真昼を月まで連れていけ
柴まめじろ
第1話
月のような女が、捨てられていた。
朝、いつものように金に困り、いいもんあったら売り飛ばしてやろうとスラムで一番の瓦礫の山に行くと、いつもと様子が違っていた。
昼過ぎに起きたので人っ子一人おらず、「珍品はもう取りつくされたな」と舌打ちをしたが、それでも諦めきれず、俺はジャンク品の山に登ったのである。
すると、いたのだ。瓦礫の山で眠りこけている女が。普段から手入れされているのであろう絹糸のような銀髪。しみ一つない真っ白な肌。そこから生える滑らかな肢体。俺にはわからないが、おそらく上等な生地が使われたノースリーブの白いワンピース。
スラム街第2区「
「……おい、こんなとこで寝てたら襲われるぞ」
肩を揺さぶってみても女はびくともしない。
「……おい、おい! 起きろ! お前王都のやつだろ? こんなスラムにいたら、ほんとに身ぐるみ剝がされるぞ」
一向に起きない女に心底苛立ちを覚えながら、強めに肩を揺さぶる。それがいけなかった。
カタン、と車の部品が取れるような小気味よい音が女の肩から発せられた。
「は……?」
とれた。女の、腕が、とれた。
「人殺し」という文字が脳をよぎる。スラムで暮らして早十年。盗みは数えきれないほどやってきたが、とうとう人を殺してしまった。
「……逃げるか」
この女の身なりからして、たぶん王都の貴族かなんかだろう。なんでこんな物理的にさびれた街にいるのかは知らんが、捕まったら拷問の果てに獄中死確定だ。どうせ死ぬなら牢屋より青空の下で死にたい。
寂れた街、ではなく錆びれた街というのが重要だ。
「俺は何も見なかった」と己に暗示をかけ、瓦礫の山から立ち去ろうとした。その時だった。
「ピー。外部からの衝撃を確認。起動します」
生気のない女の声が背後から聞こえた。機械音声のような、合成音声のような、「読み上げソフトの声」という表現がぴったり合う声だった。
ガシャン、ガシャンと背後で何かが動く音がする。
「腕の損傷を確認。再度取り付けを開始します」
ガシャン! とおよそ人からは発せられない音が背後で聞こえる。
目を合わせてはいけない。あいつは人じゃない。
「生命体を発見。『人間』と認識。コミュニケーションを図ります」
早く逃げなければと足に力を籠めるが、俺の棒切れのようなそれは一向に前に進まない。
「こんにちは。私を起動した人物を御存じでしたら、『はい』とお答えください」
俺は質問に一切答えず、震える腕で左を指さす。当然その先には誰もいない。
ドクドクとあまり刺激してはいけない心臓が鼓動を早くする。
「心拍数を測定。乱れを検知。嘘と断定いたします」
ガシャン、ガシャンという音が近づいてくる。
「もう一度聞きます。私を起動した方を御存じでしょうか」
「………………」
「もう一度聞きます。私を起動した方を御存じでしょうか」
「………………」
「もう一度」
「だあああ! もういいよ。俺だわ! お、れ!」
無様にも我慢比べに負けた俺が後ろを振り向くと、女の形をした人ではない何かが無表情で立っていた。
腰まである長い銀髪。青白い肌。満月のような、黄金色の瞳。
「月が人になったら」という幼い妄想を形にしたロボット。
「初めまして。私は『
無表情のはずの女が、黄金色の瞳を勝ち誇ったように輝かせた。
「ご主人様」
玉兎。俺のような一般市民以下の分際には一生馴染みのない代物。その存在は高貴なる者の象徴でありながら、反対に忌み嫌われる「代名詞」でもある。
「玉兎みたいな奴だな」は大抵悪口である。
そもそも玉兎とは、この荒廃した地球と、発展した月とを結ぶ要として作られた人型アンドロイドのことを指す。
約千年前、地球は増えすぎた罪人の流刑の地として、当時荒れ果てていた月を選んだ。殺人を犯した者、国の政治に反対し、国賊とされた者、国の運営の障害となる者を月へと送り出したのだ。
邪魔者を月へ流せば、地球は安泰という算段である。しかし、それから二百年、状況は次第に変わった。
月が急速な発展を遂げたのである。宇宙という未知の領域を、罪人の子孫たちは攻略していったのだ。
一方地球はと言うと、荒廃の一途を辿っていった。何千年も前から危険視されていた地球温暖化がとうとう臨界点を迎え、作物は育たず、海洋面積も減り、生きるすべを月に頼らざるを得なくなった。
それでも最初のうちは、地球はまだその優位性を保とうとした。傲慢にも「月への労働力の提供」という名目で以前のように罪人を月へ送り込んでいた。
月は新たな労働力を得ることと引き換えに、地球から月へ安全に人を送る輸送艦、「月の舟」を送ることを約束した。その操縦を務めるのが「玉兎」である。
かなり遠回りをしたが、要は「罪人を月へ輸送するための舟の操縦士」が玉兎なのである。なぜ玉兎が高貴なる者の象徴なのか、なぜ忌み嫌われるのかは、後で説明する。
この女、いや玉兎と相対していることに、頭が痛くなってきたのだ。
「俺は玉兎なんかのご主人様になれる器じゃないぞ」
「ご主人様の生態認証を開始します。旧日本。現
「無視か」
「認証を終了します。これより、正式に真昼様の死亡確認を終えるまで、当該人物を『ご主人様』と認定。末永くよろしくお願い致します」
………………よし、帰ろう。
回れ右をして帰ろうとした俺だが、ふと立ち止まった。
「……お前、玉兎なんだよな?」
「はい。私は製造番号……」
「それはいい。しつこい」
玉兎は希少価値が高い。ということは、だ。
高く売れるんじゃねえか?
見た目はどう見ても人間の女だ。どっかの変態もとい好事家が高く買い取ってくれるのではないか。
いける。
「よし、ヤヨイ。ご主人様の命令だ。ついてこい」
「承りました。どこまでお供すればよろしいでしょうか」
「近所のジャンクショップ」
俺は今度こそ回れ右して歩き出す。後ろからトン、トンと小気味よい音がついてきた。
スラム街第2区は、「螢惑」という立派な名前がある。最も、王都のやつらは「第2」としか呼ばないが。大昔は「近畿」と呼ばれた記録のある場所だが、79年前、正式に「螢惑」という名がつけられた。ちなみにスラム街第1区は「
日本と呼ばれたこの国は「月の下国」という名に変更され、地区は全て星に関連付けた名前になっている。もちろん、王都も例外ではない。
すべての地域は「月を囲む星のような国」であるために名付けられている。
螢惑、いや王都の人間に敬意を表して、「第2」と呼ばせてもらおう。第2は、面積の割に人口が少ない。これは他のスラムにも言えることだが、この不毛の地は面積はあっても使える土地はないのだ。
街の隅には瓦礫の山が放置され、廃墟と化したビルが未練がましく残っている。人が住んでいるのはこの奥。最後にいつ整備されたのかもわからないアパートがスラムの住人の居住区になっている。不法占拠もいいところだが、誰も文句は言わない。言う体力が勿体ないのだ。目的のジャンクショップもそこにある。
今こうしてヤヨイと歩いていても、大した悩みもなさそうな子どもと、今日という日をどう生きるかに必死なその母親が大半である。ヤヨイは早速物乞いに声をかけられていた。
「ご主人様、リンゴはお持ちでしょうか」
「こんなスラム街にリンゴの木が生えてると思うか? 生えてたとしたらそれはリンゴの木じゃなくて金のなる木だ」
「ということです。大変申し訳ございませんが、リンゴや金銭は持っておりません」
1ミリも申し訳ないと思ってなさそうに機械的に物乞いに謝罪する玉兎。物乞いの女が恨みがましく俺を睨みつけ去っていく。なんで俺なんだよ。恨み言ならそこの玉兎に言え。
「ご主人様、止まってください」
「……なんでだよ」
「目的地までのルートをご案内します」
「いらない」
「スラム街第二区、螢惑の位置情報をインストール。目的のジャンクショップまで、残り、522メートル」
こいつ、ロボットのくせに強情だな。そうプログラムされてるのか。
「お待たせいたしました。目的地に向かいましょう」
「ほんとにお待たせしたな」
「ご主人様、減らず口は効率を悪くします」
それが人に仕える態度なのだろうか。
「チッ…………」
負け惜しみの舌打ちをして、彼女の先を歩く。
どうせあと数時間の仲だ。これくらい我慢してやろう。こいつのご主人様は俺みたいな汚らしいスラムの若者ではなく、目の肥えた貴族のお偉いさんだ。
スラム街居住区の奥。スラムでは珍しく大きな建物が目指していたジャンクショップである。建物、というか工場なのだが。不用心にも開けっ放しにしてある鉄製の重厚なドアをくぐる。中は薄暗くひんやりとしていて、壊れた車や自転車が所狭しと並べられていた。ここに来るたび思うが、こいつらはいつ修理されて持ち主の元に帰ることができるのだろうか。もはや不用品置き場である。
ガソリン臭い工場の奥には、こんなところには不似合いな一等高そうな赤いスポーツカーがある。店主の祖父が昔大枚をはたいて買った一品らしいが、そのせいでその息子と孫の家計は火の車らしい。俺は慣れた足取りでスポーツカーへ向かった。ヤヨイも俺の後ろを無言でついてくる。まるでこの後自分に待ち受ける運命を知っているように。
「…………よお」
声をかけると車のボンネットを開けて中をいじっていた店主――
土蔵は人好きする笑顔を浮かべるとヤヨイの方をみて
「これはまたえらい別嬪さん連れてきたなあ、まひるくん?」
と俺の方を見た。
「まあな。こいつのことで用がある」
土蔵は俺の言葉の意味を図りかねているようで、眉間に皺を寄せた。
「どっからどうみてもただの綺麗なお姉さんじゃねえか。まさかお前、こいつを査定しろってか? こんなくたびれた修理屋に?」
「ああ」
「……マジか」
「マジだ」
土蔵はさらに顔をゆがめた。
「いいか真昼くん。うちは修理屋で、人は見ねえぞ。奴隷市場じゃねえんだ」
「修理屋でもジャンク品の買い取りはしてるだろ。こいつは人じゃなくて玉兎だ」
土蔵は俺の隣にいる女がロボットだったことに目を見開き驚いた様子だったが、その顔には僅かに焦りの色があった。
「お前、その、玉兎なんてどこで拾ってきた?」
「居住区の外れの瓦礫の山」
「マジかよ……月の国のロボットのパーツなんてわからんぞ?」
「玉兎の市場価値くらいはわかるだろ。良い値がついたらラブドールとして紳士淑女に売り飛ばす」
「お前それはまた……けったいなことするなあ」
土蔵は苦虫を嚙み潰したような顔をし、なぜか俺の方を見て深いため息を零した。
「……わかったよ。値段くらいは、見てやる。2時間くれ」
「ん、りょーかい」
どうやら査定はできるようだ。二時間もあるし、時間潰すか。
「待て、どこ行くんだ?」
「さけ」
後ろでまたもやおっさんくさいため息が聞こえてきた。
「お嬢さん、あんなのやめてさ、俺にしとかない?」
「拒否します。私のご主人様は真昼様ただ一人であり、それ以外は受け付けません」
「ずいぶん好かれてるんだねえ、あいつも」
まったくだ。これから売り飛ばされるってのに、健気なもんだ。ロボットっていうのは。
居住区の軒先で売られている賞味期限切れの安酒を買って、人のいない日影に座る。
あの女は、いくらで売れるだろうか。
玉兎は、罪人を月に送る輸送艦の操縦士である。日本、いや「月の下国」において罪人は軽蔑の対象である。どこの国でもそうではあるが、2000年前から王政になったこの国において、罪人に人権は認められなかった。もっと昔は「囚人にも基本的人権を!」ということがあったらしいが、今やそんなもの影も形もない。
そんな罪人を月まで「安全に」輸送する玉兎はもちろん侮蔑の対象であった。しかし、「ある事件」をきっかけに玉兎の地位はそれまでと打って変わって「高貴なる者」の象徴となった。
「月をこの目で見たい」と当時の王の息子、しかも次男坊が言い出したのである。その我儘を叶えるため、月は王族用の月の舟と玉兎を用意した。通常の月の舟とは違い、「空飛ぶ王宮」とまで言われるほどの豪華絢爛な舟が地球に着陸し、玉兎も罪人を送る男性体ではなく女体の玉兎が作られた。そうして第2王子は悠々と月を堪能、できなかった。
できなかったのである。月に着くことすらできなかった。
どころか途中で死んだ。
王子とその他大勢の王族、貴族を乗せた「空飛ぶ王宮」は操縦士となった玉兎の暴走が仇となり、大気圏を超えることができず墜落した。舟の残骸はまだ残っているらしいが、操縦していた玉兎の行方は未だ闇に包まれている。
これが80年前。
当然王族は黙っていない。スペアとはいえ大事な跡取りを月に殺されたのである。 結果、この事件は月と日本の全面戦争を招いた。戦いには何千体、何万体もの玉兎が投入された。玉兎の性能の一つに、並外れた戦闘能力がある。罪人を輸送する際、万が一舟が乗っ取られることのないよう、いざとなれば艦内全員を全滅させられるぐらいには強い。なんせ月の技術力を総動員させて作成されたアンドロイドである。強さは織り込み済みだ。
そんな人外と人がまともに戦ったらどうなるだろうか。勝負はリングに上がる前から決まっている。日本は全滅寸前まで追い込まれ、雀の涙ほどの田畑も蹂躙され、完膚なきまでに叩きのめされた。スラム街が誕生したのもこの時期だ。日本軍が降伏したその瞬間、月と我が国の主従関係は逆転した。
日本は「月の下国」と改名され、あらゆる地域も星の名前に変更するよう強制された。また、月とのいわゆる「不平等条約」が締結され月から食料と軍事協力を得られる代わりに、月への毎年の上納金と政権の代替わりの度に、王の息子を人質として差し出すことが決められた。なんとか人質は長男ではなく次男を人柱にするということで締結されたが、それでも跡継ぎを失うことはかなりの痛手となった。
人質となる王子は「
正直、俺は月の連中のネーミングセンスはわりと嫌いではないが、人の国の王子を罪人呼ばわりとは、月も思い上がったものである。もともと天高く存在している星ではあるが。
月と地球との上下関係を逆転させた玉兎は、表向きは「王子を輸送する高貴なるアンドロイド」だが、同時に「日本を失墜させた忌み嫌われる鉄くず」なのである。
不安になってきた。あの女、ほんとにいい値段つくだろうか。玉兎など、売りに王都に出向いた瞬間石投げられて終わりじゃなかろうか。
「案外、俺の方が高く売れたりしてな」
それはないか。自嘲気味に鼻を鳴らして、俺は土蔵の元に戻ることにした。まだ一時間しか経ってないが、3本買った酒は飲み終わったし、やることないし、なによりそろそろパチンコの時間なのでさっさと値段を聞いて帰りたい。
「おう、戻ったぞ」
「お待ちしておりましたご主人様。私が傍におらず、申し訳ありません。裏切った友人に殴り掛かられた、昔の恋人に刺された、借金取りに追われた、ストーキングに遭ったなどの被害は」
「ない。お前どんだけ俺の人間性甘く見てんだ」
俺の姿を確認すると、ヤヨイは虹彩をキュウっと絞り、俺の隣に駆け寄ってきた。
「1時間しか経ってないぞ酔っ払い。まあ? 俺の天才的な技術により? 査定はあらかた終わったが? まひる君は? いくら払ってくれるんだ?」
「おう、さっさと値段教えろ。査定料は売り飛ばしたらそこから出す」
「ノリ悪いなおまえ……んじゃ、お待ちかねの結果だが……」
へらへらと笑っていた土蔵だったが、いざ査定結果の話になると複雑そうな表情を浮かべた。やがて何か決心したようにこちらに向き直った。
「結論から言うと、ゼロ円だ。一銭の価値もない」
期待が外れた空虚感と、「やっぱりな」と腑に落ちている自分がいた。
「理由聞いていいか」
「機体が古すぎる。どう新しく見積もっても80年前だな。もはやオーパーツの域だ。データの処理足度、残りのデータ容量もギリギリだ。なにより……」
そこまで言うと土蔵は先ほどと同じように罰が悪そうに目を伏せた。
「なにより」
彼は俺をちらりとみると、今日何度目かの深いため息をついた。
「こいつは腕に薄らとだが、ヒキガエルの焼印があった。……嫦娥シリーズだ」
そうか、なるほどな。
1円の価値もない。
嫦娥シリーズは、80年前に当時の第2王子を乗せていた「空飛ぶ王宮」の操縦士をしていた玉兎だ。月と日本の大戦争「嫦娥戦争」の引き金を引いた、地球の権威を地に陥れた最も忌み嫌われる玉兎。
隣にいるいかにも無害そうなこのアンドロイドは、我が国史上最も死者を出した戦争の、大戦犯だった。
月の光によく似た、黄金の瞳がじっとこちらを見据えている。値踏みするかのような視線に、背中に冷たい感触が走った。
「ただまあ、この玉兎……ヤヨイさん自身に値段が付かなくても、だな」
流れた気まずい雰囲気を察したのか、土蔵は苦笑いしながら呟いた。
「パーツはそれなりに高く売れる、と思う。なんせ月の国産のアンドロイドだからな。研究機関のやつらは言い値で買ってくれるんじゃねえか?」
「なら話が早い。なるべく早く、丁寧に解体してくれ。明日取りに来る」
俺がそう言って去ろうとすると、土蔵はなぜか焦ったように俺を引き留めた。
「待てって! お前、正気か……? そもそもお前、金、持ってるだろ?」
「クソ兄貴から送られた金を使えってか。死んだ方がマシだね」
「だからって、お前……」
土蔵は何か言いたげに俯く。下唇を噛んで、何かを必死に堪えているようだった。
「なら明日にでも王都に連れてって、適当に解体してもらう。んで、報酬はお前じゃなくてそいつに払う。それでいいよな? ヤヨイ」
「異論ございません。ご主人様」
土蔵がハッとした顔でヤヨイを見る。こいつにとってもヤヨイは金のなる木だ。みすみす逃すことはできないらしい。所詮こいつだってスラムの住人なのだから。
「わ、わかった。わかったから。解体……する。するよ」
弱弱しい声で土蔵は了承してくれた。情けない体制で、彼は人差し指を一本立てた。
「……1週間だ。1週間、待ってくれ」
「なんで1週間?」
「俺の心の準備期間」
よくわからんが大金が手に入るなら別にどうでもいい。
「わかった。今日のところは帰る。お疲れさん」
「土蔵様、本日は長時間に亘るメンテナンス、ありがとうございました。ごきげんよう」
腰までつくほどの長い髪の毛を垂らし、深々とお辞儀をするヤヨイ。1本1本が銀色に輝く絹糸のような髪がさらりと揺れる。頭頂部には「天使の輪っか」が見え、そのおぞましいほどの完成された造形に、こいつが人でないことをありありと実感させられた。
「……帰るぞ」
「はい、ご主人様」
「あ! 帰る前に1つだけ」
土蔵が何かを思い出したように俺たちを呼び止めた。
「哲学書は読ませるな」
「…………? わかった」
理由は図りかねるが、破る道理もないので了承しておくことにした。
「ご主人様」
「なんだ」
「居住区から反対のルートに向かわれています。その先には15年前に営業終了した映画館しかありません」
「よくわかってんじゃねえか。そこ行くんだよ」
その映画館こそ俺の住処である。10年前に亡くなった父が使っていた場所を勝手に引き継いだだけだが。居住区から俺の住処まではかなりの距離がある。一年中続くこの暑さのせいで、額に玉のような汗が浮かぶ。タンクトップが背中に張り付いて気持ち悪い。脱水になったのか、喉が張り付くような感覚を覚え、ヒリヒリと痛む。息は既に上がっていて、己の非力さに情けなくなる。
「ご主人様、休憩なされませんか」
「いい。水もないのにどうやって休憩すんだ」
「承知いたしました」
俺とは正反対に、ヤヨイは汗一つかかず涼し気に俺の後をついてくる。
「ご主人様」
「今度はなんだ」
「クソ兄貴、とは誰のことでしょうか」
「……ついたぞ。入れ」
「ご主人様、クソ兄貴とは」
「無駄金を送ってくる頭お花畑の俺の兄だ」
無表情のアンドロイドに、これ以上ないほどの侮蔑の眼差しを向けて吐き捨てる。
「二度と聞いてくんじゃねえぞ」
ヤヨイの肩が、かすかに上下した。
「承知、いたしました」
ヤヨイは、アンドロイドゆえに表情を崩さなかったが、それでもこいつの鼻をあかしてやれたような気がした。
映画館特有の重い扉を開け、券売機の裏手に回る。3台並んだ券売機の一番左の裏手に回って、隠し戸を引く。取っ手に積もった埃を払って、力いっぱい引き上げる。
「隠し階段ですか」
「ああ、親父の趣味だな」
備え付けの懐中電灯を握って、慣れた足取りで階段を降りる。初めてここに来た時はこれを降りるのでさえおっかなびっくりしていたが、10年も経てば人間慣れるものである。
階段を降りきると、スラムではめったに見ない木製の重厚な扉が鎮座している。朱色の扉には金字で「Hinata」と彫られている。もちろん父の偽名である。金色のドアノブをひねり、中へ入る。赤いペルシャ絨毯の上には木製の猫足の机と椅子。部屋の奥には、本革製の安楽椅子。そして、
「月でも珍しいほどの、冊数ですね」
壁一面を覆いつくす、本棚。
「全部母さんの遺品だ。俺のは一冊もない」
歴史学者の母が亡くなったとき、唯一の財産として俺が引き継いだ大量の歴史書。一部は棚に収まりきらず机に積んであるが。それも塔と化している。
「すげえだろ。革命軍も幹部にまで上り詰めると、ここまで稼げるんだぜ」
まあそのあとあっさり治安部隊に捕まって処刑されたが。
「革命軍。月の下国において月に隷属する今の王政に反対する組織ですね。存じております」
「そ。ちょっと活躍したのが俺の父親。そんな根無し草と結婚した歴史家が俺の母さん」
安楽椅子に腰かけ、積んでいた本に手を付ける。「嫦娥戦争-革命軍から見た一つの歴史」という、まあいかにもなタイトルだ。
「ご主人様、キッチンをお借りしてもよろしいでしょうか」
「この部屋から左手のドア」
「ありがとうございます。今日の夕食はいかがされますか」
「いらん。腹減ったなら適当に食っとけ」
「玉兎は完成されたアンドロイドのため食事を必要としません」
ヤヨイは一瞬黙ったものの、またすぐ口を開いた。
「ご主人様、食事は生命維持のため非常に重要です。食べる楽しみは私には理解できませんが、生命維持のため、食事を摂られることを強く推奨致します」
人が食わないっつってんだから、ほっといてくれたらいいのに、目の前のポンコツは理解できないらしい。お前が起こした戦争で何人もの人間がその生命維持とやらができなくなったんだが。
「俺が今更生命維持なんてしてどうする。こんな薄汚れた体でこれ以上生きろってか?」
そう言いながら奴に眼前に右腕を出す。土で汚れたよれよれのタンクトップから出された腕は、大小様々な丸い痣がぼこぼこと浮かび上がっていた。腕だけじゃない。足も、背中も、腹も、普段は髪で隠している顔の左半分も。
痣は円になっている部分が盛り上がっており、まるでクレーターのようになっていた。
「月人病ですね」
醜い腕を差し出されても、顔色一つ変えずにヤヨイは病名を言い当てた。
「ああ、月の医療でしか治らない、世界一名誉な病気だな」
そう言って俺は自嘲気味に笑った。この病のせいでスラムの住人にすら拒絶され、居住区から隔絶された父の隠れ家に住まざるを得なくなった。
「お前みたいな最初から完成されたロボットじゃねえんだよ。俺は。母親は小さい頃に死んで、親父は国に殺されて、おまけにこの見た目だ。お前はそれでも生きろってか?」
「理解できません」
…………は?
「理解、できません」
表情一つ変えずに涼し気に答える。
「見た目や生い立ちは今後生きるかどうかには関係ありません。私はご主人様の健康維持及び促進に努めることが役目です。それ以上はありません」
俺たちの世界を散々苦しめた玉兎は、俺の方をまっすぐ見据えて、言い放った。
「私は真昼様が死ぬまでお仕えすると言いましたが、それは自然死のみです。真昼様が自ら死をお選びになることを放置するようなプログラムは存在しません」
なんだこいつ。なんなんだよこいつ。人のこと「ご主人様」とかのたまうくせに、全然俺の言う事聞いてくれねえじゃん。
「ははっ」と乾いた笑いが出た。
「……そうかよ」
そこまで俺の死を否定されちゃ、こっちは何も言えない。
「まあでも、現実問題、ここには食料なんかねえよ。あったらスラムなんて存在しないからな」
「しかしご主人様、ご主人様の口座にはお兄様から」
そこまで言ってヤヨイは目を見開いた。
「不適切な発言を検知しました。今回の発言を削除いたします」
そっちは削除できてもこっちはできてないんだが。ロボットも口が滑ることがあるんだな。
「本日は食事の提供は致しません。どうぞゆっくりおやすみください」
そう言ってヤヨイは部屋から出て階段を昇っていってしまった。静かに読書ができるのでこちらとしても万々歳だ。どうせ一週間である。こいつの好きにさせてやろう。
顔の痣が、ズキリと痛んだ。
「ピー、ピー。月との交信を行います。玉兎、製造番号31754001。個体名『ヤヨイ』。本日も問題なく稼働。返答を待ちます。どうぞ」
「……返答が確認できません。もう一度、交信を試行します」
「ピー、ピー。月との交信を行います。玉兎、製造番号31754001。個体名『ヤヨイ』。本日も問題なく稼働。返答を待ちます。どうぞ」
「……返答が確認できません。もう一度」
「おい」
俺の声に気づいて、ヤヨイはすぐさま後ろを振り返った。
「なんでしょうご主人様。ヤヨイはただいま交信中です。交信中のお声がけはお控えください。緊急時は背中のウサギの形をしたボタンを押して、再度お声がけください」
「毎日毎日飽きねえのか。お前はもう玉兎の中では型落ちで、ポンコツで、いつ壊れてもいいんだよ。だったらもうその交信とやらは必要ねえだろ。あとその口でピーピー言うのやめろ」
ヤヨイが俺の住処に居候して六日目。このポンコツは月が一番綺麗に見える映画館の屋上で毎晩毎晩月との交信を図っていた。はたからみれば月を見上げながら女がなんかぶつぶつ言ってるだけなので、不審者そのものである。
「飽きる、飽きないの問題ではございません。私はまだ月から解体命令がでていません。よって、月との交信を行う義務がございます。ピーピー言うのはやめません」
強情な奴だ。明日には引き渡されて一万円札何十枚かになるくせに。
だが、今日はそのことで話があったのだ。
「なあ、お前、生きたいか」
ヤヨイは先ほどまでと変わらない涼し気な目でこちらを見つめている。
正直、ここ5日間のこいつは見事な働きぶりだった。朝8時に俺を叩き起こし、毎日2時間の散歩をさせ、朝昼晩と温かい飯がでてきた。
「食料の代金、兄貴からの仕送りで出してたんだろ」
「兄貴、の話題を検知。黙秘を実行します」
「お前さ」
だからこそ、なのである。
「明日にはただの鉄くずにされんだぞ? そんな奴に仕えるよりもっと自由に生きたいとか、ねえのか」
「理解できません」
黄金色に輝く瞳がかすかに揺れる。流れるような銀髪が、月明かりの下で白く光る。不健康なほどの白い肌は、影を落としていた。
「私はご主人様が自然死を迎えるまで健康で文化的な最低限度の生活を支えることが使命です。ご主人様が私を解体して健康になるのであれば、これ以上のことはございません。そこに生きるも死ぬも、ございません」
「兄貴みてえな奴だな、お前」
俺の兄は両親が亡くなった後、王都の治安維持部隊に入隊した。病気の弟を支えるため、生かすため、毎月飽きもせず金を送ってくる。その金が1円も使われていないにも関わらず。
「俺さ、兄貴嫌いなんだよ。もういいって言ってんのに俺が死ぬことを許してくれない。金を送ることでまだ俺に惨めに生きさせようとする。『俺の責務だ』とか言ってな。そんな奴の金なんて、死んでも使いたくない」
ヤヨイは、表情を一切動かすことなく、ただ黙って聞いている。
「ほんとはわかってるんだ。たとえ不治の病だったとしても、それでも金を送ることしかできないから兄貴はもう10年もそれを続けてるんだよ。俺のせいで。あいつには、あいつの地獄があるのにな」
理解してもらえなくてもいい。玉兎なんぞに俺の苦しみがわかるはずもない。それなのに、なぜか俺は、この女に救いを求めている。
玉兎は「命令を実行することが、私の責務です」となんの感情もなく、ただ事実を伝えるように、淡々と告げた。
兄のことも、俺のことも、否定せず、肯定せず、ただ自分の責務だけを語った。誰の地獄にも干渉しなかった。
何年かぶりに、自然と頬が緩んだ。
「お前、ほんとポンコツだな」
「私は月の技術力を総動員して作成された、月の舟の操縦士です。完璧なアンドロイドとして設計されています。ポンコツではありません」
玉兎も不満は言うらしい。
ただまあ、俺にはこんなポンコツが、お似合いかもしれない。
「命令なんて、できる身分じゃねえけどさ。売り飛ばすのは、もう少し待ってやるよ」
「そろそろ中入るぞ」と話しかけたが、ヤヨイの返事は一向にない。微動だにせず、ただ屋上から地上をジッと見ている。
「…………ヤヨイ?」
「緊急事態、緊急事態。ご主人様への敵性反応を検知。逃走を開始します」
そう言った瞬間、彼女は真顔で俺の元へ駆け寄った。
彼女は「失礼します」と言うと、俺の脇と膝裏に手を滑り込ませ、そのまま持ち上げた。いわゆる「お姫様抱っこ」である。23年生きてきて、初体験である。
彼女は屋上の奥まで歩くと、そのまま一気に走り出し、落ちる寸前で、飛んだ。
まさしく「ぴょん」という擬音が当てはまる、静かで、なめらかな跳躍だった。眼前に大きく映し出された黄金の月が、だんだんと遠くなっていく。俺の体に刻み込まれた痣とよく似たクレーターが、ウサギの形に見えた。
落ちる。反射的に目を瞑って、この後襲われるであろう衝撃に備えたが、予想に反して訪れたのはタンッという軽い衝撃のみだった。
「ご主人様、今から全速力を出します。無理に話すと舌を損傷しますので、ウサギの数でも数えておいてください」
すまし顔でヤヨイが俺の顔を覗いていた。さすが玉兎。
「…………わかった」
そう告げると、ヤヨイは勢いよく駆けた。目を開けていられないほどのスピードで、音もなく、かけていった。居住区の人間を起こすことなく、入り組んだ路地を走り抜けていく。後ろで銃声が聞こえる。居住区の人間の声も次第に多くなっていく。「敵性反応」とやらが俺たちを追っているのだろう。このスピードじゃ追いつけないだろうが。
「ご主人様、飛び込みます」
「…………は!?」
言い終わらないうちにバシャンッと水に体を打ち付けた感覚がした。同時に口に塩気のある水が流れ込んでくる。
「かっら! 痛った! 死ぬかと思ったわ!」
「敵性反応、完全に消滅、お疲れさまでした」
「お疲れさまでしたじゃねえわ! 殺す気か!」
「断じてそのような意図はございません。ご主人様の安全のための処置です」
実に憎たらしい。厚顔無恥とはこのことである。
「もういい……で? なんだったんだよ。敵性反応って」
「敵性反応のデータを再度分析。王立病院研究員部隊と断定」
「王立病院って、王族お抱えの医療組織だろ? なんでそんな奴らが俺なんか」
言いかけてはっと息をのむ。待て。1つだけある。奴らが俺を狙う理由が。
「ご主人様、月人病はこの月の下国、いえ、地球では不治の病です。現在、月人病患者の人口はこの国でたったの五人。サンプルが非常に不足している状況です」
「治療方法を見つけるための実験体集めってことか」
「さすがですご主人様」
真顔で言われも嬉しくない。由々しき事態である。俺は別にどこで死のうが関係ないが、俺はスラムの住人だ。スラムの人間など、奴らにとっては家畜と同じ。どんな扱いをされるかわかったもんじゃない。
「最悪の場合、殺されるリスクも充分ございます。確率を計算いたしましょうか」
「いらん。縁起悪い」
さて、どうするか。スラムから逃げるにしても行き場がどこにもない。野垂れ死ぬという手もあるが、目の前のこいつがそれを許さない。
「ご安心くださいご主人様。何があっても、ヤヨイはあなたをお守りします」
月の光が反射した水面に映し出された、この世のものではない女が、そう言い切った。
「月まで逃げ切ればよいのです」
アンドロイドは、静かに俺をみつめた。
「ご主人様、ご命令を」
固く、意志の宿った黄金色の瞳に、背筋が凍りつくような感覚を覚えた。まさしくここが俺の人生の分かれ道だと。
無表情の瞳は、俺に「選択を間違えるな」と脅している。
「……ヤヨイ、俺を」
うるさく鳴り出した心臓を落ち着かせるように、息を吸い込む。
「真昼を月まで連れていけ」
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