第19話 オーバードーズ

 屋上の一角で、鮮やかな赤色が床を食むように広がっていった。

 倒れ伏した露子の体からは急速に血が失われ、それと同じだけの早さで、露子と生を結びつけているものが綻びはじめた。

 羽虫のように散っていく、自分が自分であるという確信。それを捕まえようとするかのように、露子の手が血だまりを掻いた。

 ──出世のためなら何でもやった。

 上から命じられ、何人殺したことか。

 この因縁を背負い込んだ夜。強盗タタキに入って、ひとり殺し、ひとりは半殺しの末、叩き売った。

 その家族の唯一の生き残りである真夏を拾ったのも、彼女をとことん利用するためにすぎなかった。

 露子は腹這いの状態から、歯を食いしばって顔を上げた。

 できるだけ遠くへ真夏を運ばなければ。

「──罪滅ぼしのつもり?」

 千鶴のストラップシューズのつま先が血溜まりにピシャッと潜った。

「あの子は私の……」と露子はうめいた。

「どんな顔で真夏と話していたの? 母親代わりになって育ててきたとでも?」

 千鶴は苦い表情で露子を見下ろした。

「あの子の母親を殺したのはあんたでしょう」

「ほんと、つまらないジョークね……」

 露子は喉に絡まる血の塊をゴホッと吐き出した。

「何にもしてやれなんだ。あの子から奪うだけ奪って」

「──私は、どうなんだ」

 千鶴はぶるぶると拳を震わせた。

「あんたに奪われたのは家族だけじゃない。十五年だ、十五年だぞ。真夏は、おまえみたいなのでも、愛されて過ごした時間を……私は、私は……」

 クソッ、と千鶴はゴシゴシと目元を拭った。知らず知らず、涙が溢れていた。

「結局、おまえがしたことと同じことを、真夏に対してしようとしているんだな、私は」

 露子は最後の力を振り絞り、朧な意識の中、ようやく立ち上がった。

「──殺せ」

 露子の体に空いた風穴を虚ろな目で見つめながら、千鶴は答えた。

「お望み通り」

 焼却の魔法を全身に浴びて、露子は塵となって消えた。

 ──終わった。

 千鶴は静かに目を伏せた。

 母を殺し、自身に苛烈な運命を背負わせた張本人への復讐が。

 ドレスについた灰の粒を手で払うと、全身から力が抜けていくのを感じた。

「ちーちゃん、お疲れ〜」

 背後で安生が呑気な声を上げ、パチパチと手を叩く。

「お疲れさまなんだけど〜。ミコ的にはちょっと不満なんだよね」

「──真夏のことでしょう」

「あ、やっぱわかる? わざと逃さなかった?」

 千鶴は苦笑混じりにかぶりを振った。

「道端の行動は読めなかった。まさか、あそこまで捨て身で真夏を逃すとは思わなかった」

「まあ、そういう風に言われちゃうと〜」

「──道端殺しはあなた方にとっても得だった。どういう理屈か知らんが、ヤカタ会とも話が通った。……それでいいじゃない」

「ちーちゃん的に、他の邪魔な幹部連中と兵隊をるってのはどう〜?」

「お断りだ」と千鶴は強く反発した。「あんたらのために働く理由は、もうない」

「いろいろ考えてみたけど」

 安生は首をコキコキと鳴らしながら言った。

「また真夏って子を拉致ってくるのは、ちょっと骨折りだと思うし〜」

 千鶴は目を細めて安生との間合いに意識を巡らせた。

 あと二歩の距離を詰めてきたら──千鶴の拳がギリギリと固められる。

「やっぱ、一回ミコがちーちゃんのこと、やっつけるしかないよね」

「やってみろ、ラリ公やくざが」

「ぶっ殺す──」

 安生が拳を固めて踏み込む。と同時に、千鶴は全身に魔力を漲らせ、下から掬い上げるような手刀を放った。

 何だ──?

 千鶴は違和感を覚えた。

 手刀は安生の腕を易々と叩き折り、砕けた骨が内側から皮膚を裂いた──にも関わらず、安生はニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべたまま。

「この野郎ッ」

 千鶴は続けざまに膝を潰すつもりで蹴りを放つ。安生は躱そうという仕草さえもせず、蹴りを受けた。ぐしゃり、と紙のように膝関節がひしゃげた。

 安生の顔面に貼りついた笑みに、千鶴は皮膚が泡立つような感覚がした。

 何をぐずぐずしている──千鶴は自身に喝を入れる。

 焼却の魔法だ、さっさと灰にしちまえ──。

 千鶴が体内に魔力を練り上げた瞬間だった。

 ヒュッと風を切るような音と共に、安生の口元からガラスのような鋭利な刃が放たれた。

「くッ……!」

 千鶴は紙一重でその正体不明の攻撃を回避した。右の頬にばっくりと切り傷が走っていた。

「お〜よく避けたね。さすが……」

 安生はくつくつと笑いながら口元へと透明な刃を戻すと、千鶴の血をごくりと嚥下した。

 ──何なんだ、こいつ。

 千鶴は背中にじっとりと汗をかいた。

 バキバキにへし折ったはずの腕も、骨ごと潰した膝も、安生は全く意に介していない様子。どころか、傷口の周りを赤黒い塊が固まって、安生の体を外から支えていた。

 千鶴は頬から垂れる血をドレスの袖で拭い、フンと鼻を鳴らした。

「汚い能力ね」

「そう? 案外便利よ」

 安生の魔法は自身の体液を操作する能力。

 安生は口元を窄めて、ヒュッと唾液を刃に変えて飛ばした。

 千鶴は攻撃を躱しながら焼却の魔法を放つ。

 安生もそれを難なく躱し、頭上に振り下ろすような回し蹴りを千鶴に見舞う。千鶴は両腕で蹴りを受け止める。足元の床がみしりと砕けた。

 コンマ数秒の膠着──千鶴よりも速く、安生は傷口から真っ赤な鎌を発現させた。一瞬、千鶴の腹が切り裂かれたかに見えたが、間一髪の反射神経で背後へ倒れ込むことで回避し、切られたのはドレスだけだった。

「このッ……!」

「あははっ、いい表情だね!」

 どのみち、焼いてしまえば事は済むのだ。

 千鶴の全身にドス黒い魔力が巡り巡っていく。

 安生に向かって焼却の魔法を放とうかというときだった。

 千鶴の視界が急にぐにゃりと歪んだ。

「何……」

 異常は視界だけではない。平衡感覚が失われ、胃のあたりから不快感が逆流しはじめた。

 千鶴はついに膝を折って、その場にしゃがみこんでしまった。

「何だ、一体……」

「ちーちゃんは今、キマってんだよ」

 安生がくすくすと笑いながら、千鶴のそばに近づいてきた。

「どういうこと」

「こういうこと」

 安生はからかうように、指を鼻にやって、スーッと吸い込む動作をしてみせた。

 彼女の能力だった。安生は、体内に巡る成分さえ操作して、それを体液に溶かし込める。

「ミコがいつもやってることだよ」

 安生はそう言って、優雅な仕草で千鶴のこめかみを蹴りつけた。

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