第2話

 月人病とは。


 我が国でも発症人口は5人、世界で見てもたった20人という非常に稀な病気である。発症すると全身にクレーターのような痣ができ、最終的にその痣に覆いつくされるように亡くなる。痣そのものに痛みや痒みはなく、初期段階では痣も数センチ程度であるため、気づきにくい。

 感染力は非常に乏しいと考えられ、今まで感染報告はない。これに関しては、発症人口が非常に少ないため断定はできない。

 発症者は最終的に、苦しむ事もなく、痛みに喘ぐこともなく、ただ眠るように安らかに、まるで月に昇るかのように、静かに亡くなる。

 そのため、月人病は「世界一名誉ある病」と言われている。


 なるほど。つまり「なんもわからん」ということだ。


「ご主人様、なにかわかりましたか」

「わかるわけねえだろ。何回読んできたと思ってんだこの本」

「私の前では読まれたのは一回目です」

「うるせえ」

「世界の難病・奇病事典」とタイトルが金字で印刷された本を閉じ、ヤヨイの前に投げる。

「ご主人様、『世界の難病・奇病事典』は文庫本ではなく、ハードカバーです。それを人に投げるのは大変危険です。今後はお控えください」

 わかった。今後は俺の「できるかぎり」、「機嫌がすこぶる良い時」に控えることにしよう。そもそもお前は人じゃない。

「外の様子はどうだ?」

「本日も無事に食料の調達に成功いたしました。居住区の植田さんには大変お世話になっており、彼の飼い猫の捕獲を手伝ったときには、サラミを1パックいただきました。さらに今年で11歳になる亮くんの野球ボールを見つけたときには大変感謝され明日キャッチボールをすることになり」

「帰りが遅かったのはそういうことか。なに心温まる交流してんだコラ」

 主人が引きこもらざるを得ない状況にも関わらず、スラムライフをエンジョイしているヤヨイに怒りが湧いた。

「そうじゃなくて、あいつらだよ。王立病院の」

 ポンコツはやっと理解したらしく「質問はあいまいにするのはお控えください」とのたまいやがった。

「居住区の入り口には警備が2人、この映画館付近に3人配備されていました。特にここはご主人様の御父上が捕獲された場所ですから、かなり警戒されているようです」

 そりゃそうだろうな。長年指名手配されていた俺の父親の住居。ここで月人病の患者とよくわからん女を見たら誰だって怪しむに決まっている。

「念のため、ですが」

「私たちがこの映画館の地下に潜んでいることは、あちら側は知らないようです。あの夜、私たちの姿を見た者たちは警備にはいませんでしたので。今日の買い出しについても、警備に声をかけられましたが、喉を傷めた麗人を装いました」

 自分のことを「麗人」とか言うその神経にはドン引きだが、玉兎のヤヨイが言うのであれば、俺たちの存在は警備にはバレていないのだろう。

 だが、安心はできない。あの夜、俺たちの姿を見た者は少なからずいる。スラムの住人も金を握らされたら、俺の居場所など平気で吐く奴ばかりだ。

「あの夜の警備員が戻ってくることも考えられます。近いうちにこの場所を離れることも考えられた方が賢明かと」

「俺は明日でも全然かまわんぞ? 特にこの場所に思い入れはないからな」

「明日は不都合があります」

「なんでだよ」

 ヤヨイは「なに当たり前のこと言ってんだ」というふうに首を傾げた。


「亮くんとキャッチボールをしますので」


 そう言ってさっさとキッチンに向かってしまった。

 あいつ俺を本気で守る気あるんだろうか。


 ヤヨイが俺を「お姫様抱っこ」で市中の晒し者にした挙句、警備隊から逃げるため海に飛び込んだあの夜から早三日。俺たちを目撃したスラムの住人の情報からこの映画館付近に早速警備が配置された。数は3人とザルもいい所だが、俺が動きにくくなったことは言うまでもない。そのため、不本意だが俺の引きこもりライフがスタートすることになった。

 見た目だけはか弱い女性であるヤヨイは、怪しまれることもなかろうと買い出しに行ってくれている。

「いざとなれば殺します」という頼もしいお言葉も頂いたので、とりあえず外の用事はすべて彼女に任せることにした。


 ただ引きこもって阿保みたいに天井眺めているのも癪なので、俺は一日中母が残していた本を読み漁っていた。俺がパチンコの次に好きなのが読書なので、そんなに苦ではない。

「本は必ず読みなさい」という母の遺言を守っているおかげで、俺はスラムの住人にしては博識な方である。母が生きていたころは王都の学校に兄弟そろって通うことができたのもでかい。父が捕獲された時点で即退学になったが。

「あの日、空飛ぶ宮殿で起こった5つの出来事」という本を眺めながら思う。


 あいつどうやって俺を月に連れていくつもりなんだろう。


 自国に逃げ場がないから、別の惑星に行くというのは富裕層の考え方だ。富裕層は自国に逃げ場がないという状況になることはない、ということは置いといて。俺のようなスラムの一人間が、海外逃亡すらすっ飛ばして惑星外逃亡とは、夢見すぎもいい所である。

「夢見すぎではございません。確かにご主人様一人であれば夢のまた夢でしょうが、貴方様には私がいます。玉兎がいるのです。ご安心ください」

 まあ旧型の玉兎だけどな。


「昼食をお持ちいたしました。10回以上噛んでお食べください」

「母親かお前は」

 ヤヨイが出来上がった昼食をテーブルに並べる。食パン2枚。トマトのカプレーゼ、スクランブルエッグにオニオンスープ。早速スープに口をつけると甘い玉ねぎと少し塩味のある温かい液体が流れる感覚が、喉から腹の底に伝わってきた。

「うめえな」

「ありがとうございます」

 まったく嬉しそうではないが、とりあえずお礼を言っておくその姿勢は嫌いじゃない。

「冗談ぬきでスラムに来てこんな飯にありついたことないわ、俺。食料、どうやって用意してんだ?」

「数は非常に少ないですが、すべてスラムで揃えました。鶏は育てている方がいらっしゃったので、卵をわけていただきました。食パンや野菜類は衛生上不安がありましたので、少しばかり熱しております」

 確かにトマトには少し焼き色がついていた。食パンは焼いた方が好きなのでむしろありがたいが。焼けばいいってもんじゃないとは思うが、この状況じゃいかに玉兎といえどできることが限られているのだろう。

「ま、スラムにいるうちに腹は強くなったから。壊しゃしねえよ」

「承知いたしました。体調に変化があった時は、必ず私にお知らせください。緊急時は背中のウサギのボタンを押してください」

「お前それ言うけどさ、壊れてね? ボタン」


 背中の大きく空いたノースリーブのワンピースから覗くヤヨイの背中には、確かにウサギの顔がモチーフになったスイッチらしきものがあるが、とても起動しているようには見えない。

「そんなはずはありません。緑色の蛍光色に光っていれば、問題なく稼働しています」

「光ってねえけど」

 ウサギのボタンは緑色に光ることはなく、起動している様子はない。試しにポチポチしてもうんともすんとも言わない。

「今押してるけど、お前気づいてる?」

「心拍数を測定。真実と断定致します。……ご主人様が押している感覚はあるのですが、それは私に搭載された痛覚機能によるものです。緊急時対応ボタンは反応していません」

「壊された記憶は?」

 そう聞くとヤヨイは急に黙りこくった。いつも聞いたら何かしら返ってくるのに、これは珍しい。

「ヤヨイ?」

「……申し訳ありませんご主人様。私には製造時から舟に乗るまでの記録が抜けているのです。そのため、破壊された時期は断定できません」

「でもさ、昔壊されたってことはないだろ。月の舟は実際80年前に飛ばされたからな。爆発四散したとはいえ」

 こいつは瓦礫の山に放置されていたのだ。なんかの部品に機体があたって損傷した可能性は充分ある。ポンコツゆえ気づかないこともあるだろ。

「少なくともご主人様ほどポンコツではございません」

「おう、喧嘩売ってんのか」

 まあ、ボタンを押す予定は今のところないのでそんなに気にする必要はないか。


 こんがりと焼かれた食パンに手を付ける。しゃくり、という食感が楽しい。

「さっき考えてたんだけどさ、お前、どういう算段で月までいくつもりしてんだ?」

 パンを咀嚼する俺をじっと見つめていたヤヨイが答える。

「ご主人様、『月の舟』の構造はご存じでしょうか」

「ご存じなわけねえだろ。こっちは庶民以下だぞ」

「それもそうですね」というふうにヤヨイは妙に納得したようにうなずいた後、語り始めた。


「我々玉兎は、月の舟の機体情報を予めインストールされています。月の舟にも、操縦士となる玉兎の情報がインストールされています。それを同期することで、初めて起動することができるのです」

「つまりその舟専用の玉兎が乗らないと動かないってわけだな」

「はい。しかし玉兎一人につき一隻の舟をその度作っていたら、コストが持ちません」

 そりゃそうだ。いかに月といえどそれでは破産まっしぐらだろう。

「そのため、月の技術者は機体とそれに乗る専用の玉兎の情報を『月の舟の核』としてまとめた『天の印あめのおしで』を開発しました」

「天の印?」

「舟とは別に独立した正八面体の形をしたパーツです。三日月の印が描かれ、機体に乗る玉兎の製造番号が彫られています。いざとなればもって逃げることもできる取り外し可能な、『月の舟の心臓』となるパーツです」

「そのパーツさえ取り外せばどの舟でも操縦できるってことか。確かにコスト削減だな」

「その通りです。舟自体の乗っ取り防止にもつながります」

 なるほどな。月の奴らの用心深さがよく窺えるエピソードだ。


「反対に考えればそのパーツさえあれば操縦できるということです」


 意志の強そうな瞳でヤヨイは俺を射貫く。思わず2枚目の食パンを皿に置き直す。

「ご主人様、『空の宮殿』と言われた月の舟の残骸が今も保管されていることは、以前おっしゃっていましたよね」

「ああ、言ったな。でもその天の印? があるかは知らんぞ。そんなもんお前に今聞くまで知らんかったからな」

「ある、ないの問題ではございません。ご主人様が『月に連れていけ』と言った時点で、私にはあなたを月に連れていく以外の選択肢はございません。あなたがパーツを『ある』と望めば、それは『ある』のです」

 暴論もいいとこである。融通のきかないロボットらしい意見ではあるが、彼女にはそれ以上の気迫を感じる。思わずトマトを箸から落としてしまった。

「じゃあ、『ある』ってことにして。だからどうすんだ?」

「ご聡明なご主人様ならわかっていると思います。私のやることは一つです」

 ヤヨイはさらなる暴論を展開した。


「王宮に保管されている『天の印』を、奪い取ります。ついでに『空の宮殿』の他のパーツも奪取します」


 玉兎ってテロリストだったんだろうか。

 食べ終えた昼飯をキッチンに持っていって、あいつとの今後の付き合い方を考える。ついでに皿も洗っておいた。


「ではご主人様行ってまいります。どうかくれぐれも外にでないよう、よろしくお願いいたします」

 地上にあがる階段の前で、ヤヨイが深々とお辞儀をする。

「ああ、すまんが、今日は俺も外出するぞ」

「拒否します。ここにいてください」

「いや、無理だ。今日は用事がある。なんならお前のキャッチボールよりも大事な用だ」

 まだ何か言いたげなヤヨイを置いて、トン、トンと階段を昇る。当然後からヤヨイもついてくる。

「わかりました。譲歩致します。ご主人様の目的地まで私もお供させていただきます。警備の目が入りずらいルートを確認致します」

「ああ、よろしく頼む。この間行ったジャンクショップまでだ。土蔵のところ」

「かしこまりました。ではご主人様、失礼致します」

 ヤヨイは階段を昇りきった後、そう言って俺の脇と膝裏に手を滑り込ませた。


 …………なんかこの状況、俺知ってる。


「デジャブを感じる」

「ええ、この前やりましたからね。走ります、ご主人様。目を瞑って、ウサギの数でも数えておいてください」

 言い終わった瞬間、風がビュンっと吹いた。いや、風が吹いたんじゃない。こっちが速すぎるのだ。

「おい待て、今どこ走ってんだ」

「居住区の屋根の上です。音もなく走れば上を見ない限り気づかれません。映画館付近の警備隊がお昼休み中なのは調査済みです」

 ザルすぎるだろ警備。もうちょっと気合いれて警備してもらわなきゃ狙われてるこっちがなんか悲しくなるだろうが。

 上を見たら一瞬でバレるルートを選ぶこの玉兎も大概ザルだと思うが。まともなのは俺だけなのか?


 ガコンっとものすごい音がして目を開いた。眼前には口をあんぐりと開けた土蔵がいた。パラパラと土と埃と屋根だったものが頭上に降りかかる。

「着きました。では私は亮くんとキャッチボールに行ってまいりますので。2時間後にお迎えにあがります。どうぞごゆっくり」

 さらりと言って、風のように去っていくヤヨイ。あいつ2時間もキャッチボールすんのかよ。

「……屋根の修理代って、お前に吹っ掛けてもいいやつか」

「友達のよしみだろ土蔵。勘弁してくれ。靴でもなんでも舐める」

「お前プライドあるんかないのかどっちだよ」

 土蔵は髪をくしゃりと握ると迷惑そうにこちらを見た。

「んで? 人んちの屋根壊しといてなんの用だ?」

「……前、あいつをバラすって言っただろ」

 罰が悪そうに俺が言うと、土蔵はハッと顔をこわばらせた。

「なあ真昼、考え直す気は」

「やっぱやめた。あいつにお願いきいてもらっちゃったし」

 俺がそういうと、土蔵はきょとん、とした顔をしたが、すぐにほっとしたような表情を浮かべ、へらりと笑った。

「やっぱりなあ! お前ならそう言うと思ったよ。いやあ、俺の目に狂いはなかったね。あんな綺麗なお嬢さん、解体するなんて馬鹿なこと考える奴じゃないもんなあ、お前」

「月に連れていけってお願いしちゃったしな」

「だろ? 月にもいかねえといけねえし…………って月!? はあ!?」

 元々大きい目をさらにぎょろりと見開いて信じられないものを見る目でこちらを見つめる土蔵。

「本気か?」

「少なくともヤヨイはな」

「うわあ……お前……まじかあ」

 手に負えない、というふうに額に手を当てる土蔵。可哀そうな人を見る目で俺を見るな。

「まじだ。ちなみに王宮にある月の舟を奪いに行く計画も進んでる」

「テロリスト目指してんのかお前」

「……だから、このスラムとも今日でしばらくお別れだ。世話んなったな、土蔵」

「ん? おう」


 土蔵が不思議そうな顔で俺を見る。意外と寂しくないのか? 友達だと思っていたのは自分だけだったとかいう、あの悲しいパターンか?


「別に今生の別れじゃないだろ?」

「…………? まあ、そうかもだが」

「じゃあいいさ! 行ってこい。ついでに王都にあるマドレーヌ、買ってきてくれ。絶対だぞ」

 歯が見えるくらいの、いつもの爽やかな笑顔で土蔵は俺の肩を掴んだ。


「このスラムにお前の味方は必ずいる。それが俺、だろ?」


「送別会だ! 飲むぞ!」という土蔵のあとを俺はついていく。そういえば、このスラムに来てから俺の痣のことを一つも喋らなかったのは、こいつだけだったな。


「土蔵様とのお別れの挨拶ができてなによりです。ご主人様の義理堅さ、ヤヨイは感服致しました。私も、キャッチボールが終わった後、亮くんから野球ボールを貰いました。サイン入りだそうです」

「感服致しましたって顔じゃねえけどな。お前もキャッチボール楽しめたようでなによりだよ」

 俺が土蔵と飲んでるとき、きっかり2時間後に本当に迎えに来たヤヨイは、例のごとく俺を姫抱きにし土蔵をドン引きさせた後、無事隠れ家に帰ることができた。

「夕食の準備を致しますが、その前に少々お時間いただけますか? ご主人様」

「ああ」

 俺が短く返事をすると、ヤヨイは木製の椅子を引いた後、ドアに近い椅子に座った。促されるように俺も座ると、彼女は早速話し始めた。


「明日の昼、スラムで唯一稼働している電車で王都に向かいます。警備のお昼休み中を狙って外に出ます。ルートはスラムから出ている電車に向かった後、スラム街第3区、太白でバスに乗り換え、翌日、王都への関所をくぐります」

「太白で一泊するってことか。資金面は?」

 俺が聞くとヤヨイは少し言いにくそうに目を伏せた。


「ご主人様の口座には、現在1200万近くの貯金がございました。おそらく……」

「兄貴からの仕送りだな。一銭も使ってなかったが」

 アンドロイド故表情は読み取りづらいが、ヤヨイはどこか決心したような顔で聞いた。


「使っても、よろしいですか」


「俺を月まで連れていくんだろ。あれは俺の金じゃなく『お前が俺を月に連れていくための必要経費』だ。好きに使え」


 ヤヨイは少しだけ目を見開いた。その後、少しだけ口角を上げた。

「承知いたしました。ご主人様」


「それでは、明日はスラム街にいる警備を突破し、太白に向かいましょう。夕食の準備をしてまいります。ゆっくりおやすみくださいませ、ご主人様」

「…………夜の交信はいいのか」

「今夜は月がでていませんので」

 そう言ってヤヨイはキッチンに向かった。夕焼けが過ぎ、徐々に暗くなっていく空を眺める。そういえば今日は珍しく雨が降っていた。


「ご主人様、緊急事態です。起きてください。緊急事態です。今すぐ起きてください」

 朝7時。ヤヨイに肩を揺さぶられて目が覚めた。かなり揺さぶられていたのか、覚醒前の頭がぐらぐらする。

「なんだこんな朝っぱらから……たいはくにいくのは今日の昼だろ、ゆっくり寝かせろ……」

「緊急事態ですご主人様。あくびなどなさっている場合ではありません」

 ほわあ……と大あくびをしている俺に刺すような視線を送るヤヨイ。

「緊急事態つってもお前の中で、だろ。大した事ねえのが大半じゃねえか」

「映画館付近の警備の数が急増しています。ざっと50人ほど」

「緊急事態じゃねえか」

 なんでだ。なぜバレた? というより、いくら月人病患者とはいえ、ただのスラムの人間にここまで国が執着するものか?

「申し訳ありませんご主人様」

 罰が悪そうにヤヨイがある方向を指さす。指の先にあるのは、野球ボールだった。

「亮くんからもらった野球ボールに盗聴器が仕込まれていたようです。今朝透視機能を使って発見しました。私の不用心が招いた結果です。大変申し訳ございませんでした」

 本当に申し訳なさそうに頭を深く下げるヤヨイ。長い髪で表情こそわからないが、いつもの機械音声には若干の焦りがあった。

 いくら高性能アンドロイドだとしても11歳になるかならないかの子どもからもらった野球ボールなど怪しむやつはいない。ましてやスラムの子どもに、だ。

「そいつの父親だか母親だかが役人に金握らされて息子に持たせたんだろ。スラムじゃよくあることだ」

 大事なのはこの状況をどう切り抜けるかだ。太白行きの列車はこの時間でもある。むしろ朝の方が運行数は多いはずだ。

「予定繰り上げだ。ついてこい」

 俺は寝室から出て右手にあるドアを開ける。入るとそこは書斎になっていた。映画館の隠し階段を降りてすぐの部屋も書斎になっているが、この書斎に置かれている本たちは少し違う。


 父が残した革命軍の機密書類がある。父の処刑後、この部屋はすぐに捜索されそのほとんどは押収されたが、それでも「見る価値なし」と放置されたものが何冊か残っているのだ。


 部屋の一番奥。最上部がガラス製のショーケースになっている本棚。ショーケースを開けて、幼い頃父に買ってもらった「ゲツメンジャー」の黄色担当のフィギアを左に九十度ひねる。カチッという小さな音が聞こえたかと思うと、本棚が自動的に左に移動した。出てきたのは隠し扉。いかにもミステリ大好き人間の父のやりそうな仕掛けである。

 部屋の中には所狭しと武器がならんでいた。銃刀法違反をものともせず、大量の銃、手榴弾、タクティカルナイフ、刀まで置かれているのだから恐ろしい。


 一生使うことのない部屋だと思っていたが、人生何が起こるかわからんものである。


 俺は適当なハンドガンを手に取って、ヤヨイに向き直った。

「一番使いやすいの選べよ。月のそれとは劣るだろうが、地球製の武器も悪くないぜ」

 ヤヨイはひとしきり部屋を見渡すと、俺のもとに一丁の銃を持ってきた。

 89式5.56mm小銃か。大昔に我が国で生産された国産アサルトライフルである。

「対人戦ならハンドガンの方がやりやすいぞ」

「結構です。私の腕力であればこの程度、片手で扱えます。手榴弾も持っていきますので集団戦においても有利に戦えます。玉兎の身体能力を信用なさってください。それに」

「それに?」


「かっこいいのでこれにします」


 男の子のロマンをよく理解しているアンドロイドである。


「わかった。絶対無理するなよ。いいか。俺は銃なんて使ったことないからな。戦場では死ぬほど役に立たないからな。お前頼みだぞ」

「ええ、このヤヨイにお任せください」

 それじゃ、行くか。

 ヤヨイと二人で階段の前に出る。

「今回は片腕がふさがっているので、こちらの体勢に変更します。失礼します。ご主人様」

 そう言ってヤヨイは俺の脇腹をぐっと掴むと、そのまま肩に持ち上げた。


 俵担ぎである。


「お前の肩が脇腹にあたって死ぬほど痛いんだが」

「このまま階段を駆け上がったあと、ご主人様は手榴弾を警備隊に投げ込んでください。混乱に乗じてそのまま突破します」

「なあ腹が痛いんだけど」

「ではご主人様、走ります。目を瞑って、ウサギの数でも数えておいてください」

「それ流行ってんのか」


 ヤヨイは深呼吸すると、そのまま思いっきり階段を駆け上がった。肩がめり込んで俺の腹が悲鳴を上げているが、今回は俺も手榴弾を投げ込むという大事な役目がある。ここでくたばるわけにはいかない。


「ご主人様、扉、蹴破ります!」

 ガンっと爆発音にも似た音が響き渡ると同時に、太陽光が目を射す。それと同時に俺は手元にある手榴弾の安全ピンを思いっきり引き抜く。


「私から見て二時の方向です! お投げください!」

「……ああ!」


 大きな機械音声が響く。俺を目をぎゅっと瞑って後ろに力いっぱい投げる。

「ナイスピッチです! ご主人様」

「今野球の話は縁起悪いだろ!」

 徐々に後頭部にあたる風が強くなっていく。ヤヨイの走るスピードが速くなっている証拠だ。

「怯むな! 追え! 殺さなければ多少は許す!」

 周囲に怒号が飛び交う。上官かなにかに見つかったのだろう。ヤヨイのスピードに追い付けなければ意味はないが。


「スラム街居住区に到達。太白への電車までの最短ルートを解析致します。ご主人様、後ろの警備隊はお任せします」

「一発も当たらなくても文句言うなよ!」


 距離は遠いものの、それでも警備隊はしぶとく追いかけてくる。ベルトに引っかけていたハンドガンを構える。ハイスピードかつ、不安定な体勢では照準が合わせづらい。なんとか頭を狙うが、やはり当たらない。威嚇射撃にはなっているので及第点といったところか。

「弾の無駄遣いにはご注意ください。人間でもゾンビでも弾切れは命取りです」

「世の中ゲームみたいに弾の数気にする余裕なんてねえんだよ!」


「射撃準備、前方の敵を無力化します」

 ちゃき、という銃特有の小気味よい音が耳元で鳴る。パンっという音が響いたかと思うと、次の瞬間には頭から血を流している兵士らしき人が倒れていた。

「一発で決めたのかお前」

「玉兎にかかればこの程度の小銃、文字通り片手間で扱えます」

 さすが。人外の本気を見た。89式って両手で撃つもんじゃないのか。


「ご主人様! うしろ、来ます!」

「え!? ああ!」

 慌てて銃を構え直す。刹那、パンっ! と警備隊の一人が発砲した。銃弾が俺に突撃してくる。スローモーションのようにゆっくりと銃弾が迫る。


 一秒遅かった。


 さっき見た頭を撃たれた兵士が脳裏を掠める。体が震える。「死にたくない」という機能はまだ残っていたんだな、とどこか他人事のように思った。


 肩に何かが突き刺さった感触がした。生温かい、ぬるりとした感触が腕をつたってくる。ぶわりと肩が熱を帯びる。

「ごしゅじんさま!」

 ヤヨイは一瞬俺の方を見たが、すぐに切り替えた。

「ルートを変更します。飛びます……ご主人様!」

 トップスピードを保ったまま、ヤヨイはぴょんっと軽やかに飛んだ。スラムの住人がなんだなんだと上を見上げる。

「離れろ! 追撃の邪魔だ! お前らも一緒に撃つぞ!」

 警備隊のものと思わしき怒号が聞こえる。それでもがやがやとうるさいスラムの住人に圧され気味のようだ。王都の人間にはわからんだろうが、こいつらの協調性のなさをなめてはいけない。

「あ! ヤヨイちゃん! ベランダなんか入って何してるの?」

 小学生くらいの小さな少年がアパートから小さな顔を覗かせる。あれが噂の亮くんか。君が原因でお兄さんとヤヨイちゃんはベランダからベランダに乗り移って走る羽目になっているのである。


「相手の照準をかく乱します。もう少しの辛抱です。ご主人様」

 依然鳴りやまぬ銃声。血がどくどくと流れ続ける腕。満身創痍とはこのことだが、まだ死ねない。月に行くまでは、死ぬわけにはいかないのだ。持てよ、俺の体。防衛反応からか、目をぎゅっと瞑る。


 プルルルルルルルル……という音が微かに聞こえる。

「改札を飛び越えます」

 無賃乗車だとか、キセル乗車はタブーだとか、そんな突っ込みを入れる元気もなかった。ダンっという衝撃のあとゆっくりと目を開けると同時に電車のドアが閉まり、住み慣れたスラムから無事脱出することができた。

「目的地に到着しました。お疲れ様でした、ご主人様。席が空いているのでそちらに座りましょう」

「ほんとにお疲れ様だったな」


 気が抜けた瞬間、肩に強烈な痛みが走る。思わず顔を顰める。ヤヨイに肩を貸してもらい、なんとか電車の隅の座席に座る。肩から血を流した奴が突然乗り込んできたため、乗客は怪訝そうな顔でこちらをちらちらと伺っている。

「左腕を出してください」

 乗客の視線など我関せずといったふうに、ヤヨイは負傷した俺の左腕を掴む。行く前に持っていったサイドバックから包帯を取り出すと、手際よくそれを巻いていく。

「消毒液は何年前のものかわかりませんでしたので、包帯のみですが。あくまでも応急処置ですので太白についたら病院に向かいましょう」

 太白も立派なスラム街なので、病院があるか怪しいが。闇医者はいるかもしれない。

 ヤヨイが強めに包帯を巻いてくれたおかげで、思ったより痛みは薄くなった。包帯のありがたみを感じながら車窓から見えるスラムを眺める。10年という短いんだか長いんだかわからない俺の螢惑ライフは、肩を撃たれるという大きな代償を伴って終了した。


「……なあ、お前王都についてからどうするとか決めてんの?」

「…………………………」

「なんも考えてなかっただろ」

「すみません、よくわかりません」

 なんも考えてなかったらしい。


「……親父の知り合いがいる。もしかしたら、話を聞いてくれるかもしれない」

「お知り合い、ですか」

「俺はあったこともないけどな」

「会ったこともない相手にどうやってアポイントを取るのでしょうか」

 このアンドロイドから一本とれたような気がして、思わず頬が緩んだ。

「相手が有名人なら、居場所もわかるだろ?」


 日下部かなえ。


 世界的軍事会社カリングループ創設者であり、元革命軍に所属していた、父の同級生である。

 


 

 



 








 




 


 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る