第28話
俺は、同性愛者なんだと思う。
さっき瑞希が言った言葉をもう一度頭の中でなぞってみる。
瑞希は俺の顔を、ほとんど睨みつけていると言っていいくらい鋭い目で見ながら俺の反応を待っていた。しかしその奥にはまるで威嚇する小動物のような僅かな怯えの色が見える。
何か言わなくては。そう思った俺の口から咄嗟にこぼれたのは、「それの何が、駄目なの?」だった。
瑞希の目が、失望したように急速に力を失っていく。
「え、ちょっと待ってちょっと待って」
俺は慌てて取りなすように言葉をつなげると頭をフル回転させた。瑞希が再び閉ざしてしまう前に、何かこれまでにヒントはなかったかと瑞希の口から出た言葉をひとつひとつ思い返してみる。瑞希はさっきこう言っていた。「俺と有司は違う」と。
「つまり瑞希は、自分は男しか愛せないけど、俺は女の子ともヤれるじゃん、ってそういうことを言いたいの?」
瑞希の目に少し光が戻り、俺を見て軽く頷いたけど、その仕草はまだ何かを探っているようにも見える。
俺はもっと瑞希の心を引き寄せるために更に頭をフル回転させる。
「それは、俺が酔っ払って女の子とヤっちゃったことを言ってる?それがなかったら俺と瑞希が違うなんてそんなふうに思わなかった?」
バスケットゴールのある公園で金髪のコンビニ店員が言っていた言葉を思い出す。声かけたらボロクソ泣いてたんだよね。あのとき瑞希は、自分のセクシュアリティに気づいてショックを受けていたんだろうか。
「思ったのは、大学入学して、ちょっとしてから……」
「え、そんな前から?!」
意外な言葉が飛び出して俺は思わず体を前に乗り出した。
「俺、入学したばっかりの頃、男の子から告られたって話しただろ?」
「う、うん」
瑞希が女の子からのみならず、男から告白されたと聞いて、俺はそのとき瑞希に恋人がいることを周りに公言するようお願いしたのだ。
「その子がさ……」
「えっ、ちょっと待って!まさかその子と何かあった?!」
「違うよ」
瑞希がギロリと俺を睨み、俺はひゅっと体を縮こませる。
「その子がさ、俺に告ってきたときに、『自分は同性愛者だから』ってそう言ったんだ」
「……え」
「それ聞いたときに、俺そういえば有司しか好きになったことないなと思って」
有司しか好きになったことない。その言葉の持つ爆発力に思わず嬉し泣きしそうになるけど、今注目すべきはそこじゃない。
「それで、今みたいに動画見比べたりしたの?」
「うん」
「で、自分もそうだと確信したと」
「……うん」
なるほど。だけどそれを聞いたところで俺の気持ちは変わらない。さっきと同じ……それの何が、駄目なの?
「あの、さ。まず俺の気持ちを話してもいい?」
「どうぞ」
「俺は瑞希が同性愛者でも異性愛者でも変わんないよ?瑞希は瑞希だし。好きだし、大好きだし、離れたくない。俺は、この前女の子とヤっちゃったけど、そのとき意識飛んでたし、めっちゃ反省してるし、今後瑞希以外の人とは絶対にヤリません」
俺はそう言うと瑞希に向かって宣誓するように片手を挙げた。
瑞希はじっと俺の話を聞いていたけど、不意に俺から目を逸らすと、「絶対なんて、ないよ」噛み締めるように言った。
「……俺のこともう信用できない?」
少なからずのショックを受けながらシュンとする俺に、瑞希は続ける。
「もしさ、水上とかニシダとかがさ、結婚して子どもが生まれて家庭を持ったりしたときにさ、そのとき有司は同じことが言えるのかな」
「は?」
話が良からぬ方向へ向かい始めた予感がして、俺の心がざわざわとざわめき始める。瑞希、その先はちょっと待ってくれ。
「有司は男の俺と付き合っていることを後悔するかも知れない。俺は無理だけど、有司は普通に結婚して普通に自分の子どもを抱くことが……」
パン!!
言い終わらないうちに俺は立ち上がって瑞希の頬を平手で叩いていた。勢いよく立ち上がったせいで座っていた椅子が後ろに倒れている。まるで全力で走った後みたいに息が上がっていた。
シンとした静寂の中、俺の頭の中だけが血が沸騰したみたいにどくどくとうるさい。
瑞希は何か言い返すわけでもなく、殴り返すわけでもなく、ただ俺に殴られた方向に首を曲げてじっと下を向いていた。
「普通ってなんだよ……」
怒りで声が震える。瑞希は何も答えない。
「答えろよ!!」
俺が大きな声を出しても、瑞希は身動きひとつしない。
俺は今まで、瑞希が他人のために自己を犠牲にすることを瑞希の強さだと思っていた。気高く、美しいものであると。でも、それが自分へと向けられた今、それはただの傲慢だと知った。こいつは、人の気持ちを何ひとつ考えちゃいない。
やがて瑞希が静かに口を開く。
「普通は普通だよ。10人いたら9人がそうだと答えることだ。残りの1人は生きづらさを強いられるけれど、それでもなんとかやっていけるかも知れないけど、でも有司は9人の方に入れるのに、わざわざしんどい道を選ぶ必要はないじゃないか」
「ふざけんなよ!!」
もう一度ぶん殴りそうになるのをぐっと堪え、代わりにテーブルを拳で打った。
「俺の普通をおまえが勝手に決めるな!それで俺が幸せになれると思ってるなら俺はおまえのこと軽蔑するよ!」
瑞希の顔色が変わる。目を大きく開いてゆっくりと俺の方を見る。
「なんとでも言えよ。俺の気持ちなんかわかんないだろ」
「わかんねーよ!そっちだって俺の気持ちなんかわかってねーだろ!」
「自分でもわからないんだよ!どうしたらいいのか!でも俺は俺のせいで苦しむ有司を見たくない!」
「だからなんで苦しむって勝手に決めつけ……」
ドンッ!!
キッチン側の壁から大きな音がして、俺たち2人は同時にハッとしてそちら側を見た。隣家との壁が薄いことをすっかり忘れて怒鳴り合っていた俺たちに、隣人からの牽制が入ったのだ。気づけば時刻は深夜11時を回っていた。
「……取り敢えず、今日はもう寝よう。2人ともちょっと感情的になってる。頭冷やそう」
俺が一時休戦の提案をしても瑞希は何も答えず、さっさと立ち上がって手つかずのままだったカップの中の紅茶を勢いよく流しに捨てた。まだ仲直りしても意味がないと思っているのかとイラッとした。
その夜は、お互い背中を向けあって眠った。俺もなかなか眠れなかったけど、瑞希の方からもいつまでたっても寝息が聞こえてくる気配はなかった。
同じベッドの中にいるのに、瑞希をとても遠くに感じていた。
明け方、まどろんでいると、瑞希が出かけていく音がして目が覚めた。また逃げるのかとウンザリしたけど、もう疲れて追いかける気力もない。そのまま再び眠りについて目が覚めたあと、ベッドから起き上がり、パンとインスタントコーヒーで簡単な朝食を済ませ大学へ向かった。
キャンパス内を歩いていると、遠くに水上の背中を見つけた。
水上――。
俺は水上を追いかけて昨日の話を聞いてもらおうとして、ぐっと踏みとどまった。
せっかく自分の中でくすぶっていた気持ちを瑞希と共有して2人の問題にしたんだ。ここは水上を巻き込むべきじゃない。
俺は水上に背を向けると、大学内の図書館に向かった。
館内の通路を歩き、『性問題』と書かれた棚を見つけると、LGBTQに関する本を数冊抜き出し、近くにあった椅子に腰掛けた。
取り敢えず1冊開いてパラパラとめくってみる。性的少数者の抱えている問題を漫画でわかりやすく解説してあるその本の中から、主に男性同士のカップルについて書かれている部分だけを抜き出して読んでみた。
同性カップルゆえに受ける世間からの不条理。部屋が借りられない。入院しても付き添いができない。すぐに性生活についてのあからさまな質問を投げかけられる……などなど。
なるほどね……どれも瑞希が気にしそうなことばかりだ。俺はなんとかなるかなって思っちゃう方だけど。
次のページをめくったとき、俺はドキッとして手を止め、食い入るようにそのページを読んだ。
女性同士のカップルが別れたあとの話だ。1人はバイセクシャル。彼女は元カノと別れたあと男性と結婚したが、元カノとは別れたあとも親友としていい関係を築いている。その彼女がある日、泣きながら元カノに言う。『男性をパートナーにするとこんなに楽に生きられるんだとわかった。本当はあなたと付き合っているときも同じ気持ちになれなくちゃいけなかったのに』。
泣きそうになった。慌てて目をしばたたかせ、涙を引っ込めた。
瑞希もこの本を読んだのかも知れない。2年前、自分のセクシュアリティに気づいたときからずっと、瑞希はいつか俺が楽に生きられるようにと、そのうち俺と別れるための覚悟を決めていたのかも知れない。そうだ。瑞希が急に俺とのセックスを控えるようになったのは、あの、男から告白されたという話を聞いた、ちょっとあとからだった。
俺はずっと、自分の気持ちを瑞希に押し付けることばかり考えて、瑞希が何を思って何をしようとしていたのか知ろうともしなかった。2年も一緒に暮らしてきたのに、瑞希の本当の気持ちに気づいてやることができなかった。
だけど気づいたところで瑞希の考えは到底受け入れることなんてできない。
俺は瑞希と別れるなんて望んでいないし、瑞希が世の中の不条理と戦っていくというのなら、俺だって一緒に戦いたい。自分1人が背負えばそれでいいなんて、そんなのはやっぱり傲慢だ。
他の本も手に取りパラパラとめくってみる。性的少数者の割合は11人に1人。結構いるんだな。それならこの大学内にも何十人かは、瑞希と同じように悩んでいる人が……あ。
――心理相談室。
この大学にはカウンセリングを受けられる心理相談室がある。さすがに同じ学内の、しかもまだ実習中の院生に相談するには繊細すぎる問題かも知れないけど、外部の人間も利用できるわけだし、自分のセクシュアリティについて相談に訪れる人はいないのだろうか。俺は立ち上がり本をすべて棚に戻した。
行ったところでカウンセラーには守秘義務というものがあり、何か得られるわけでもないかも知れないけど、俺は田端先輩のいる院生研究室に向かわずにはいられなかった。
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