第9話 公営住宅666棟

 明くる日、真夏は青柳に断って別行動を取った。

 ある公営団地──かつて家族で暮らしていた家を訪ねるのだ。

「いってきます」

 いつものように、家族の写真に声をかけて、玄関を出る。

〝魔女の台所〟の中には国が行政を放棄した建造物や区域がいくつもある。真夏の生まれ育った公営団地(正確には、公営団地の廃墟というべきか)も、そのうちのひとつだ。

 電気ガス水道、全て使えないが、何しろタダで住めて誰にも文句を言われない。

 柵を跨ぎ越して、団地の敷地へ入ると、真夏は目を見張った。

 ──何も変わっていない。

 幼い女の子達がゴミだらけの駐車場で追いかけあって、雀のように真夏の横を走り抜けていく。いずれもフリルのついたカラフルなドレスを着ている。

 子供とはいえ普段着にするには少々ハデだが、きっと祝いの服をもらったのだろう、と真夏は見当をつけた。魔法少女が多く生まれる地域では、魔力が発現した子供にあつらえの衣装を贈る風習がある。

 真夏はドレスを持っていない。あつらえる前に強盗事件が起こったから。自分のドレスに特に執着はないのだが、姉──千鶴のドレスのことはよく覚えている。

 それを着た千鶴は、まるでお姫様のようだった。贅沢に使ったフリル、たっぷりとしたパニエのシルエット。そして、ドレスにあしらわれた真紅のリボンを翻し、覚えたての魔法で鉄柵や遊具をひん曲げてはケタケタ笑う千鶴の声も、よく覚えていた。道端の鉄柵などを注意して見ると、ところどころに曲がっている箇所がある。

 同じ造りの建物が延々と連なる団地の中で、真夏はよく迷子になったものだが、千鶴のイタズラの跡を辿れば自分達の住む〝6-6-6棟〟へ帰ることができた。

 懐かしい、と呟く。同時に、感傷的な連想をする自分に驚いた。

 ──もし、千鶴が生きていたら?

 真夏はジャケットをすこし浮かせるようにして、内ポケットの手紙と、続けて、ホルスターに収めたコルトガバメントを見た。

 いや、と真夏はその考えをすぐに打ち消した。

 ──生きているはずはない。

 だが、そう思うのなら、なぜここへ帰ってきたのか。

 真夏はその矛盾に、あえて目をつむった。

 空の鮮やかな青色の下を、溶け残ったミルクのような形で雲が棚引いていた。秋の陽光は柔らかく、影を低く長く伸ばす。

 真夏は碁盤目状になった道を歩きながら、ときどき四角く均等な団地の壁を見上げた。本来ならそれぞれの棟に番号がペイントされているはずだが、経年劣化でほとんどがかすれて見えなくなっていた。

 団地のベランダや階段口に目をやると、手書きの看板がせり出している。子供の頃によくお世話になった個人医院、漫画が入荷するたび入り浸った古本屋、子供相手にも容赦のない両替屋。

 何もかもが懐かしく、それ故に、真夏は目をそらした。露子に拾われて以来、十五年、ここへ帰らなかった。

〝6-6-6〟の数字の輪郭だけが残る棟を見つけると、真夏は深呼吸をした。

 そこは、かつて真夏が家族と暮らした家。そして、真夏から家族を奪った事件の現場だ。

 意を決して階段に足をかける。

 十五年前のこととはいえ、悲惨な事件が起きた現場だけに人の出入りがほとんどない様子で、砂埃や枯れた草木が均一に敷き積もっている。

 人と人が肩をすぼめてやっとすれ違える狭いコンクリート造の通路に陽光が差すと、錆に節くれ立つ鉄柵の影に枯れ葉の破片が青く沈んだ。

 6-6-6棟2階4号室へ。

 真夏は脇腹に当たるガバメントを意識しながら、ドアを開けた。

 部屋は暗く、埃とカビのにおいがした。

 真夏は後ろ手にドアを閉め、ペンライトを取り出した。

 2DKの間取りである。玄関に面したダイニングには、テーブルの残骸が散乱していた。折れた脚とぶち割れた天板を避けつつ靴のまま部屋に踏み入ると、厚く積もった埃が舞い上がって、ライトの白い光線を立体的に浮かび上がらせた。

 真夏が袖で口元を覆いながら部屋に繋がる襖を開けると、二段ベッドの縁がすぐ目の前に現れた。支柱が折れ、壁にもたれるように倒れかかっているのだ。隙間から中の様子を見ようと身をかがめてみたりしたが、人の姿は見当たらない。

 真夏は腰を伸ばした。荒れ果ててはいる。が、たしかに自分の家だった。

 残るはベランダに面した部屋だ。

 真夏はダイニング側から襖を開けて、中の様子を伺った。カーテンがレールごと外れているらしく、日の光がボロボロになった畳を踏みつけていた。思い切って襖を全開にする。ここにも人の姿はない。

 ──どうやら、待ち受ける者は居ないようだ。

 胃を絞り上げていた緊張が、ほんのすこしだけ緩む。

 真夏はペンライトをしまい、無感動に部屋の中を見渡した。

 畳は長年月ですっかり日焼けして毛羽立ち、その上から埃が白く積もって、褪せた色に変えてしまっていた。壁紙や襖も劣化が激しい。

 しかし、ダイニングや子供部屋に比べて、このベランダ側の六畳間──母の使っていた部屋だ──は荒れた印象が薄い。

 なぜそう見えるか。家具がないからだ。

 ──ここで母と姉は殺されたのだ。

 真夏は暗闇に耳を澄ませるように立ち尽くした。

 ふと、物音がして、真夏はハッと目を上げた。

 風だ。風に煽られた窓のサッシがカタカタと音を立てているのだった。

 真夏はホッと息を抜いた。しかし、次の瞬間、彼女の目は窓に釘付けになった。

 風が吹き付け、ガタガタと痙攣する窓ガラスに、ピシャリと一枚の紙が飛んできた。その紙はブルブルと震えながら部屋の中を覗き込んだ。風に乗って一枚、また一枚、ガラスに貼り付く。紙は風と共に勢いを増して、紙吹雪のようにベランダで飛び交い、やがて窓ガラスいっぱいに白い紙が貼り付いた。

「何……これ……」

 真夏は呆然と立ちすくんだ。

 紙は風に逆巻いて、徐々に一個の塊を形作った。ザアッと音を立てながら積み重なる。風が止むと、それは人の形を取った。

 身をかがめて部屋を覗き込んだそいつに、真夏はゾッと背筋が寒くなった。

 目測で2メートル近い体躯を、膝まで伸びた髪の毛が覆い隠している。髪の隙間から大きな目だけがギョロギョロと覗く姿は、まるで毛の化物だ。

 そいつは無造作に窓ガラスを押し割って、部屋へ侵入した。ジャリ、とガラスの破片を踏み、真夏を見下ろす。

 真夏は知らず知らず後退る。壁に背中をぶつけて、ようやくガバメントを引き抜いた。

「と……止まれッ!」

 そいつはじっと真夏を見つめた。

「何者だ? 氏名は? どこの組だ?」

 一瞬の沈黙。そよそよと吹き込んだ風が髪を揺らした。ミシリ、と奴のつま先が畳を軋ませる。

「──それ以上、一歩でも踏み込んだら発砲するぞ!」

 警告にもかかわらず、奴はガラスを割ったのと同じように無造作に一歩踏み出した。

 真夏はすかさずトリガーを引いた。奴の頭の半分が吹き飛んだ。

「警告したぞッ……」

 脳天をぶち抜いたのは確実だった。しかし、真夏は再び背中が寒くなった。

 硝煙の立ちのぼる向こうで、奴がギョロリと目を回していた。吹き飛んだ頭の半分はバラバラと白い紙となり、魚群のごとく逆巻いて、もとあった部位へ戻っていこうとしている。

 奴の足は止まらない。もう一歩踏み出した。

「う、あ、あ、あああああっ!」

 真夏は遮二無二弾を撃ち込んだ。爆音が弾け、ビリビリと耳が震える。

 ぶっ放しているのは.45ACP弾。連続して撃たれれば、いくら魔法少女でもただでは済まない威力だ。

「何なんだ、この野郎──」

 群生の昆虫が翅を一斉に震わせたかのようなザアッという音。

 真夏の構えた銃に紙が群れる。しまった──真夏はドッと冷や汗をかいた。群れた紙が手の形を作ると、一気に真夏の手首を締め上げる。

「ぐっ、ああああああ!」

 咄嗟にトリガーを引こうとしたが、奴の指がすでにトリガーの下へと潜り込んでいた。

 真夏の加速能力は、体に触れられているあいだは使えない。奴の紙がまとわりついているあいだ、無能力のひよっこ魔法少女と変わらない状態で戦わなければならないのだ。

「このッ、畜生──!」

 真夏は苦し紛れに、再び形を作りはじめた奴の膝に蹴りを放った。インパクトの瞬間、その部分がバラバラと紙に変化する。躱された──が、ほんのわずかにバランスがぶれた。真夏はそれに乗じて拘束を振り解き、苦し紛れの手刀を繰り出すも、同じように躱される。

「う……クソッ」

 気づいたときには紙が首にまとわりつき、再構成された奴の手が真夏の喉を潰した。

「がはッ、ハァ、ぐぅぅ……!」

 両足が床を離れ、ブラブラと揺れる。

 奴は舐め回すように真夏の顔を見つめた。

 真夏は王手をかけられながらも、闘志を失っていなかった。が、自身の選択を後悔してもいた。

 しかし、なぜ、こいつは私を──。

 奴の目が真夏のジャケットに落ちる。内ポケットに入れた便箋が、ひとりでに動き出した。カサカサと服の隙間から這い出すと、髪の隙間から奴のほうへと吸い込まれる。

 便箋は奴の体と一体化し、リボンだけが不純物のように除かれて、はらりと床に落ちた。

 それで合点がいった。

 姉をエサにまんまとおびき出されたわけだ。

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