第11話
「暑い……」
エアコンが故障した。夏真っ盛りというのに、これは生死に関わる案件だ。そんな条件下で、しかも業者が来るのは3日後だと。今年の夏は例年と比べものにならない暑さ。流石に扇風機1台では乗り切れそうにない。昴は南向きの部屋を選んだことを初めて後悔した。
とりあえず友人の篠原にLINEを送る。エアコンが壊れてしまったから直るまでの3日間泊めてもらえないか、と。条件は3日間の食事代と飲み代の奢りだ。他にもなにかあれば言ってくれ、と付け加えた。
「飲み奢りマジ??何泊でもしろ!!!」
飲み会は勿論、酒豪の彼からしたら良い条件だったのだろう。快諾されたことに昴は安堵した。
美月との約束を思い出した。今晩は昴の家に来る予定になっている。こんな部屋に入れてしまったらセックスの有無に関わらず熱中症になってしまうだろう。昴はすぐさま電話をかけた。
「おー藍田くん、どしたの?」
「ごめん、エアコン壊れたから今日無理になった……」
「わ、それは大変だ!」
「もうこっち向かってるよな?」
「うん……あ、もしよればなんだけど」
美月はそこで一区切り入れ、また話し出す。
「うち、来る?」
「おじゃまします……」
「どーぞどーぞ!」
あの後、美月から自宅へ来ないかと誘われ行くことにした昴の目の前には、オートロックの扉が立ちはだかっていた。どうやらここに、しかも一人で暮らしているらしい。マンションは白く輝き、手入れが行き届いていることが窺える。昴は住んでいるアパートを思い出して、少しの笑みがこぼれた。その顔を見逃さなかった美月にどうしたのかと問われて、理由を説明する。彼女曰く、両親がかなり心配性らしい。オートロック付きで2階以上の部屋、という条件だと大学近くはこのマンションが1番好ましかったそうだ。
昴は過保護な娘の貞操を破ってしまう原因になったことを心の中で謝罪した。
「……」
「なに?汚くはないでしょ?っていうか普通に綺麗だと思うけど」
「ん……あ〜いや、そういうことではなく」
部屋に入った昴は少しばかり思考が停止した。女子の部屋に入るのは人生で初めてなのだ。家具が可愛い白いレースが縁取られた掛け布団に、ベロア生地のヘッドボードが付いたアイアンベッド。昴の部屋とは違い、汚してはいけない雰囲気が漂っている。
そして、極めつけは居心地のよい香り。甘く、しかし甘ったるさやキツさのない優しい香りが漂っている。昔から知っているような、優しくて落ち着く香りだ。
「そういうことじゃないなら、なによ〜?」
「……良い香りがする」
「……あ、りがとう?」
本人には自覚がないようで困った顔をしながら礼を言った。見たところ、この部屋に芳香剤らしきものは見当たらない。
「っていうか、やっぱり涼しいなあ……」
エアコンの風が直に当たる場所に立ち、涼しい風にありがたみを感じる。その光景に美月は驚いたのか、困惑したような顔をしたまま口を開く。
「そこは、流石に寒くない?」
「そうか?あーなんか女子って冷やさない方がいいんだっけ」
「と、よく言われてるね。まぁ普通に身体に悪いし……」
冷やしすぎないでね、と母親のようなセリフを言って美月はキッチンの方へ向かった。
「まぁ、とりあえず君の好きなものを用意したからさ」
席についてよと言わんばかりの目線を受け、昴はソファに腰掛けた。背もたれが貝殻を模したデザインになっており、横に置かれたサテン生地のクッションは真珠のように見えた。部屋を見渡すと、全体的に海をモチーフにしているようだ。私服を見ていて思っていたが、美月はかなりセンスが良い。今日の彼女はスポーツブランドのロゴがプリントされた大きめTシャツに、同じくダボッとしたカーゴパンツに身を包んでいる。どちらも青の同系色でまとめられ、差し色のオレンジがベルトやソックスで取り入れられている。反対色の組み合わせだというのに統一感があるなと感心した。かっこいいと思ったものを選んでちぐはぐになる昴とは大違いである。
「じゃーーーん!おいなりさんだよっ」
「マジ!?」
プラスチック容器にぎっちりと詰め込まれた黄金に輝く油揚げ。顔を近づけなくても美味しそうな香りが感じられる。ぎゅるる、と腹が鳴った昴は美月から箸を受け取った。そういえば昼過ぎから何も食べていなかった。
端の方に詰められている稲荷寿司を頬張る。噛むと、甘辛い味付けが染み込んだ油揚げがじゅわっと口いっぱいに広がった。ふたつ、みっつと箸を進める手が止まらない。市販のものよりはるかに美味しく、美月の手作りという点に心も満たされた。
「私の分は要らないから、全部食べていいよ」
「え、いいの?」
喜んで食べようと思ったが、最近の美月が痩せ気味なことを思い出す。
「んゔ!?」
「最近あんまり食べてるところ見ないから」
箸で二等分した稲荷寿司を美月の口に入れる。軽い夏バテだとは思うが、心配なのだ。
急に口に入れられた美月は目を白黒させつつ、稲荷寿司を咀嚼している。飲み込んだところで話しかけた。
「めちゃくちゃ美味いだろ?」
「……私が作ったんだけど〜!」
まるで作り手のような科白を吐いた昴を美月は笑った。
「あ、ごめん!俺酒買うの忘れてた」
「実はうちにもないのだよ〜」
今から買いに行こうにも、土地勘がない場所だ。だからといって外は暗いので美月ひとりに行かせる訳には行かないし、ふたりで買いに行くところを誰かに見られたら明日から昴の命はない。
そんな昴に美月は身体を寄せて呟く。
「じゃあ、今日は素面でしちゃうんだあ……」
「……もう襲ってほしい感じ?」
訊ねると、美月はみるみる顔が赤くなり、昴の胸に顔を隠すように抱きついた。甘い香りが空気伝いに昴の鼻腔をくすぐる。彼女の背中に手を回した昴は首筋に顔を近づけ、更に美月の香りを求めた。
「汗、かいたから、嗅ぐなあ……」
「自分から抱きついたくせに嗅ぐなって、お嬢さん酷いねえ」
「……んー!うるさい」
美月によって無理やり引き剥がされた昴は仕方なくベッドに腰掛けた。少ししてから彼女もベッドの端に座る。昴とは半人分ほど離れていたので、右手を腰に当て身体を自身の方へぐいっと引き寄せた。
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