。

「ま、まあまあ! 今日から三日間は安全なわけですし、ヤヨイさんは本官の勤務地兼住居の交番にいましょう! ……ね?」

 気まずそうに茜さんがヤヨイに話しかける。

「そうですね。銀湾自治区の警備も把握する必要があります。しばらくお世話になります、茜様」

「茜様、かあ……えへへ」

 恥ずかしそうに頭をポリポリと掻く茜さん。癖なのだろうか。


「いざという時のため、ご主人様にGPSを埋め込んでおいて正解でした」

「人の体になんてことしてくれてんだコラ。てかいつ埋め込んだ!?」

 それには一切答えず、ヤヨイは俺の手を握った。それはもう痛いほどに。


「ほんとうに、よかったです」


「…………そうかよ」

 上手い言葉は思いつかなかった。絞り出した言葉が、それだった。

 俺がそれだけ言うとヤヨイは何事もなかったように立ち上がった。

「それでは、茜様とともに、今から銀湾自治区に行ってまいります。この病室には毎日伺いますので。ご主人様は、お医者様の言う事をよく聞いて、絶対に、必ず、安静になさってください」


「絶対に、ですよ」

 と俺に念押しすると、ヤヨイはさっさと部屋を出て行ってしまった。

「父もこの三日間は休診にすると言っていましたので! 私もできる限り伺います!」

「それでは!」と爽やかに言って、茜さんは機嫌良さそうにヤヨイの後をついていった。


「自治区の様子はどうだった? ヤヨイ」

 昼飯にと出された病院食に手を付けながら、見舞いに来たヤヨイに銀湾自治区の様子を聞く。スラムほどではないが、病院食もなかなかに質素で、味が薄い。


「茜様の予想通り、銀湾自治区の観光地、住宅街には大勢の警備隊が配備されていました。王立病院研究員部隊だけでなく、太白警察の姿もありました」

 国をあげて俺たちを探してるってことか。必死なもんだ。

「私も初日は、茜様に普段警官が寄り付かないルートで交番まで連れて行っていただいたのですが、警備の目が厳しいことには、変わりありません」

「その調子じゃ王都はもっとキツイだろうな。お前は知らんが、俺はこの痣が目立つ。なんとか考えないとな」

 螢惑の一件でヤヨイの存在もあちらに伝わっている可能性は大いにあるが、今は考えるのをやめよう。顔まで正確に把握されていることはないと願いたい。

「せめて格好だけでも、だよな」

 人様にばれない目立ちにくい格好というものを俺もヤヨイも持っていない。

 さて、どうするか。

「茜様も、そのことは心配なさっていました。彼女に話を聞いてみるのも良いかもしれません」

「それではこれで」とヤヨイは「太白名物たいはく君サブレ」を机に置いて病室をでていった。



 コンコン……と遠慮がちなノックが聞こえる。

「どうぞ」と返事をすると、茜さんだった。

「具合はどうでしょうか」

「おかげさまで」

 俺が返事をすると彼女はほっとした顔で「よかったです!」と破顔した。

「これ、お見舞いです!」

 と俺の机に「たいはく君サブレ」を置くと、機嫌良さそうにパイプ椅子に座った。

 今日は警官姿ではなく、シンプルな白いTシャツにジーンズ姿という、完全にオフの姿だった。

「いよいよ明日、ですね。王都にいくの。今日は本官もこの診療所――父の家ですが、泊りますので、安心してお休みくださいね!」

 さっきヤヨイが「今日はこの診療所に泊まります」と言っていたのはそういうことだったのか。


「……あの、どうしてそこまでしてくれるんですか?」

 茜さんは不思議そうな顔をした。


 ずっと聞きたかったのだ。どこまでいっても、彼女は警官であり王都側の人間なのである。

 それなのにどうしてこんな薄汚いスラム出身の俺に、ここまでよくしてくれるのか。


「ある意味、父と同じなんです」

 優しく微笑む茜さん。

「私は、この『月の下国』の市民を、守るために警官になりました。それは今も変わっておりません」

「ですが、現実は……そう簡単には、いかなかったのです」

 茜さんは俯いて、小さな声でしおらしく話す。


「太白には、自治区とスラム街の境界に、大きなバリケードがあるのは、ご存じですか」

「バリケード、ですか」

「はい。他の地区から来られる方にとって太白は、夜のネオン煌めく、中華文化とサイバーパンクが入り混じった、妖しくて、美しい街に思えるかもしれません」

「でも」と彼女は続ける。

「この地域は、スラムの人間が中心の貧困層と、それを見下す富裕層でできています。当然、仲はよくありません」

「そりゃ、そうですよね」

「定期的、といっていいほど境界付近では頻繁に抗争が起き、警察はそれを鎮圧するために出動しています」

 スラム街を有しているとはいえ、王都に近い比較的治安の良い太白にそんな裏があるなんて、知らなかった。


「おかしいのは、警察に咎められるのは、いつだってスラムの人間なのです」

 怒りを堪えるように、茜さんは話す。

「しわ寄せがくるのは、いつだって、スラムの人間なのです。富裕層の人間にスラムの住人が殺される事件もありました。でも、それでもっ……!」

 彼女のジーンズに、ポタポタと水が滲んでいる。俯いて表情はよく見えない。


「本官にとって……わたしにとって! 守る人間に貴賤などありません。私には目の前の人間を守るのです! だからわたしは! か……」


 そこまで言って彼女はハッと顔を上げた。

「す、すみません! 私ったら、ごめんなさい……」

 涙の滲んだ目元を荒々しく拭って、彼女は歯を見せて笑った。

「とにかく! 本官は市民の安全のみのために動いています!」


「それは真昼さんも例外ではありません!」


 きっぱりと言い放った彼女には、どこか危うさがあった。

「今日はゆっくりしてください。明日は朝早いですからね! それじゃ!」


 朝、英雄さんに診療所の待合室に連れていかれると、待合室のベンチにはなにやら高そうなブランド物のショッパーが鎮座していた。

「茜のセンスだから期待はすんなよ」

 ふわぁ……と眠そうにあくびをしながら英雄さんがぼやく。

「お父さんよりは大丈夫だから!」

 少しムッとした顔の茜さん。

「……そういえば、ヤヨイは」

 俺が聞くと茜さんは朝にぴったりな爽やかな笑顔を向けた。

「着替えてもらってます! もうちょっとで来ると思いますよ!」

 その瞬間、診察室の扉が勢いよく開いた。


「お待たせいたしました。ご主人様」

 いつもの無表情は変わらなかったが、格好はかなり変わっていた。

 流れるような銀髪を後ろで一つにまとめ、光沢の美しい黒のスーツを身にまとっている。茜さんの警官服とは違い、こちらはパンツスーツであった。

 銀色のワンポイントのついた黒いヒールは、姿勢の良いヤヨイのスタイルの良さをさらに際立たせていた。


「太白の老舗が売ってるたっけえスーツだからな。出世払いで返せよ。ついでに入院費もな」

 ふんっと鼻を鳴らしながら英雄さんが呟く。

「王都に紛れ込むならビジネスルック、ですよね! さ! 真昼さんも! 着替えたら出発です! 本官も王都行のリニアまではお供しますので!」


 落ちつかない。本当に落ち着かない。

「あの……せめて新幹線に乗るまでは脱いでも、いいっすか」

「大丈夫です! イケメンですよ」

 そんなこと気にしてるんじゃない。

 きちんと整備された銀湾地区の観光地を歩きながら、俺はため息をつく。こんな上等な格好したの、王立小学校の入学式以来だろうか。いや、あの時もこれほどではなかった。

 生まれて初めて髪にワックスをつけられ、英雄さんお気に入りだというよくわからん香水をふられた。痣がある顔の左半分には包帯が巻かれ、「ちゃんと隠しとけよ」と言われる始末。

 加えてこの高級スーツである。ヤヨイと同じように光沢のあるスーツは太陽に照らされて黒く輝いており、革靴も主張しないながらに上品なデザインのものを履かされている。

 深いブルーのネクタイにはシルバーのウサギを模したネクタイピンがきらっと輝いている。このアイテムは茜さんイチ押しらしい。


 警官の少ないルートを選んで歩いているものの、全く俺に気づく人間はいない。

「一般市民はそこまで私たちに注目していませんからね! ありがたいことです」

 たしかに一般市民が俺たちにそこまで興味を持っていないことは、逃げる身としてはありがたい。

「あら、茜ちゃん! お父さん元気? またうちに遊びに来てね!」

「茜ちゃん! この間はひったくり捕まえてくれてありがとさん! うちの子ともまた遊んでくれな!」


「…………信頼されてますね」

 当の本人は恥ずかしそうに笑いながら歩く。

「交番勤務のほうが、市民の皆さんと関わる機会が多いもので」

「たまにスラムにも様子を見に行きますし」と付け加える。

 警官の鑑みたいな人だな。王族もこれくらい見習ってほしい。

 この性格じゃ王族なんて務まらない、と言われてしまえばそれまでだが。


「着きましたよ。それでは、本官はここで」

 本当にリニアに乗る直前まで見送ってくれた茜さんはにこりと笑った。

「茜様、本当にありがとうございました。この御恩は忘れません」

 ヤヨイの機械音声も、心なしか嬉しそうだった。

「……ほんとに世話んなりました。どうかお元気で」

 ヤヨイにつられるように、慌てて俺もお辞儀をする。

「いえいえ! 本官は、市民の安全を一番に考えておりますので!」

 茜さんは、きりっとした表情をつくると、ビシッと警官のお決まりのポーズをした。

 敬礼である。

「ご武運を!」



「父さん、観測所から定期報告が来たよ」

 王都の中心にそびえたつ宮殿、通称「月都げっと」の中庭で酒を飲んでいる父に話しかける。

「王立月面観測所定期報告書」と書かれた紙を父に手渡すと、父は不機嫌そうにそれを眺めた。

「月人荘子を送る時期はお前に任せると言っただろう」

「それでも、報連相は大事にしないといけないと思って」

 父の機嫌をこれ以上損ねないように僕はゆるりと笑う。

「条件が揃うのは半年後の上弦の月の日だってさ。あづみ……いや『月人荘子』を送るのはその日になりそうだね」

 父がこちらをギロリと睨む。

「あづみを月に送るのは嫌か」

 そりゃあ、弟だからね。

 首元まで出てきた言葉を、寸前で堪えた。

「……そんなことないよ。うちの、決まりだからね」

「そんなことより」と僕は父の向かい側の席に座る。父がお猪口を無言で差し出してきたので、追加の日本酒を注ぐ。

「王立病院から、気になる報告がきてね。スラム街第2区の月人病患者のそばに、変なアンドロイドがいたんだって」

 父はつまらなさそうにふんっと鼻を鳴らす。

「勝手にさせておけ。やつらは研究費さえもらえればいい乞食みたいなもんだからな。気になるならお前がやればいい、昴流すばる。次期王のお前なら、やつらも言う事は聞くんじゃないか」

 やっぱり。父はこういう内政には興味が無い。


「それより、例の件、上手く進んでいるぞ」

 細い目をさらに細くして、父がにやりと笑う。

「月と合同でやる地球の共同統治、だよね」

「ああ、他国の奴らめ、目にもの見せてやる」

 父は満足げに笑ってふんぞり返った。

「我が月の下国、いや、私たちが地球の頂点に立つ日も近い、ということだな」

 付き合ってられない。

 僕は席から立ち上がり、観測所の様子を見に行くことにした。

「とにかく、月人荘子やら月人病やらはお前に任せる。第一王子としての実力、期待しているぞ。昴流」

「うん。任せてよ。国王様」

 中庭の池の錦鯉が、飛び跳ねる音がした。




 














  


 

 




 

 

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