第26話

 俺は今日も学食の唐揚げ定食が目の前で冷めていくのを見ている。ここの唐揚げ定食は500円でボリュームがあってお得なので、ついいつも頼んでしまう。

 でも本当は食欲なんてない。ぼんやりしていたらいつものクセで食券のボタンを押してカウンターに出していただけだ。

 午前中、ゆいちゃんの家に行った。部屋には上がらず、玄関先で恋人と一緒に住んでるなんて嘘をついた(本当は嘘じゃないけど)ことを謝り、改めて一緒には住んでいないけど恋人はいるということを伝えた。

 ゆいちゃんは納得のいかないような顔をしていたけど、あまりの俺の強固な姿勢に最後は呆れ、怒り、「もう、いい!」と突き放すように言うと俺を玄関から締め出した。

 嘘をついて傷つけて、また嘘をついて傷つけて……そして多分俺は今、瑞希ともすれ違っている。表面的には上手くいっているように見えても、どこか何かがズレている。

 はあ、と俺が大きなため息をついたとき、「どうした、一之瀬〜ため息なんかついて」「一之瀬くん、また唐揚げ食べてないじゃん」と冷やかすような声を出しながら近づいてくるカップルに遭遇した。

「なんだよ、おまえら。今日は1限だけだろ。こんな時間まで何してたんだよ」

「キャリアセンターに行ってきたんだよ」

 水上が答えると同時に、円ちゃんと一緒に空いていた俺の向かいの席に腰掛ける。

「キャリアセンター?おまえら、もう就活とかしてんの?」

「おいおい、俺らもう3年だぞ?そろそろ方向性くらい決めておいた方が良くないか?」

「そんな大袈裟なもんじゃないよー。ちょっとどんな企業が求人出してんのかな〜って見に行ってただけだって」

 そう話す2人が急に遠い存在に見えた。就職なんて、もっとずっと先のことだと思っていたから。

「元気ねーな。何かあったか」

 さすがの水上だ。かつて同じ部屋で暮らしただけあって、俺の顔色の僅かな翳りに敏感だ。

 ていうか、先日ここで瑞希とのセックスレス予備軍問題について話したばかりなのだから、元気のない原因はそれだろうと見当はついているのだろうが、円ちゃんの手前その問題を「何か」という言葉で濁しながら水上は背もたれに深く背中を預けた。

「うん、まあ。ちょっとねえ」

 俺も言葉を濁して答えるが、その言葉はそのまま、俺と水上とのちょうど真ん中辺りで沈黙の中に深く沈んでいく。

 そのとき何かを察したらしい円ちゃんが、「私、先行ってるね」と席を立った。気を利かせて俺と水上の2人だけにしてくれるのだろう。

「おう」

 水上も特に止めることもなく、そそくさと立ち去る円ちゃんに手を振った。

「人間ができてるなあ、円ちゃん」

 俺がしみじみと呟きながら円ちゃんの背中を目で見送っていると、水上は満更でもなさそうにフンと鼻を鳴らした。

「んで?どうしたって?」

 他人の性事情なんか聞きたくないはずの水上が、敢えて訊いてくるほど意気消沈してるのか俺、と思いながら、俺はニシダの飲み会に行ったときにあった出来事をすべて水上に話した。

「バカじゃん」

「バカだよ。わかってるよ。いっそ、そう言って軽蔑されたほうが楽だよ。でも瑞希は怒ってないって言って無理して笑うんだ。体に触れられたくない理由も自分の気持ちの問題だからって言ってそれきりだよ。どう思う?」

「おまえさ」

 水上は背もたれに回していた右手を前に伸ばすと、少しイラついたようにテーブルの上を指でコツコツと叩いた。

「前から思ってたけど、なんで戸村の気持ちを毎回俺に訊くわけ?本人に訊けばよくね?」

「それは……」

 水上の言葉に俺は1度言葉を切って言い淀む。理由は明白だ。思い切って口に出した。

「……『別れよう』って言われるのが怖いから」

「ああ」

 即答した水上はきっと今、俺からやや遅れてあのときのことを思い出しただろう。高校のとき、寮の俺と水上の部屋で、3年全員が集まった前で瑞希が、「有司と別れるから」と言ったあのときのことを。

 叔父さんとの暮らし、弟、地元の友だち……いつからそうなのかはわからない。だけど瑞希は何かのきっかけで、それまでの人間関係をあっさりと切ってしまうところがある。俺はそれが、とても怖い。

「でも戸村は最終的におまえを選んでここにいるんだろ?だったら大丈夫なんじゃねえの?」

 水上がなんとかフォローしてくれるけど、残念ながらその言葉は俺の芯までは届いてこない。そう思う根拠が、ちゃんとある。

「俺思い出したんだけどさ、またこんな話で悪いんだけど、俺たち2人で暮らし始めた当初は結構ヤりまくってたんだよ、本当にサルみたいに。でも……大学入学して2か月くらい経った頃かな、瑞希が『緩んだら嫌だから週1くらいにしない?』って言い出してさ、なんでだよって思ったけど本人が嫌がるなら仕方ないって渋々受け入れて、そんでそれが当たり前になってきたら今度は『忙しくなるからあんまりできない』ってなって、今は『触るんじゃねえ』だよ。俺、思うんだけど」俺は一旦そこで息を吸い込んで、「瑞希はもう俺のこと、そんなに好きじゃないんじゃないのかな」と息と同時に言葉を吐き出した。

「いやいや、だったら一緒に暮らしてないだろ」

 バカバカしいとばかりに水上が手を振って俺の言葉を払い除けるが、俺の中に湧いた疑念は簡単には消えてくれない。だって俺は、きっと水上よりも、瑞希のことをもっとよく知っている。

「遠慮してるんだよ。あの部屋は俺の母ちゃんが紹介してくれたところだし、それに瑞希は俺と一緒にいたいからって理由で、自分の家族の反対を押し切ってまでこっちに残ったわけだし、大学卒業するまでは俺とあの部屋で暮らさなきゃって思ってるんだよ。瑞希はそういうところがあるんだよ」

「考え過ぎだろ」

「瑞希はそこまで考えるタイプなんだよ」

 再び2人の間に訪れた沈黙。その沈黙を破るように水上は息を大きく吐き出し腕を組むと、「だったら尚更本人と話し合えよ。聞けば聞くほど俺に言ったってしょうがない話に聞こえるよ。ちゃんと2人で共有して2人の問題にして、話はそこからだろ」何時になく真剣な顔をして言った。

「でも、別れ話になったら……」

「別れたくないっていうおまえの気持ちも全部含めての話し合い!それとも今のままずっとモヤモヤして過ごすんか?大学卒業したら別れるかもって思いながら」

「……嫌だ」

 きっぱりと言い切った俺の言葉を受けて水上は、話は終わったとばかりに床に置いていたカバンを拾いあげた。

「じゃ、俺行くな。円が待ってるから」

「あ、うん、水上!」

 立ち去ろうとする水上の背中に声をかける。

「ありがとな」

 俺が感謝の言葉を伝えると、水上は、ふっと顔をほころばせてからその場を立ち去った。あいつはホントに、昔から男前が過ぎる。


 モヤモヤは消えないが水上に話したことで少し元気を取り戻した俺は、家に帰る前にちょっとキャリアセンターに寄ってみることにした。

 行くのは初めてだ。就職のためのセミナーなんかもまだまだ先でいいと思っていたから。

 取り敢えず、円ちゃんが言っていたように、どんな企業が求人を出しているのか壁にズラリと並ぶ会社のパンフレットを端から手にとってパラパラと眺めてみる。でもどれも俺の興味を引くものはない。

 ていうか俺、なんで心理学部にしたんだっけ?と今更ながら記憶を辿ってみる。

 そうだ、確かそれも瑞希絡みだった。

 瑞希が薬学部に行くから、俺が心理士になったらどこかの医療現場で一緒になるかもねって話してたんだっけ。

 でも心理士になるなら、院に進学して資格を取るための条件を満たさなくてはいけない。

「院か……」

 母ちゃん学費出してくんないだろうな……。院試のための勉強もしなくちゃなんないし。

「ん〜」

 早くも進路に行き詰まってしまった俺が頭を抱えていると、ぼんやりと脳裏にある人の顔が浮かんできた。

 ――あ、田端たばた先輩。

 田端先輩は高校の寮で一緒だった2コ上の先輩で、心理学部へ進学した数少ない知ってる先輩の1人だ。そして確か今、院生としてこの大学に通っているはずだ。

 田端先輩に院について色々話を聞いてみよう。

 思い立った俺はすぐに心理学部にある院生研究室へ向かった。


 研究室を訪ねてみると、白衣を着た何人かの先輩たちがみんなで1台のパソコンを覗き込みながら何やら話し合っていた。

 その中に田端先輩の姿はない。

 邪魔しちゃ悪いか、と思ってそのまま立ち去ろうとすると、白衣の先輩の1人が入り口に突っ立ったままでいる俺に目を留めて、「何か用だった?」と声をかけてきた。

「あ、いえ。田端先輩にちょっと」

 俺がもごもごと口を動かすと、声をかけてくれた先輩は、あ〜、と研究室の白い壁にかかった時計に目を移し、「あいつ今カウンセリング中だけど、もう終わるから行ってみたら」とまた俺に視線を戻した。

「カウンセリング?田端先輩が受けてるんですか?」

「違う違う。実習だよ。田端がカウンセラーになって実際にクライアントの相談にのってるの。すぐ下の階の『相談室』ってとこでやってるから前で待ってれば?」

 カウンセリングの実習……院生になるとそんなこともやるんだ。

 俺は白衣の先輩にお礼を言うと、階段を使って研究室があった3階から2階に降りた。

 ちょうど下の階の廊下に出たとき、廊下の先にあるドアがガチャリと開き、中から若い青年が「あーしたー」とだらしなくお礼を言いながら出てくるのが見えた。

 ぎょっとしたのはその見た目だ。

 髪はレモネードのような薄い黄色。何色ものペンキをぶちまけたような派手なパーカーに黒いサルエルパンツ、アニメのキャラクターがでかでかと布地に印刷されたスニーカー。

 まるで全身色見本のような人間がポケットに手を突っ込んでこちらに向かって歩いてくる。すれ違ちがいざまに耳元でシルバーのピアスが光っているのが目についた。

「あれっ、一之瀬?」

 俺が派手派手な青年に目を奪われていると、さっき青年が出てきたドアからいつの間にか白衣を着た田端先輩が顔を出してこっちを見ていた。

「あ、先輩。お疲れさまです」

「何やってんだよ、こんなとこで」

「あ、ちょっと田端先輩に聞きたいことあって。ていうかあの、今の人ってもしかして先輩のクライアントですか?」

「おう、そうだよ。ていうか実習だから1人で診てるわけじゃねーけど」

 そう言った田端先輩の後ろから、「何?」と小柄な、見たことのある教授が出てくる。

「あ、すいません。後輩が来てて」

「あそ。鍵かけといてね」

「はい」

 教授は俺のことを覚えているのか覚えていないのか、表情の読めない顔で俺の横を過ぎると、階段へと消えていった。

「すいません。お時間大丈夫でしたか?」

「ちょっとならいいよ」

 その後、田端先輩は相談室に俺を入れてくれた。相談室の中にはパソコンの置いてあるテーブル、テーブルを挟んだ向こうに、おそらくカウンセラーが座る椅子、そして手前にはクライアントが座る椅子。横の棚には俺も授業で習ったことがある、箱庭療法というものに使う砂や動物の人形やらが入った大きな箱が置いてあった。

「さっきの人、悩みなんかなさそうな感じだったけどな」

 俺はさっき立ち去った派手派手な青年を思いながらなんとはなしに呟く。

「おまえね、人を見た目で判断すんじゃないよ」

 田端先輩が俺に苦言をさす。田端先輩は去年まで茶髪パーマだったのに、今は髪を黒く染めて短く切り揃え、まるで別人みたいになっている。

「んで?聞きたいことって何?」

「あ、いや……院ってどうなのかなと思って」

「え、おまえ院試受けんの?」

「あ、いえまだ、決めてないんですけど」

 俺は慌てて訂正しながら、まるでクライアントになったみたいに田端先輩が勧める椅子にちょんと腰を下ろした。

「一之瀬、カウンセラーとか向いてそうだよな〜人当たりいいし」

「そうですか?」

「でもその髪がな、地毛っつってたけどクライアントがビビるから黒く染めた方がいいよ」

 さっき人を見た目で判断するなと言ったばかりの口で何を言ってるんだと、少し呆れてしまったがそれは顔には出さない。

 結局田端先輩も、この春、院に進学したばかりということで、あまり濃い情報を得ることはできなかったけど、院試の傾向と対策はいつでも教えてやるよ、という頼もしい言葉をもらって俺は相談室を後にした。

 校舎の外に出て一旦立ち止まり、ふう、と息を吐く。胸には重い重い塊がさっきからずっとつかえたままだ。

 さあ、帰ろう。俺と瑞希が暮らすあのマンションへ、別れ話になるかもしれない案件を抱えて。



















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