第24話 フレーム・バイ・フレーム

 120分の1秒を走る。天井から落ちた水滴は完璧な円を保ち宙に留まり、枕木に噛みついた炎は揺れることを忘れている。

 真夏以外にはほんの瞬きの時間。

 姿勢を低く、泥のようにまとわりつく空気を押しのけながら、足を一歩また一歩と踏み出す。

 千鶴の目の前まで距離を詰めたところで、能力を解除する。

 点々と並ぶ水溜まりが一斉に飛沫を上げた。それと同時に、真夏の渾身の手刀が千鶴の首に襲いかかる。

「ぐッ……クソ!」

 不意の手刀をいなした千鶴に、真夏はすかさず足払いを仕掛ける。

 が、一瞬早く勘づいた千鶴は足払いをものともせず、その軸足は根の生えたように動かない。衝撃をまともに受けた枕木が、くしゃりと紙のようにへし折れた。

「へなちょこが──」

 千鶴はフッと真夏の顔面めがけて息を吹きかけた。

 真夏は咄嗟に半身を反らして回避したが、一瞬遅れて前髪の毛先がボロボロと燃え落ちた。

「う、……!」

 体勢が崩れたところへ、お返しとばかりに足を払われる。バシャッと水溜まりに受け身を取ったところへ間髪入れず、焼却の魔法が放たれた。

 真夏はすんでのところで背後へ飛び退いたが、千鶴の魔法で水溜まりは一瞬で蒸発した。

 真夏はじっとりと冷や汗をかいた。

 やはり、一筋縄ではいかない。

「──そんなに悪いことかね」

 不意に、千鶴が言った。

「何……」

「見たでしょ。私の魔法」

 千鶴はカラカラに乾いた水溜まりの跡を指差して、クツクツと笑った。

「一瞬よ。誰も苦しまずに死ねたと思うわ」

「それを聞くと」

 頬に伝う冷や汗を拭い、真夏は言った。

「やはり、お姉ちゃんは生かしておけない」

 千鶴の顔から笑みが消えるよりも先に、真夏は再び能力を発動した。

 今度は千鶴の背面を取り、全身のバネを活かした回し蹴りを放つ。

「見え見えだよ」

 千鶴は体を屈めて蹴りを避け、勢いをそのまま返すように真夏を掬い上げた。

「く、うッ……!」

 全身がフワッと浮き上がった瞬間、真夏はゾッと背中が寒くなった。

 今この瞬間に焼却の魔法を撃たれたら──。

「死ね……!」

 千鶴はすでに構えている。届く範囲に壁はない。

 不可避の一撃が、人間をひと握りの灰に変える魔法が、来る。

「うおおおおおッ!」

 一か八か、真夏は懐のコルトガバメントを抜き撃った。

「何ッ」

 千鶴は咄嗟に防御に回った。練り上げた魔力を体に纏い、弾丸が触れるより前に融かし、落とす。

 真夏の頬を魔力の残滓ざんしが焼く。だが、構わない。

 音の塊が壁を削りながらトンネルを駆け抜ける。一発撃つたびに耳朶じだがビリビリと震え、全身の骨がガタガタと鳴った。

「この野郎!」

 真夏の着地と同時に、千鶴は纏っていた魔力を転回させた。

 しかし、真夏もそれを読んでいる。すでに加速の能力による回避行動を取っていた。

 視界から真夏の姿が消えて、千鶴はハッと我に返った。

「どこだ、真夏……! くそッ」

 千鶴は放出した魔力を再び練り上げる。

 しかし、それよりも早く真夏が拳を突き出していた。

「うッ──!」

 その死角からの一撃を捌くことができず、千鶴の顎を真夏の拳がミシリと揺らした。

 声すらも出ない痛烈な打撃。

 真夏は追い打ちをかけ、千鶴の薄い脇腹に膝蹴りをドスンと沈ませた。

「うッ、ぐ……」

 その衝撃で軽々と吹っ飛び、千鶴は壁に体を打ち付けた。コンクリートに亀裂が走り、ゴロゴロと破片が落ちる。

 壁を支えにして、何とか崩折れることはなかった。

 が、真夏は容赦なく、千鶴のこめかみに鞭のような蹴りを見舞った。

 この蹴りが決定打だった。

「ぐあッ……!」

 千鶴の体はグルンと一回転し、線路の上に叩きつけられる。背中がレールにぶち当たり、金属の鈍い音が鐘のように響いた。

 千鶴は痛みに悶絶し、虫のように線路の上をのたくった。あちこちから血が噴き出し、ぐわんぐわんと頭の中が不快な感覚で爆発していた。

「このッ、野郎……! クソ野郎! う……はぁ……はぁ……」

 骨がぶち折れ、内蔵をシェイクされ、平衡感覚はぐちゃぐちゃだ。

 それでも千鶴は必死に体を起こし、四つん這いの体勢になると、ゲーゲーと血反吐を吐いた。

「お姉ちゃん」

 真夏は子供に聞かせるように言った。

「私の勝ちだね……」

「う、う、ぐ、はぁ、はぁ……勝ちだと」

 千鶴は腹を押さえながら呻いた。

「ペッ。真夏が私を殺すまで、はぁ……はぁ……決着はつかないさ……」

 真夏はかぶりを振った。

「私と一緒に行こう、お姉ちゃん」

「どこへ? どこへ行こうっていうの。またあの刑務所で動物みたいに飼われなきゃいけないの?」

「そうしなきゃ、殺されるだけだよ……」

「言うな」と千鶴は口元を拭った。「私は殺されやしない」

 二人の荒く息をつく音が反響し、一匹の巨大な獣の呼吸のようにトンネルの中をうねった。

「露子さんを殺して、私を殺して、追ってくるやくざや警察、全員殺すの?」

 ククク、と千鶴は皮肉っぽく笑った。

「ああ。道端はお母さんを殺した。はぁ……はぁ……道端にやらせたのはやくざで、やくざは警察となあなあで? 真夏、おまえはその筆頭だったワケだ。う、……げぇ。はぁ、はぁ……ハハハ、何の呵責もなく殺せるね」

 千鶴は四つん這いの体勢からゆっくりと立ち上がり、血の化粧の向こうで残忍な笑みを浮かべた。

 真夏は空のガバメントを捨て、悲しげに笑みを返した。

「せっかく会えたのに」

「私も、残念だ……」

 千鶴は膝を震わせながら、全身に魔力を満たした。

 徐々に、トンネル内の温度が上がりはじめる。

 ──まだ魔法を使えるなんて。

 真夏はスーッと細く息を吐いた。

 足元の水溜まりや、千鶴の傷口から流れる血がシュウシュウと音を立てて蒸発した。壁や天井からカラカラに乾いた植物が砂と共に落ち、ジリジリと火煙を上げる。

 何をするつもりだ──真夏は警戒して距離を取っていたが、千鶴の全身が熾火と化したように煌々と火の光を湛えたとき。

 まさか、と手を伸ばした。

「お姉ちゃん! 待って!」

 真夏の叫びに、千鶴がニヤッと笑った。

 そして、腕をひと振り──その内に練り上げた限界以上の魔力を、に向けて放った。

「な、何……!」

 ドッと衝撃が走る。

 次いで、メリメリと分厚いコンクリートが裂け、一瞬、夕焼けに染まる蜜柑色の空が目に飛び込んできた。

「じゃあね、真夏……」

「お姉ちゃん──!」

 真夏は必死に手を伸ばしたが、千鶴は踊るような足取りで踵を返した。

「そっちへ行ったらダメ──!」

 廃駅へと向かう千鶴の後ろ姿に、真夏は必死で叫んだが、コンクリート片の雨に遮られた。

 一瞬見えた空が、再び闇に埋もれた。

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