第29話

 階段を一段飛びで駆け上がり、田端先輩のいる3階の院生研究室に向かった。その途中、なんとはなしに階段の踊り場から2階の廊下に顔を出す。もしかしたら田端先輩はまたカウンセリングの途中かも知れないと思ったからだ。

「あれっ?」

 思いがけない人物が相談室の前に居て、俺は思わず声を出した。閉まったままの扉をじっと眺め突っ立っていた青年が俺の声に気づいてこっちを向く。

 目が大きい。年頃は俺とそんなに変わらないだろうが、童顔にも見えなくもない。そしてやっぱり全身色見本のように派手な格好をしている。

 彼は間違いなく昨日俺がここへ来たとき、田端先輩のカウンセリングを受けていた人だ。

「誰もいませんか?田端先輩、呼んできましょうか?」

 俺が声をかけると青年は、あ〜とか、う〜とか声を出したあと、「なあ、おまえ心理学部の学生?」とぞんざいな言い方をして俺のことを指差した。

「え?あ、はいまあ、そうですけど……」

「なら良かった。ちょっと俺の相談聞いてくんないかな」

 突然の申し出に面食らう俺。

「ええっ?!いや俺まだ学部生なんでカウンセリングとか無理ですけど」

「いや、いーのいーの。友だちの相談のるくらいの軽いノリでいいからさ」

 思わず後ずさる俺に、青年は本当に軽いノリでバタバタと音を鳴らして廊下を走ったあと俺の腕を引っ張り、相談室の前に置いてあった長椅子に俺を座らせた。


 青年は、自分のことを『杉本』と名乗った。レモネード色の前髪をくるくると指でもて遊びながら、杉本さんは今自分が抱えている悩みを何の躊躇いもなく初対面の俺に話して聞かせた。

「あ〜つまり杉本さんは、恋人と同棲したいと思っているのに、ご自身が今ニートなので自分からは言い出すことができないと……」

「ニートじゃねーよ!働く意志はあるんだって!ただ、ちゃんと働けるか自信がねーんだよ。俺、高校もギリギリで卒業したし、大学も中退してるしな」

 威張って言うことじゃないだろうに、杉本さんは脚を組むと背もたれに両肘を掛けながら椅子の上で大きくふんぞり返った。 

 はあ〜。面倒くさい人に捕まってしまった。俺は子どもみたいに振る舞う杉本さんの態度にため息をつきたい気持ちを抑え、「取り敢えず思っていることを全部お相手に伝えてみたらどうですかね」と適当に答えた。

「あ?おまえ、俺にヒモ宣言しろってのかよ」

「違いますよ。働きたい気持ちはちゃんとあるけど自信がないってことも含めてです。そしたらそれは1人で悩むことではなく、2人で考える問題になるじゃないですか」

 完全に水上の受け売りだ。2人のことは、ちゃんと2人で共有して2人の問題にする。そうしなければ相手の気持ちは置いてけぼりのまま、気がついたら遠く離れたところに行ってしまう。一緒に暮らしていた瑞希が、俺の知らないところで2年も前から俺との別れを考えていたように。

「ふむ」

 杉本さんは大きく広げていた腕をスッと静かに胸の前で組むと、足元の1点をじっと見つめたまま何か考え始めたようだった。

 そのまままったく動かなくなった杉本さんを目の端で見ながら、俺もう行ってもいいですか?そう声をかけようとしたそのとき、「そうだな!」杉本さんはいきなり大声を出して顔をあげた。驚いた俺は、思わず体を引いてしまう。

「そうするわ!1回あいつに話してみる。おまえなかなか良い事言うな!いいカウンセラーになるわ!」

「あ、いや、だから俺はまだ学部生なんで……」

「お礼に俺もおまえの悩み事をきいてやるよ」

「はい?」

 なんでその流れになるのかわからない。そもそも俺が今抱えている悩みは、大袈裟でなく俺の人生がかかっていると言ってもいいくらい重大案件だ。それをなんで今初めて口をきいたばかりのこんな得体の知れない人に話さないといけないんだ。マジで無視して立ち去ろうかと腰を上げかけた。

 杉本さんは椅子の上にあぐらをかいて右膝の上に右肘をついて顎を載せ、俺の顔を見ながらニヤニヤと笑ってもう話を聞く体制になっている。顔がもう絶対的にふざけている。完全に面白がられて終わるパターンだ。でも……。

 まあ、いいか。と思った。どうせならまったく知らない人に聞いてもらって、笑い飛ばしてもらったほうがなんだか楽になるような気がした。少しヤケになっていたのかも知れない。俺は上げかけていた腰を、再び長椅子の柔らかいクッションの上に置いた。

「俺、男の子と付き合ってんですけど……」

「えっ」

 杉本さんがびっくりしたように目を丸くして顔を上げる。あれ。冒頭から引かれてるし。

「あ、いや、悪ぃ、続けて」

 杉本さんは、顔を再び手のひらの上に戻し、視線を俺の方ではなく前方にある相談室の扉の方へ移した。そうすることで俺の方を向いた杉本さんの左耳が、俺の声をひと言も漏らさずに聴き取ろうと集中したようにも見えた。俺は話を続ける。

「俺と付き合ってから向こうは自分が同性愛者だって自覚したらしいんですけど、俺は過去に女の子と付き合ってたこともあって。そしたら、あっちが勝手にいつかは俺と別れるって決めてたみたいなんですよ。同性をパートナーにするより異性をパートナーにしたほうが?社会的に生きやすいから?って感じで」

 杉本さんは何も言わずにじっと俺の話に耳を傾けている。

「俺の気持ちは完全に無視してんすよ。俺は別れる気なんかないのに、別れたほうが俺のためみたいなこと言って、そんなこと言われても嬉しいわけないじゃないですか。むしろあいつにとって俺はその程度の人間なんかなって腹立つだけで」

「どうして人はさ、誰かの特別にならないと気が済まねえんだろうな」

「は?」

 突然話が飛んだように思えた俺は、まるで虚を突かれたかのように間抜けな声をあげた。当の杉本さんは、どこか遠くに意識が行ってしまったかのように真っ直ぐに相談室の扉を眺めたままだ。この人、人の話ちゃんと聞いてるんだろうか。

「生物学的に言えば子孫繁栄とかそんなところなんだろうけど。でもじゃあ同性愛者ってなんだ?そもそも恋愛感情自体を持たないやつも世の中にはいるらしいじゃねえか」

「はあ……」

 話の向かっている方向がわからない。ていうか目の前にいる杉本さんが、さっきまでとはまるで違う人みたいに見える。子どもみたいな雰囲気は鳴りをひそめ、どこか深いところへと考えをめぐらせる凡人離れした真剣な横顔。

「子どもの頃は母親、もしくは父親、少し大きくなったら誰かの親友、もう少し大きくなったら誰かの恋人。そうやって誰かの1番でいないと幸せだとは思えない。世の中そんなやつばっかりだ。俺もおまえもそうだ。じゃあ1番を必要としていないやつは何があれば満たされるんだ?金、は必要だよな?仕事して金もらって欲しい物買ってさ、あとはご近所さんとか仕事仲間とか、何ならよく行く店の店員とかと言葉交わしてりゃ満たされるのか?そんな風に誰かの1番に執着しない人間になれたらさ、そしたら純粋に他人の幸せを心から願ってやれるのにな」

 そして杉本さんは、俺の方を向いて、「おまえの彼氏みたいに」と言うとゆっくりと微笑んだ。

 その瞬間、俺の中の瑞希像が、杉本さんの目を通して何か別のものに変わっていくのを感じた。

 自己犠牲を美徳とし、人の気持ちを意に介さない傲慢な人間から、もっと崇高な何かへと。その何かを、杉本さんが言語化して代弁する。

「人によってセクシュアリティが違うようにさ、愛情の形も人それぞれなんじゃねえの?」

 俺は、共に生き、喜びも悲しみも共有し合い、時に肌を温め合う関係が愛情だと思っていた。でも瑞希の愛情の形は違うのかも知れない。遠く離れていても、愛する人が誰にも傷つけられることなく、穏やかに生きてくれることが瑞希を満たしていくことになるのかも知れない。

 視界が開けた気がした。

「じゃあ、俺は帰ろうかな」

 よっ、と杉本さんが立ち上がる。

「え、田端先輩いいんですか?呼んできますよ?」

 俺が院生研究室に向かおうと立ち上がると、杉本さんが「あ、いいよ。予約してたわけじゃないし。それに……」と俺の顔をじっと見つめると、「なんかもう気が済んだわ」と言ってクシャッと笑い、歩き出し、かけて「あ、そうだ」と俺の顔を見上げた。

「俺の恋人も、男だから」

「えっ!」

 不意を突かれて固まっている俺を置いて、じゃあな、と言って杉本さんは去っていった。どこか夢の中にいるような、そんな不思議な空気を俺の周りに残して。


 結局俺は、院生研究室には寄らずに大学を出た。杉本さんと同じで、なんだかもう気が済んだような気分だった。

「ただいま〜」

「有司!」

 家に帰ると、待ちかねたようにダイニングチェアに座っていた瑞希が立ち上がって俺に駆け寄った。

「有司、ごめん。俺、有司のこと傷つけたよね。でも俺、心配なんだ。これからも2人でいていいのかどうか」

「瑞希……」

 不安気に俺を見上げる瑞希に、胸がきゅうっと締め付けられる気分だった。

「いや、俺こそ叩いちゃってごめんね。瑞希、あのさ……」

 何か言いかけて、喉元で止まった。今俺の中に溢れる想いや、きっと瑞希の中に溢れている想いは、この狭い1DKの部屋で吐き出すには容量が足りない。

「瑞希」

「ん?」

 俺は瑞希の不安を打ち消すように、今できる精一杯の笑顔を作って言った。

「キャンプに行こう」



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