第17話

 夏休みが始まった。社会人になってからはまとまった長期休みは取れないと大人達から口酸っぱく聞かされてきたので、勿論予定は詰められるだけ詰め込んだ……と言えるほど充実はしていない。しかし全く予定がないという訳ではなく、後から増えると期待して予定をあえて入れていないのだ。あくまでも、あえてだ。

 そして今年は去年と違うところがひとつある。早速夏休み初日から予定があるのだ。


「藍田、遅いぞー」

「悪い悪い、親から電話かかってきてさ。話してたら遅くなった」

「なるほどな。焼きそばで許してやるよ」


 夏祭りの相手は篠原だ。図々しい奴だと心の外で思いつつ、彼に話を持ち掛けられなかったら今日ここにいる予定はなかったので感謝もしている。数少ない友人のひとりなのだから。人気者の美月とは違うのだ。

 美月とは恋愛的な繋がりではないので休日に外で遊ぶことはない。もしかしたら会えるかもしれないと周囲を見渡し、絶句した。溢れかえる人、人、人。規模が大きい祭りとは言え、ここまでとは思っていなかった。


「この祭り、人やばくね?」

「こんなもんだろ。お、たこ焼きあるじゃん!」


 困惑する昴とは対照的に、篠原は数々の屋台に目を輝かせていた。地元の祭りすら人混みが嫌だという理由で家に引きこもっていた昴が久しぶりに参加するには規模が大きすぎる。しかし折角のイベント、楽しまない訳にはいかない。篠原の背中を追いかけた。


 十分後。両手に屋台の食べ物を抱えたふたりの男は河原へ向かっていた。この辺りは明日の花火大会の観客席らしい、近くには本部と書かれた仮設テントが乱立している。篠原によると花火大会当日の朝から場所取りに人が集まるらしい。想像しただけで疲れてしまう。昴はアパートのベランダから見れればいいや、ぐらいにしか思っていない。今日の帰りにでもビールを買おうかと考えているところだ。


「なんで、人多すぎないか……?」


 正直、人の多さに気圧された。体力には自信がある昴だが、それとこれでは話が別だ。

 そんな昴の隣で、篠原は焼きそばを貪り食っている。透明なプラスチックのケースに入ったそれは、お世辞にも多量とは言えないボリュームではあったが、ほんの数口で平らげてしまうとは。


「焼きそば美味すぎ!マジありがと」

「……それはよかったな」


 たこ焼きとかき氷を交互に食べ始めた篠原に困惑しつつ、昴は温くなったビールを啜った。結局、外で呑むのが一番美味しい。遠くで聞こえる祭囃子の音が、更に気持ちを高めた。

 左手に持っていたオムライス焼きそばの蓋を開ける。ビールぐらいにしようと思っていたのだが、祭りの雰囲気に飲まれてつい買ってしまったのだ。通常の焼きそばの上に薄い卵焼きが被さっているもので、興味をそそられた。濃い味付けの焼きそば部分と優しい卵の甘さが相性抜群な一品だ。


「おい藍田、冷たいかき氷と熱々のたこ焼きを交互に食べるのいいぞ!」

「口の中でサウナみたいなことしてるな……」

「お前も食え!」

「えっ」


 無理やり口の中に入れたれたかき氷は、ブルーハワイだった。青く染った昴の舌を見て篠原は無邪気に笑っている。やり返そうにも手元には美味しいだけのオム焼きそばしかないので今日のところは諦める。




「ちょっと、お兄さんたち〜」


 振り向くと浴衣を纏った二人組の女子が立っていた。少なくとも学部内ではイケメンと名高い篠原に対してこの声のかけ方なので、他学部か他校の人だろう。見るからに昴と正反対の陽気を感じるので同じ大学なら経済学部のオーラを感じる。それとも国際学部だろうか。見た目から相手の学部を必死に考えていると明るい茶髪に派手な浴衣の方が話し出した。


「さっきめっちゃかっこいい人たちいるなーと思って、探してたの。一緒に回らない?」

「うちらもふたりだし、丁度良くない?」


 とか言いつつ俺の方は一切見向きもしてないが?と心の中でツッコミを入れつつも、篠原の様子を伺った。当たり前だが昴はナンパに遭遇したのはこれが初めてだ。祭りの高揚感は人を積極的にさせるのだろうか。


「ごめんね、今日はそういう気分じゃないんだ」

「え〜!でもさ、一緒にいたら気分変わるかもよ?」

「うちら盛り上げるの超得意だから任せて!」


 篠原のやんわりとした断り方では食い下がらないようだ。押せばいけると思われているのかもしれない。下手に口を出すと場が拗れるかもしれないので昴は黙っていた。この返しに、篠原は何と伝えるのだろう。すっかり外野の気持ちで見守っていた。


「……大切な人がいるんだ。その人に君たちといるところを見られたくない。だから……ごめんね」


 そう告げると篠原はすっと立ち上がり昴もそれに続いた。驚く女子たちに手を合わせてごめんねと身振り手振りで伝え、その場を立ち去る。早歩きで篠原を追いかけ、彼の隣に並ぶ。遠い目をしていた。



 


「た、大切な人がいたのか……」


 沈んだ空気に耐えられなくなり、先に口を開いたのは昴だった。先程の話で登場した「大切な人」について聞くべきかは迷ったが、他に話題がない。


「んー、いや。正直口から出まかせだったけど、大切に思っていることを初めて自覚した」

「そうか……?」

「分かってなさそうな反応だな」

「その通り!……全然分からない」

「いつか話す」

「分かった」


 放課後、学校で見た彼の姿を思い出す。橋本友梨のことだろうか。篠原と関わりがあって昴が知っているのは彼女だけだ。大切な人との行為にしては過激だったので違うのかもしれない。わざわざ詮索することではないので彼が口を開くのを気長に待とうと思う。

 八月の生温い風が、昴の頬をかすめた。



 


「あ……」


 篠原と別れ、スーパーに立ち寄った。店内は祭りの帰りと思われる浴衣姿の客で混雑している。

 美月が好きだと言っていたカクテルのシリーズが店頭に並んでいた。期間限定の新作が発売されたらしい。特に昴好みの味ではなさそうだが、思わず缶を手に取ってカゴに入れていた。もしかしたら夏休み中に彼女と会う予定が入るかもしれない。そのときに好きな酒が予め用意されていたら喜んでくれるだろう。昴は自分が思っていたより美月に惚れ込んでいることに自覚した。


 店を出る頃には町はすっかり静まり返っていて、祭りの喧騒は聞こえなくなっていた。昴はワイヤレスイヤホンを耳に入れ、お気に入りのプレイリストを再生した。ジャンルを横断するかのように雑多に曲を詰め込んだリストからは、行きつけの古着屋で流れていたジャズが聴こえてくる。家が立ち並ぶだけのつまらない道も、曲を流せば楽しい帰路に様変わりした。

 イヤホンから通知を知らせる音が鳴る。スマートフォンを確認すると美月からメッセージが届いていた。


「明日、花火大会だね」

「藍田くんは見に行くの?」


「人混み苦手だから行かない予定」


「そっか。確かに今日も人多かったもんね〜」


「そうだな」


 会話が下手すぎる。昴が行かないで家で見る、だから来ないかと誘ったら会話はもう少し続いただろう。もし都合が良ければ会うことができたかもしれない。ただ、昴の部屋から花火が見られるかは微妙だ。だから誘わなくて良かったのだ――そう考えることで自分のミスをなかったことにする。いつまで経っても関係が変化しないのはその考え方のせいだぞ、と喚く心の声は無視した。

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