最終話 灰は灰に

 裂けたトンネルの隙間から真っ直ぐに差し込む太陽。砂塵が舞い上がり、刃紋のように光を美しく揺らした。

 千鶴は瓦礫の山を振り返ることもせず、覚束ない足取りで線路をなぞって歩いていく。

 ──真夏の言う通りだ。

 道端を殺し、妹を殺し、待ち構えている警察、追ってくるやくざ共、全員を殺さねば生き延びることはできないだろう。

 千鶴がひとつしわぶくと、口元から黒煙が立った。

 ──何人殺せるだろうか?

 千鶴はすでに魔力のほとんどを使い切っていた。満身創痍の状態で、体もすでに言うことを聞いちゃいない。

 警官隊を相手にさらなる大立ち回りを演じるどころか、線路を歩いていくことすらままならず、壁に体を預けながらやっと倒れずに進んでいるのだ。

 血の赤が掠れながらトンネルに線を引く。

 肩で息をしながら、何度も躓きながら、線路を進み続ける。

 半時間かけてやっと暗闇を抜け、駅に辿り着くと、千鶴はドッと崩折れた。壁を背に座り込み、ぜえぜえと息をつく。

 気配を殺してはいるが、すでに多数の警官が駅を包囲し、今か今かと突入を待っているはずだ。

 だが、千鶴はそういった状況をしばし忘れ、無人の駅舎に見入った。

 長年放置されて赤黒い錆が侵食し、土手っ腹に大穴を空けた電車の車体。腐りかけのレールと枕木。蔓草の巻きついた転轍機てんてつき。穴だらけのトタン張りの壁が風に引かれ、ぎいぎいと音を立てながら陽の光を振り撒いた。

 その燻んだ蜜柑色に、千鶴は自身の運命を重ねた。

 失われた過去、このようにある今、そして、未来。

 ──これが私の墓碑銘か。

 千鶴は喉に血を詰まらせてむせた。陽光が羽虫のように群がり、血の斑点がチカチカ輝いた。

 全身が沈澱していくような疲労に目を閉じかけたとき。

 視界の隅で黒い影の輪郭がザクッと砂地を噛んだ。

 その音に目を上げ、千鶴は思わずふっと笑みを浮かべた。

「強くなったね、真夏」

 千鶴と同じくらいボロボロの真夏が、そこに立っていた。

 ポタ、ポタ、と髪の毛の先から砂の混じった赤黒い血が滴り、シャツはあちこち裂け、真っ赤な縞模様ができていた。

 真夏の能力を持ってしても、不意のトンネルの崩落を無傷で切り抜けることはできなかったのだ。

「立ってないで、真夏も座んなよ」

「いいや」

 真夏はゆっくりとかぶりを振り、千鶴に示すように廃駅の向こう側へと視線を送った。

「行き止まりだよ、お姉ちゃん……」

「どうやらそうみたいだ」

 千鶴は再び咳き込んだ。口から垂れた血をドレスの裾で拭い取り、いかにも億劫そうに真夏を見上げた。

「連中、どれくらいで来るんだ。盛りのついた犬みたいに、私ひとりを相手にさ」

「まだ時間はある」

 真夏はチラリと腕時計に目を落とした。文字盤は血で曇って見えなかった。

「まだ、あるはず……」

「呼べよ」と千鶴は言った。「合図をしろ。私は連中を蹴倒してここを出る」

 そうしてよろよろ立ち上がると、ドレスのあちこちから血が滴った。トレードマークの真紅のリボンは、流れ出る血に埋もれてしまっていた。

 真夏は思わず目を背けそうになった。

 だが、歯を食いしばって、真っ直ぐに姉のことを見つめた。

「そんなことはさせない」

「なら退け」

 二人、同時に殴りかかった。

 お互い満身創痍だが、常人を遥かに凌ぐ膂力は健在だった。

 ミシッと軋むような音と共に、頬に拳が突き刺さる。衝撃が全身を震わせ、傷口から血が噴き出した。

「ぐ……」

「ううッ……!」

 ぐらりと体の軸が揺れる。しかし、二人は即座に次の動作に移っていた。

 真夏は大きく体を翻し、回し蹴りを放った。

 千鶴はそれを屈んで躱すと、そこから飛び上がる勢いで頭突きをした。

「ぐ、うう……!」

 モロに顎に頭突きを食らった真夏はよろよろと体勢を崩す。

 そこへ今度は千鶴の後ろ回し蹴りが綺麗に決まった。

 真夏は横方向へ吹っ飛ばされ、錆だらけの電車に突っ込んだ。金属板が外れ、ガランガランと大きな音が駅舎いっぱいに響き渡る。

「このぉ……!」

 千鶴はゆっくりと距離を詰めながら、ピッと焼却の魔法を飛ばした。

 電車の窓ガラスが割れ、頭上にバラバラと破片が降り注ぐ。

 真夏はガラスを振り払いながら立ち上がると、千鶴に掴みかかった。そして、全身の力を振り絞り、背負い投げを仕掛けた。

「うおおおッ!」

 外れかけた扉へ叩きつけるように、千鶴を電車に投げ入れる。

 派手な音を立てて扉が外れ、その先の外装をぶち破り、千鶴の体が叩きつけられた。

「はぁ……はぁ……」

 真夏は荒く息をつきながら車内を通り抜けた。

 千鶴は血とガラス片にまみれ、線路の上に横たわっていた。受け身を取る余力もなかったらしい。

「お姉ちゃん──」

 そう口にしたとき、真夏の胸にこみ上げてくるものがあった。

「ごめんね……」

 千鶴は真夏の言葉に目を見開いた。

「ごめん、だと」

 ボタボタと血を流しながら起き上がった。

 千鶴は憎しみを全身に漲らせていた。それだけが彼女を動かしているものだった。

「退け、真夏……! 私に悪いと思っているのなら、そこを退くんだ」

「お姉ちゃん──」

「退け!」

 千鶴は正真正銘最後の力を振り絞り、急所を真っ直ぐに狙った手刀を放った。

 しかし。

 一瞬早く、真夏の拳が千鶴の脇腹にめり込んだ。

「ぐッ、う……うぁぁああああ!」

 あばらを粉砕し、内臓を潰す一撃。

 千鶴は痛みと衝撃に叫んだ。

 だが、それで膝を屈することは矜持が許さなかった。

 体の芯から魔力を汲み出して、渾身の手刀を突き入れる。

「うおおおおおおッ!」

 だが、ギリギリで急所を外してしまった。

 抉りこむような真夏のブローによって、千鶴の体の軸が逸れたのだ。

 手刀は真夏の頬を掠めるに留まった。

「う、う、うあああッ──!」

 しかし、凄まじい痛みと髪の毛が焼ける匂いに、真夏は背中から倒れ込んだ。

「う、ぐ、うぁ……!」

 滝のように流れる血を手で受け止める。

 鼓膜に直に触れるジリジリという燻る音と、血に混じった焼け焦げた塊。

 それが肉片だと気づいた真夏は、左耳のあった場所に触れた。そして、指先の素通りする感覚にゾッとした。

「み、耳が……!」

 真夏はガチガチと鳴る歯を無理矢理に噛み締め、視線を上げた。

 闘志を奮い立たせ、正面を真っ直ぐに捉え──真夏は全身が凍りつくような感覚に襲われた。

「はぁ……はぁ……!」

 千鶴の右腕が焼け、灰になって崩れていた。

 肩の付け根からもうもうと煙が立ち、異臭が真夏の鼻をついた。

「お、お姉ちゃん、その腕……」

「私に触れるな」

 思わず手を伸ばした真夏に、千鶴はピシャリと言った。

 炎はすでに肩からさらに先まで侵食している。限界のさらに限界を越えて使用した焼却の魔法が、千鶴を焼き尽くそうとしていた。

「ま、待ってよ……お姉ちゃん、このままじゃ……」

 真夏は子供のようにただオロオロとしながら、千鶴の肩口を舐める赤い熾が広がっていく様を見ていた。

 白い灰に変えられた体がレールの上に落ちる。

 様々な感情を包んでいたはずのものが、無味で均一な物質へ還っていく。

 失われた部位に風がじゃれつき、ドレスをぱたぱたと揺らした。

「お姉ちゃん、だめ……待って……」

 真夏は涙をこぼした。その雫は一瞬で弾け、空気に混ざって逃げていった。

 千鶴はフッと自嘲的な笑みを浮かべた。

「自分の魔法に焼かれて死ぬなんて、皮肉な最期じゃないか」

 そして、燃え尽きてしまう前に、千鶴は真夏の頭をそっと撫でた。

「ダメなお姉ちゃんでごめんね」

 それが最後だった。

 千鶴の体が白く崩れた。

 ドレスが抜け殻のようにくたりと横たわり、血で赤く染まった意匠を白く曇らせる。

 レールを走る冷たい風が、千鶴だったものを終点の先へと運んで行った。

 真夏の手に熱い灰が残った。

「お姉ちゃん……」

 再会して以来、真夏からは一度も触れることのできなかった千鶴の体に今、触れている。

 千鶴の感じていた痛みに、ようやく触れることができた気がした。

 すでに陽は落ちて、深い藍の色の底に取り残された真夏を、赤く濡れた空の淵が駅舎の壁の穴や隙間から伺っている。

「お姉ちゃんのバカ──」

 真夏はそう呟いて、火傷も構わず両の手を握りしめた。

 そして、外で待機しているはずの青柳に、突入の中止を報せに向かった。

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魔女の台所 二之腕 佐和郎 @386chang

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