第22話 タンジェリンドリーム
蜜柑色の雲から滴り落ちた陽光が、車のガラスをギラギラと濡らす。
真夏は両の手を組んで、心の内でぐるぐると巡る二つのことに意識を向けていた。
ひとつは、姉──千鶴がこのまま誰にも知れず遠くへと逃げ去ってくれたら、という気持ち。
もうひとつは、もう一度だけでもいい。彼女と話したい。十五年の空白を埋め合わせたい。そんな気持ちだ。
だが、どちらも叶うことはないのだろう。
真夏と青柳をピックアップした警官の情報では、犯人(千鶴)は先の戦闘で相応のダメージを負っているはずで、そう遠くへ逃げることはできない。加えて、すでに多数の警察官が網を張っており、追跡がはじまっているのだった。
真夏は手をギュッと握りしめた。
そのとき、車がゆるゆると速度を緩め、やがて線路沿いの道へ出たところで停車した。
「おい、どうした……この渋滞は」
青柳が警官の肩を小突く。
事故のようです、と警官が答え、無線で仲間に連絡を取りはじめた。
真夏と青柳の二人は車を降りて、車と車のあいだを縫うように道路を歩いた。
しばらく行った先で、複数台の車が大破していた。
「何だ、これは──」
青柳は唖然とした。
遮断機の降りている踏切の中で電車が線路を塞ぎ、その手前で複数台の車が大破、炎上していた。
横転した車の横っ腹はぶち抜かれ、その大穴から覗く内装は焼け焦げ、変形し、異臭を放っていた。そして、真っ黒い炭に変えられた人体の残骸があちこちに。
その凄惨さに、真夏も息を呑んだ。
「おい、これは一体どうなってる? 犯人は?」
青柳は現場の警官に問いただした。
やはり、というべきか。彼の話した犯人とは、宮本千鶴だった。
血のついたボロボロのドレスを不審に思い呼び止めた警ら中の警官が、やくざ殺しの一件に思い至り、応援を要請。一時は包囲したものの、猛攻に遭い、二名が殺害、残りの数名は重傷を負った。
犯人は大立ち回りを演じたのち、踏切を越えて、線路上へ逃走。
真夏は体の奥から魔力を汲んだ。
これ以上は……ギリギリと心が軋む音がする。これ以上、千鶴に人を殺させてはならない。
120分の1秒を走る──直前、青柳が真夏の腕を掴んでいた。
「どこへ行く」
「──止めなければ」
「おまえひとりでか……」
真夏が腕を振り払おうとするのを、青柳は頑なに制止した。
「馬鹿野郎! 道端を殺し、安生を殺した奴だ。警察すら屁とも思ってないんだぞ」
「私が止めなきゃ」
「殺されるぞ、宮本」
真夏は青柳のほうを振り返った。青柳の隻眼が不安の色に揺れていた。
「行くな」
「──あれは私のお姉ちゃんなんです」
その言葉に、青柳は絶句した。
真夏は青柳の手を取り、そっと外させた。
「行かせてください」
「ずっと、何か繋がっていないような違和感があったんだが……」
青柳は力なく呟いた。
真夏と真夏の家族が十五年前に巻き込まれた事件、道端露子との内通、そして宮本千鶴という存在。
「わかった」と青柳はついに頷いた。「だが、ひとりでただ向かっていくのは無謀だ。死にに行くようなものだぞ」
「たとえ刺し違えてでも……」
「おい、オレ達ァやくざと違うんだ」と青柳は懐から地図を出した。「まだ時間はそう経っていない。線路に逃げ込んだのなら逃走ルートはある程度絞れる」
「だからこそ早く……」
「待てって。いいか、この先に分岐路がある。一方はすでに廃線になっているルートだ。その先の開けた場所に廃駅がある。ここを警官隊が囲い込む」
青柳は地図上の一点にぐるぐるとペンで印をつけた。
「おまえが奴を追い込むんだ」
真夏は顔を上げて、青柳の目を見た。もう、先程の不安な色は微塵も残っていなかった。
「わかりました」と真夏は頷いた。「ただ……お願いです、何とか、お姉ちゃんを説得してみます。それまでは、突入を待っていただけないでしょうか」
「できるのか? 奴に抵抗を諦めて、大人しく捕まるように」
「──きっとできません。包囲網に落ちたとしても、最期まで抵抗するでしょう」
「わかった」と青柳は重々しく頷いた。「おまえがケリをつけるんだな」
真夏は言外に、千鶴を自らの手で殺す、と宣言したのだった。
青柳はそれを理解した。
「行け、宮本。オレは例の場所に招集をかける……かっきり一時間後だ」
「一時間後に」
真夏は再び全身を魔力で満たした。
青柳がポンと背中を叩く。
「死ぬんじゃねーぞ」
グッと頷いた直後、真夏は土煙だけを残し、姿を消した。
能力発動の限界ギリギリまで走り抜け、能力の発動と解除を繰り返す。
枕木を噛むように蹴り、延々と続く線路をひた走りに走っていく。
そして真夏は、トンネルに差し掛かったところで一度足を止めた。
灯りのない、真っ暗な空間を前に、青柳の示した地図を脳裏に思い浮かべる。
目標までの距離、そして千鶴が逃走したであろう距離を思考すると、この長大なトンネルに、姉がいる可能性は高いはず。
真夏の能力は不意打ちに滅法弱い。組みつかれたら加速の能力は使えない。そうでなくとも千鶴の能力は強力だ。
まるでトンネルが呼吸しているかのように、生温かい空気がフーッと真夏の横髪を揺らす。
不意に、真夏は目を細めた。
微かではあるが、トンネルの吐き出した空気に、焦げた匂いが混じっていた。
「行こう」
小さく、ごく小さな声で己を鼓舞し、真夏は一歩踏み出した。影に入り込んだつま先が、闇にじわりと消えていく。
そうして全身が闇に覆われると、コーン、コーンと、向こうから輪郭のない音がバラバラと耳に届きはじめた。
何百メートルかおきに設置された非常灯を頼りに歩いていくと、次第に目が慣れてくる。足元のレールや枕木の輪郭を探りながら、音を殺して進んでいく。
出口は遠い。
大きくカーブを描くトンネルの中、一歩、また一歩と足を運ぶ
出口は遠い。
だが、焦げた匂いは……炎、魔術の残り香は、色濃く真夏の嗅覚に絡みついている。
真夏のこめかみに一筋の汗が伝う。
そのとき。ふとレールの上に不自然な影が落ちているのに気がついた。
真夏はゆっくりと腰を屈めた。それは赤いリボンだった。
拾い上げて見ると、リボンの端が濡れていた。指先に跡がついている。おそらく、血だった。
やはり、千鶴はこのトンネルに──真夏はごくりと唾を飲んだ。
瞬間。
どさりと影が落ちてきた。
「なッ、う……!」
加速能力の発動を迷う間もなく、その影に背後から組みつかれ、首を一気に締め上げられた。
「が……ああッ! く、野郎……」
真夏は渾身の力を振り絞り、自身の体ごと相手を壁に叩きつけた。
拘束がわずかに緩む。
肘を相手の鳩尾に叩き込み、再び壁に体を叩きつける。
「う、ぐぅッ!」
やっと拘束を振り払うと、真夏はくるりと体を反転させ、その勢いのままに拳を突き出した。が、間一髪で躱される──真夏の拳はコンクリートの壁をぶち抜いた。
襲撃者──宮本千鶴は、血の混じるゲロをベッと吐き捨てて、胸元をさすった。
「誰が追ってきているのかと思えば……」
「お姉ちゃん」真夏は咳き込みながら応えた。
「真夏」
妹を前に、表情が波打った。そしてすぐ、迷いを振り切るかのように、千鶴は踵を返した。
「待って──!」と真夏は声を上げた。「向こうに逃げたら、警察の包囲網の中だよ」
千鶴は足を止めた。しかし、振り返った彼女の表情には、嘲りの笑みが浮かんでいた。
「ご丁寧にどうも。私を逃がしてくれるっていうの?」
「いいや」と真夏は悲しげに
「──全員、殺すさ」と千鶴は言った。「私にできないと思うか?」
「お願い。これ以上、お姉ちゃんに罪を重ねてほしくない。お姉ちゃんに死んでほしくもない。だから、私と一緒に……」
ペッ、と千鶴は唾を吐いた。
「やくざとつるんでたようなクソッタレ刑事の言うことを信じられるか」
「お姉ちゃん……」
「私に触るな!」
手を伸ばした真夏に対し、千鶴は激昂した。
「道端の野郎は死んで当然だし、安生も同じ。やくざなんぞ何人殺したって構わん連中さ」
千鶴の全身に殺気と膨大な魔力が渦巻いた。足元の枕木が黒く変色し、ジリジリと煙を上げはじめる。
「真夏、何にも知らずに飼われていたおまえは本物のまぬけだよ。私にはもう、戻る場所などないのさ」
瞬間、真夏の口いっぱいに苦味が広がった。魔力の干渉作用だ。
真夏は目の裏で太陽が爆発したような閃光を感じた。
それは本気で放たれた焼却の魔法だった。
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