第27話

「ただい……うわっ、びっくりした」

 玄関の扉を開いた途端、ダイニングチェアに座って真っ直ぐに自分を見つめている俺を見て、瑞希はいささか驚いたようだった。

「どうしたの?」

「話があるんだ」

 きっぱりと言い切る俺から何か不穏な空気を感じ取ったらしく、へぇと白々しく相槌をうちながら目を逸らし、何か別の話題を探している瑞希に俺は、「風呂入りながらでいいから聞いて。俺はドアの外で勝手に喋るから」と強引に瑞希を脱衣所に追いやった。

 瑞希が躊躇いながらゆっくりと服を脱ぎ、風呂の中に入ったのを確認してから、俺は脱衣所の風呂の扉のすぐ横に、ぺたんと腰を下ろす。中からはすぐにシャワーのお湯が勢いよく噴き出す音が聴こえてきた。

 俺はその音が止むのを辛抱強く待つ。

 長い長い時間だった。俺の心臓がトクントクンと波打って、いっそ「やっぱ冗談!なんでもないよ」と言ってしまいたくなった。そしたらきっと、俺たちの間には何事もなかったかのように明日もいつもと同じような朝を迎える。そのときキュッとシャワーの音が止み、俺はハッとして顔を上げた。

 シュワシュワとボディタオルで泡をたてる音を聞きながら俺は覚悟を決めて扉越しに瑞希に語りかける。

「瑞希……」俺のこと、もう好きじゃない?「セックスするの、あんまり好きじゃない?」まるで結論を先延ばしするように、咄嗟に回りくどい言い方をしてしまった。

 ゴシゴシとボディタオルが肌をこする音が一瞬止まった気がしたけど、瑞希は何も言わずに体を洗い続けている。

「あの、昨日のことは本当に悪かったと思ってるんだ。暫く触られたくないのも仕方ないと思ってる。だけどさ、気のせいだったらゴメンなんだけど、瑞希その前からあんまりヤるの好きじゃなかっ……」早口でまくしたてる俺の言葉を遮るように、再びシャワーから勢いよくお湯が飛び出した。まるで今のこの状況をすべて拒絶するかのように。

 ちょっと泣きそうになりながら、膝を抱えて辛抱強く瑞希が体を洗い流すのを待っていた。やっぱりお風呂からあがるまで待ったほうがいいだろうか。

 そんな思いが頭をよぎったとき、キュッとシャワーの音が止み、突然お風呂の扉がガチャリと内側に開いた。

「えっ?!」

 驚いている俺の膝の上を、全身から水滴をしたたらせた素っ裸の瑞希がまたいで横切り、そのまま洗濯機の上に載せてあったバスタオルで自分の体を拭き始める。俺とは一切目を合わせずに。

 裸の瑞希を見るのが久しぶりすぎて、思わず局部に目がいっていることに気づいて慌てて目を逸らした。瑞希は拭き終わったタオルを洗濯かごに投げ捨てると、パンツと洗濯後のTシャツを身に着け、部屋着にしているスウェットのズボンではなく、さっき風呂に入る前に床に脱ぎ捨てたジーンズに脚を通した。

「え……瑞希?」

 ぎょっとしている俺をよそに、瑞希は脱衣所を出ていくと玄関の方へ向かった。

「瑞希!」

 俺も慌てて立ち上がると玄関に向かうが、瑞希はもう靴を履いて外に出ていった後だ。

 なんで、逃げるんだよ……。

 俺はぐっと唇を噛み締めると、靴を履いて瑞希の後を追いかけた。


 階段を駆け下りて左右を見渡すと、街灯に照らされて右の方向にもう小さくなった瑞希の背中が見えた。元バスケ部員の俊足は、あっという間にその体を遠くへ運んで行く。

 俺も全力でその後を追いかけた。リーチは俺のほうがあるんだ。追いついてみせる。

 頬にポツと水滴が当たる感触がした。夜の空は晴れているのか曇っているのかよくわからないけど、雨が降りそうな匂いがした。

 すぐに瑞希を見失った。暗い上に、俺の運動不足の脚じゃいくらリーチがあったって瑞希の脚には追いつけない。

 雨はどんどん強くなっていった。

 すれ違う人々は、ちゃんと天気をチェックしてから家を出たのかみんな傘をさしていて、俺は雨に打たれながらその間をぬうように瑞希を探した。

 もしかしたらどこかで雨宿りをしているかも知れない。もうちょっと先に確か……。

 予想通り、狭い高架下の人気のない場所で、瑞希の姿を見つけた。近くの小さなビルの灯りが射し込むだけの薄暗い場所で、気だるそうに金網にもたれている。

「瑞希!」

 俺が名前を呼ぶと、瑞希はまるで呼ばれることがわかっていたかのように、ゆっくりと、何の表情もない顔で俺を見た。

「瑞希、帰ろう。風邪引くよ」

 俺も瑞希も雨に濡れて、このままでは風邪を引いてしまいそうに寒い。

 腕を掴む俺の手を、瑞希はそっと振り払った。そしてただ、無言で首を振るだけで何も言葉を発しようとはしない。靴の中まで濡れた気持ち悪さも相まって、さすがに俺も少しイラついてしまった。

「いい加減にしろよ。言いたいことちゃんと言ってくれなきゃ、仲直りもできない」

 その言葉はコンクリートの反響で、思いの外強く大きく響いた。そのとき、初めて瑞希の顔色が変わった。

「仲直りなんかしたって意味がない」

「え?」

「俺と有司は、違うんだよ」

 そう言って瑞希は、ようやく俺と目を合わせる。怒っているような、泣いているような、このまままた逃したらもう二度と会えなくなるような、そんな儚い表情に見えた。

「違うってなんだよ」

 取り敢えず会話を続けようと問いかけたが、瑞希がまた黙ってしまいそうな予感がして、俺は今度は優しく、でもしっかりと瑞希の手首を掴んで、「帰ろう」とその手を引いた。


 ようやく観念したのか、濡れた体が寒すぎたのか、瑞希は黙って俺に手を引かれたままマンションまで帰ってきた。

 俺はまず瑞希をお風呂に押し込んで、自分は濡れた衣服を脱いで体を拭き、乾いたスウェットに着替えることで体温を取り戻した。俺がシャワーを浴びている間にまた瑞希に逃げられるなんてそんなのゴメンだ。

 俺が温かい紅茶を入れるために湯を沸かしていると、俺と同じく乾いたスウェットに身を包んだ瑞希がダイニングに現れた。

 瑞希は最初は俯いて何事かを考えているようだったけど、俺が2つ分のマグカップに紅茶を注ぎ終えてダイニングテーブルに置く頃、まるで覚悟を決めたかのようにくっと顔を上げ、他に置き場所がないため食材やなんかと一緒にスチール棚に押し込んであったノートパソコンを引っ張り出して、紅茶のカップをよけてテーブルの上に置いた。

 俺がぎょっとしながらも黙って瑞希の好きなようにさせていると、瑞希はパソコンの蓋を開け、指を動かし何度かエンターキーを押した。すると突如パソコンからノイズ混じりの話し声が聞こえてくる。瑞希がくるりとパソコンを反転させ画面を俺の方に向けた。

 画面には2人の男性がベッドに座り仲睦まじげに話している姿が映されていた。やがて2人は濃密なキスを交わし、互いの体を弄り始める。これは……エロ動画か?男同士の。

 瑞希がパソコンの上から腕を伸ばし、シークバーをスライドさせて動画を何分間か早送りさせた。画面の中の2人がチャカチャカと姿勢を変え、裸になって抱き合っているシーンで元の速さに戻る。攻め手の男性が激しく腰を動かし、受け手の男性がその動きに合わせて喘ぎ声をあげていた。

 俺は視線を絡め取られたように画面から目が離せない。受け手の男性が瑞希の姿と重なり、下半身が熱を帯びてくるのがわかる。

 次の瞬間、瑞希にくるりと画面をひっくり返され我に返った。

 瑞希は再びパソコンを操作して、俺の方に画面を向ける。

 次の動画は、最初から2人が裸で絡み合っている動画だった。ただし今度は男同士ではなく、女性が男性の上にまたがって、大きな声を出しながらユサユサと胸を揺らしている動画だ。こっちは無条件に体が反応してしまう。まるで生まれついての男の性と言わんばかりに。

 バン!

 唐突に瑞希の手のひらでパソコンの蓋が閉められ、俺はビクッと肩を震わせた。

「今の動画……どっちも反応した?」

 瑞希に問われ、俺は思わず何と言えば正解なんだろうと頭の中で打算を始めてしまう。正直に言えばどっちにも反応した。でも、男女の動画にも反応したと言えば、俺の先日の不貞を咎められてしまうのだろうか。だけど男女の方には反応していないと答えるのもなんだか白々しい。

 なんと答えるのがいいのか考えあぐねていると、先に瑞希の方が口を開いた。

「俺は、後の方には反応しない」

「え……?」

 後の方というと、男女の方の動画か。

「俺、有司と付き合うまで恋愛してこなかったの、隣のおねえさんのせいにしてたけど違う」

「瑞希……?」

 瑞希はパソコンの上に置いていた手をスッと引くと両手を揃えて膝の上に置いた。そして眉にぐっと力を入れて真っ直ぐに俺の顔を見ると、「俺は、同性愛者なんだと思う」と言った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る