第20話 甘くみるなよ
安全の安に、非我の非、他人の命で、
「リウマンの奴らは、そう呼んでる」
安生はそう言って、ぺろりと唇を湿らせた。
「かっこいいじゃん」
千鶴は足元がひっくり返るような異常な感覚に、一口分のゲロを吐いた。
こめかみへの蹴りと、安生の体液がないまぜになって脳を揺らしている。
アンフェタミンの過剰摂取によって引き起こされた症状。眩暈、嘔吐、痙攣……この状態で、安生を体術で圧することは難しい。
焼却の魔法で殺るしかない、それはわかっている。
だが──今まで味わったことのない異常な感覚に、狙いをつけるどころか、体内で魔力を練り上げることすら覚束ない。
「個人的に、ちーちゃんのことは、一番強い魔法少女かも〜って思ってたけど」
千鶴を見下ろす安生の表情は、残酷な色を湛えていた。
「案外、ミコのほうが強いんだ」
「抜かせ」
千鶴は手刀と同時に焼却の魔法を放つ、が、両足の踏ん張りが効かず、膝からガクンと崩折れて、あらぬ方向へと狙いが逸れた。
安生はフンと鼻を鳴らして、再び強烈な蹴りを千鶴に見舞った。
千鶴の体は横方向へ吹っ飛ばされ、派手な音を立てて屋上の柵に打ちつけられる。
「がぁッ……!」
千鶴は前のめりに倒れ込み、再び嘔吐した。床と頬のあいだに吐瀉物がのたくった。
──報いか。
はらりと舞い上がった灰の粒を、ポツポツと降りはじめた雨がなだめた。
ちくちくと頬を刺す冷雨に千鶴は目を細めた。
──私は、
「クソッ……」
千鶴はギリギリと歯を鳴らした。
──
それもいい。
──この十五年、
だが。
千鶴は柵を掴んだ。
ぜえぜえと肩で息をしながら、膝をガクガクと震わせながら、立ち上がる。
戦意が未だ挫けない千鶴に対し、安生はパチパチと皮肉っぽく拍手を送った。
「ミコね、ちーちゃんを今ここで殺すのマジもったいないと思ってんだ」
「道端を始末できたとはいえ、ね……オェッ。ヤカタ会の連中と話はついているんじゃなかったの?」
「連中、ほんと都合のいい頭してるよ」安生はケタケタと笑った。「武闘派をパージして、どうやって他の組の頭を押さえようってんだか。ミコ達がへーこらシマのおこぼれ引き継いで大人しくしてるはずないしッ」
「連中だって、それくらい頭に入れてるんじゃないの」
「だからさ。ちーちゃんがついでで幹部の何人か、先手で殺っておくの」
「──あんたがやれば、いいじゃないか」
「ミコじゃダメ。あくまで組とは関係なくって、でも、ウチらが殺ったということでなきゃ」
「やくざってかったるいね」
「ちーちゃんのお姉さん……じゃなかった、妹さんのこともあるし」
ブルッと体を震わせた千鶴に、安生はにんまりと笑顔を浮かべた。
「あんなひよっこの
「真夏……」
千鶴にたったひとつ残されているもの──真夏。
ここで易々と敗れては、たったひとりの妹は一体どうなる?
安生はまだ、真夏を自分の財布にしまう気でいるのだ。
「フフン。ミコが信用ならない? それとも今ここでミコを阻止する?」
千鶴は自らの身の内で鳴る警告を無視して、拳を構えた。
二人のあいだに、薄灰色の線が幾つも引かれる。雨が本格的に降り募っていた。
「ステキなお姉ちゃんだこと……」
安生は血液を操作して、膝の傷から血飛沫を千鶴へ飛ばした。彼女の血液はいくつかの塊になって、千鶴の皮膚を虫のように攀じ登った。
「く、う……や、野郎ッ」
千鶴は安生の血を振り払おうとして、バランスを崩した。
すかさず、安生の前蹴りが鳩尾に深く突き刺さった。
「ううッ、ゴホッ──!」
胃酸混じりの唾液が床に滴る。ガクガクと膝が震える。
そうしているあいだにも、安生の血は千鶴の傷口を目指して皮膚を這っている。
「うう、う……はぁっ、はぁっ、うおおおおお!」
千鶴は絞り出すように魔力を練ると、自らの身体の表面に焼却の魔法を爆発させた。ジュッ、と音を立てて血液が蒸発し、千鶴は間一髪、難を逃れた。
「頑丈ッ、だね。でも、いつまで保つかな」
安生は体液を操作して、屋上の隅に放置されていた机を引き寄せた。
机の脚を鷲掴みにし、荒っぽい動作で千鶴の脳天に叩きつける。
天板がぶち割れ、金属のフレームが千鶴の形にひしゃげる。
遅れて、机が炎に巻かれる。安生は自身に焼却の魔法が及ぶ前に、ポイっと投げ捨てた。
メラメラと燃え盛る机を興味深げに眺め、安生はニヤッと笑いかけた。
「完調なら、自分に当たるより前に机を灰にできてた?」
その通り──千鶴はうつ伏せに倒れた状態で、自らの血が雨に伴われて床を流れていく様を見ていた。
なんとか魔力を練ることはできそうだが、平衡感覚を失った状態では体術を封じられている上に、焼却の魔法の狙いをつけることが難しい。
防戦一方の大勢を変えるためには──。
千鶴はフッと、腕に残った赤黒い跡に目を留めた。
これは、安生の血液を蒸発させた跡だ。
「完調なら、さァ」
千鶴は突っ伏した状態のまま口を開いた。血と雨が唇にまとわりつく。
「おまえの大好きなナントカってクスリごと、炙って、天国に送ってやれるのに」
「あははっ。おもしろいね〜。たしかに、ちーちゃんの魔法はそういうの便利そう」
「はぁ、はぁ、クソッ!」
「おっと──」
千鶴は不意打ち気味に焼却の魔法を放った、が、安生は難なく距離を取って攻撃を躱した。
二歩、三歩と後退り、安生はくつくつと口元に手を当てて笑った。
「オーバードーズしながらそれだけ動けるんだから、大したものだね」
雨脚が一段と強くなっていた。
千鶴の目にも、安生の目にも、お互いの輪郭が揺れて見えるほどに。
「どう、ちーちゃん。観念する気になった? あなたも、あなたの妹も、ミコにとって殺すのは簡単なんだよ」
「ええ──」
千鶴はググッと顔を上げた。
彼女の幼い
その異様さに、安生の皮膚にピリッと予感が走るほどだった。
「何……一体、何を……」
引くか、突っ込むか。その選択に、安生の足が止まった。
転瞬。ボッ、と屋上中が霧に包まれた。
「あッ──!」
さすがの戦闘経験から、安生は即座に千鶴の狙いに気がついた。
千鶴は大量に練った魔力を一か八かで安生にぶつけるのではなく、床に伝わらせたのだ。床に伝った焼却の魔法は雨を一気に蒸発させ、爆発的に霧を生み出し、安生の目をくらました。
ヤバい──。
安生はもうもうと立ち込める霧の中で、キョロキョロと四方に目を運ばせた。
「この土壇場で、やるじゃない……でもね」
──霧に紛れて、ミコを殺し切れるほどの気力は、残っていないはず。
霧の一部がゆらりと揺れ、安生は不敵な笑みを浮かべた。
一瞬あとに、千鶴のドレスの赤いリボンが霧の向こうに微かに見えた。
ヒュ、ボッ、と分厚い霧を裂いて、安生が手刀を放つ。
殺った──!
安生は確信した。が、手応えが軽すぎた。
「何……」
違和感。
そして、直後。
ググッ、と安生の足首に生温かいものがまとわりついた。
「おまえ……」
視線を落とすと、半裸の千鶴が這いつくばって、ニッと不敵な笑みを浮かべていた。
安生の手刀が貫いたのは、囮──抜け殻のドレス。
「ま、待って──」
次の瞬間、安生は炎に巻かれた。
千鶴は抜け目なく、安生の手からドレスをパッとひったくると、ぎゅっと胸に抱いた。
ごうごうと皮膚を破り、肉を焦がし、骨を噛む炎。
雨粒がシュン、シュンと安生の肌を叩いては、白い煙と絡まって炎から逃げていく。
やがて、霧が風に流されると、屋上は曇天の空を見つめ震え出した。
千鶴はズルズルと体を引き摺るようにして、雨から逃れるため、屋上のドアを潜った。
「ドレス、ダメにしちゃってごめんなさい。お母さん──」
バタン、とドアが閉められる。
屋上に残されたおびただしい量の血が、赤い帯のように水溜まりに揺れ、白い灰の粒と共に、排水溝へ吸い込まれていった。
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