第17話 テイク・イット・イージー

 安生から尋問を命じられた山吹オリコは、がに股で階段を下り、配膳室のドアを開いた。

 備え付けのシンクや、トレーを乗せたままのワゴンのあいだを突っ切ると、足音がコーンと部屋に反響する。

 壁面の巨大な冷蔵庫に一直線に向かい、オリコは観音開きのドアをバカッと開いた。

 ヴーンと低いコンデンサーの唸りと共に、白い冷気がサラサラと床に溢れる。

「生きてるかー。ねえちゃん」

 仕切りをぶち抜いた冷蔵庫の中に、宮本真夏の姿があった。手足には手錠がはめられ、衰弱した真夏に拘束を脱することは不可能だった。

 彼女の様子に、オリコは満足げに笑みを浮かべた。

「こんなんじゃ、あるいはぶち破られるかと思ったけど、そんな元気もなかったか」

「う、……貴様」

「よっ、と……冷てッ」

 オリコは真夏の首根っこを掴んで、冷蔵庫の外へ引きずり出した。

「ふー。さて、あんたに聞きたいことがあるんだ」

「私も、聞きたい」

「聞いてどうする?」と、オリコは真夏の赤くなった鼻をピンと弾いた。「アタシは洗いざらい吐かせろとだけ言われたんだ」

「洗いざらい? 何を……」

「例の、道端露子と、あんたと、どういう関係なんだ」

 真夏はシパシパと目をしばたたいた。冷え切った肺から吐く息が、白く濁った。

「昨日はヤバかった。もうすこしタイミングがズレていたら、相当面倒なことになってただろうな。そんときゃ拷問されていたのは、あんたじゃなくてアタシのほう」

 ハッハッハ、とオリコは笑ったが、すぐにつまらなそうに口元から笑みを消した。

「まあ、ヤカタ会が裏で警察とつるんでるって噂は、こっちじゃ結構聞く話だが」

「知らない」

 フン、とオリコは鼻で笑うと、真夏の顔面に蹴りを入れた。寒さで赤く焼けた頬がぱっくりと切れて、とろりと血が流れた。

「水添組の情報を道端の野郎に流したんだろう」

「いいえ」

「道端があんたんとこにわざわざ来たのは、つまりそういうことじゃないのか」

「違う」

 もう一度蹴りが入る。飛び散った血が、アーモンドグリーンの床にハイライトをつける。

「安生組長からあんたのこといろいろ聞いたよ。千鶴とかいうガキのこともな」

「千鶴──」

 真夏は呻くようにつぶやいた。

 すかさず、真夏の口にスニーカーのつま先が突っ込まれる。

「うぐッ……!」

「喋れるうちに、いろいろ喋っといたほうがいいんでない。歯とかさ、折られるよりは……」

 オリコはスニーカーをぐりぐりと押し込んだが、ややあって、苦痛に顔を歪めた。

「いってぇッ!」

「はあ……はあ……」

 真夏が思い切り噛みついたのだ。くっきりと歯型のついた靴を見て、オリコはギリギリと歯を鳴らした。

「野郎──」

 しかし、ちょうどそのとき。オリコの意識がふっとそれた。

 床面にゆらゆらと煙のようなものが揺れていた。はじめは、冷蔵庫から漏れた冷気かと思った。

 だが、その煙は配膳室の床を流れ、外へと繋がるシャッターの隙間から伝っていた。

「何だ……?」

 一瞬、シャッターがミシッと揺れた。ギィィィという金属が擦れるような音を立て、シャッターの下部が歪んでいく。見る見る隙間がこじ開けられ、煙──いや、分厚い雲が配膳室に流れ込んできた。

「道端露子──!」

 オリコの全身から冷や汗が噴き出す。

 露子は床に倒れる真夏の姿を認めると、すぐさま低い姿勢から弾けるようにオリコへ飛びかかっていった。

「こいつッ!」

 オリコは露子の突進を躱しながら、シンクに放置された包丁を引ったくり、切りかかっていった。

 ヒュッ、ヒュッと振り回される刃に対して、露子は大きく回避体勢を取りながら、質量を持った雲をオリコの腕に絡ませると、思い切り投げ飛ばした。

「う、お、おおおおッ!」

 オリコは壁面にしたたかに体を打ち、その衝撃で棚に積まれた寸胴鍋が派手な音を立て、ガラガラと転がった。

 オリコは痛みを噛み殺して体勢を整えると、露子と真夏の二人へ視線を走らせた。

 ペッと血の混じった唾を吐くと、オリコは猛烈な勢いで露子に突進し、固めた拳を続けざまに叩き込んだ。

 露子はオリコの攻撃を軽くいなし、彼女の両腕を再び雲で絡め取ると、膂力を目一杯溜めた回し蹴りを見舞った。

「うッ、ぎぃっ、てぇぇええ!」

 乾いた木材が割れるような音が響く。

 オリコはかろうじて受け身を取ったものの、配膳用のカートとこんがらがるように床を滑り、埃の積もる食器棚に突っ込んだ。

「うぅーッ、う……い、いってぇ……! くそっ」

 頭上に降る樹脂製の皿やコップを鬱陶しそうに手で払いながらも、オリコは体を折り曲げて悶絶した。

 露子はパッパッと雲を払いながら、オリコを見下ろした。

「水添組で囲ってる殺し屋はどこ?」

「うー、うー……」

「殺し屋はどの教室に居る?」

「げほっ、げほっ! う、……野郎ッ」

 ヒュッ、とオリコは不意打ちの蹴りを放つも、露子にあっさり止められる。

「──拷問のほうがお好みらしいね」

 オリコの足首を掴む露子の右手に、じわじわと力が込められる。万力のごとく、ミシミシと一定の加速度で、痛みがオリコの背骨を貫いた。

「いッ、ぎゃああああ! やめっ、やめろ……!」

「水添組で囲ってる殺し屋は?」

「し……知らんッ。アタシは知らん! でも、校舎ン中には居るはずだ! さっき組長と話しに行ってるのを見た……!」

「そう。それじゃあ組長もいま居るってわけね」

「ハァッ、ハァッ……」

 オリコはコクコクと頷いた。露子がパッと手を離すと、オリコはそのまま床に崩折れた。

 それから、露子は真夏のほうへ駆け寄り、そっと抱き起こした。

「──マナ、マナ。大丈夫?」

「は……露子さん……ありがとう……」

「無理に喋らないで」

 真夏の顔や体の様子をためつすがめつして、露子はふっとため息をついた。思いの外、衰弱している。

 安生、そして千鶴を殺す絶好の機会だが──露子は迷いを断った。

「心配しないで。マナを安全な場所へ届ける」

「露子さん……」

 行こう──と真夏を抱きかかえたとき。

 ジリリリ……とけたたましいベルが鳴り響いた。

「まさか──!」

 ハッと目をやると、オリコが床を這いずり這いずり、配膳室の火災報知器のスイッチを入れたのだ。

「う、う、く。……ハハハ! 警報は校舎全体で鳴ってる。てめぇら校舎から出られねぇぞ……!」

「やってくれる」

 露子の頬に冷たい汗が伝う。自分ひとりでなら、どうとでもできる自信がある。しかし、今は手負いの真夏を抱え、守りながら脱出しなければならない。

 ──どうする?

 瞬く間に配膳室のシャッターから組員の顔が覗いた。ぼろきれのようなオリコと、露子の姿を見て、さすがにやくざ──ドスや拳銃を手にわらわらと配膳室へ入ってきた。

「走るからね、マナ……」

 露子はシャッターと逆方向に駆け走り、配膳室のドアを思い切り蹴破った。

 廊下にはすでに、警報を聞きつけた水添組組員達が、怪訝な顔を並べていた。

 組員はその視線を露子の面上へ走らせると、さっと凶暴な顔つきに変わった。

「あッ、てめぇ……!」「てめぇは──」「道端……」

 道端露子──。

 組員が口々に名前を呼ぶ。

 露子はフゥーと細く息を吐き、雲と殺意でその空間を満たしはじめた。

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