第25話

 部屋を出てすぐに上着のポケットに入っていたスマホで瑞希に電話をかけたが出ない。

 瑞希のスマホが家に置きっ放しになっているのか、持っているのに敢えて無視されているのか。

 俺は小走りで辺りをキョロキョロしながら瑞希の姿を隈なく探し回り、もういい加減疲れて外も暗くなってきた頃、ようやく上着のポケットの中のスマホが音をたてた。

「もしもし!瑞希?」

『あ、有司?ごめん、俺、スマホ家に置いてっちゃって。もしかして探してくれてる?』

「え、うんまあ」

『もう家にいるから。ごめんね』

 電話の向こうの声は、驚くほど落ち着いて穏やかだった。

 俺はなんだか、さっきまでの出来事が夢だったんじゃないかと思うくらい拍子抜けしながら、とにかく一刻も速く家に帰ろうと走り出した。


「おかえり〜」

 玄関を開けると、さっき大学から帰ってきた瞬間に時間が逆戻りしたんじゃないかと思うくらい、さっきと同じ笑顔でキッチンに立つ瑞希が俺を出迎えた。

 ここで瑞希が「牛乳が無い」と言い出せば、間違いなくあの悪夢のような出来事の前に時間が戻ってくれたことになるが当然そんなことはなく、瑞希は「牛乳ありがとね。今、シチュー温め直してるからパンを解凍してくれる?」と言ってシンク下から深めのお皿を2枚とパンを載せる耐熱皿を1枚取り出した。

 俺は黙って冷凍庫からロールパンの大袋を取り出して、テーブルの上に置かれた耐熱皿に中身を並べながら、「あの……瑞希、俺昨日……」ともごもごと口の中で言い訳をこねくり始める。

 すると瑞希は、まるで今まで忘れてたと言わんばかりに、「ああ!酔ってあの子とやっちゃったんだって?まあ、しょうがないよね。彼女も反省してたよ?前後不覚になった有司を無理矢理部屋に連れてっちゃったって」と言ってお玉を手に取り、火を消した鍋からシチューをお皿に移し替え始めた。

 え?あれ……瑞希、怒ってないのか?

 ぽかんとして手が止まってしまった俺を、「有司、早く!それチンして」と瑞希がせっつく。

「あ、うん」

 俺はパンを並べた耐熱皿を電子レンジに入れて解凍ボタンを押した。

 鼻歌を歌いながらシチューのお皿をテーブルに並べている瑞希を俺が見やると、目が合った瑞希がニヤッといつもの笑顔を向けてくる。

 やっぱり、怒ってないのか……となんだか信じられない面持ちで瑞希の姿をボーッと眺めていると、電子レンジがたてたピーピーという電子音にビクッと肩を震わせてしまった。

 でも、なんだ?さっきから感じている、この違和感は?

 その後、向かい合ってシチューを食べながら他愛もない話をして、瑞希がお風呂に入っている間に俺が残りのシチューをジッパー付きの袋に入れて冷凍し、鍋とお皿を洗った。

 入れ代わりに俺がお風呂に入っていると、ブオーンと音が鳴り出し、すりガラスの扉の向こうで瑞希が洗面所の鏡に向かってドライヤーをかけているのが見える。

 あ、それ、俺がやりたかったやつ……。

 すりガラスの向こうの瑞希は、右手に持ったドライヤーを色んな角度に傾けながら、左手で髪をワシャワシャとかきまわして髪を乾かしている。扉1枚隔てているだけなのに、なんだかその姿がとても遠い。

 俺が風呂から上がって、髪を乾かして歯を磨き終わり、洗面所から出た頃には、瑞希は既にベッドの中にいた。

 眠っている風を装ってはいるが、眠っていないことは一目瞭然だ。大体、キッチンに置いてある小さな置き時計はまだ10時にもなっていなくて、いつも俺たちが寝ている時間よりもずっと早い。

 これ以上、俺と深い会話になることを避けている。直感的にそう思った。

 瑞希は今回のことを、うやむやのうちに自分の胸に閉じ込めようとしている。瑞希と付き合い始めてから2年半、一緒に暮らして2年。いい加減、瑞希のそういう何もかも自分の中だけで処理しようとする性格にも慣れてきていた。

 俺は灯っていたダイニングの灯りを消すと、暗闇の中を記憶を頼りに椅子やテーブルを避け、瑞希が寝ている方とは反対側からベッドに潜り込むと、「瑞希」と声をかけた。

 俺に背中を向ける格好で寝ていた瑞希が、ちょっと遅れてから、「……ん?」と小さく返事をする。やっぱり寝ていない。

「瑞希」

 俺はゴロンと転がって背中から瑞希を抱きしめる。薄いスウェット1枚では隠し切れない瑞希の筋肉の強張りがぐっと強まったのを感じた。

 思い切って瑞希の首すじにキスをする。次の瞬間……。

「やめろよ!!」

 俺を振り払うように飛び起きた瑞希が、まるで親の敵でも見るみたいに俺のことを睨みつけた。

 その瞬間、俺の中の何かがキレた。

 俺は頭の下にあった枕を掴むと、起き上がった勢いで瑞希に投げつける。

「……って!何すんだよ!!」

 セックスのときの喘ぎ声を気にしているとは思えないくらいの大声を出して、瑞希は枕を俺に投げつけ返した。

「怒ってるんならそう言えよ!なんで気にしてないフリなんかすんだよ!」

 また枕を投げつける俺。

「は、はあっ?!」

 瑞希は目を剥いたあと、「なに逆ギレてんだよ!元はと言えば自分のせいだろ!女抱いたばっかりの手で俺に触んじゃねえよ!!」と掴んだ枕を水平に振って俺の横っ面を思い切り張った。

 痛い……。顔も痛いけど、心も痛い。

 俺はのっそりとベッドから降りると、ストストと暗いダイニングを横切って玄関の靴に足を突っ込んだ。

「有司!」瑞希が俺を呼び止める声がしたけど、構わず俺はそのまま外に出た。


 夜の街をあてもなく彷徨い歩く。

 女抱いたばっかりの手で俺に触んじゃねえよ、か。

 確かにその通りだ。男だろうが女だろうが、他人と浮気したばっかりのやつに抱かれるなんて普通に気持ち悪い。ましてや自分とまったく体の構造が違う異性とやったあとに触られるなんて……でも。

 俺は足元にあった小石を靴のつま先で軽く蹴飛ばす。

 あいつは高校の時から全然変わっていない。しんどいことは全部自分の中に閉じ込めて消化して、俺に心から笑いかけるときはすべてが解決したあとだ。笑顔になれるまでひとりで頑張って、その後はもう何事もなかったかのように振る舞うんだ。

 でももう無理だろ。一緒の部屋に住んでるんだから。

 地元から離れて暮らしている瑞希が帰る場所はあのマンションしかない。ていうか、瑞希は俺のために、地元から遠く離れたこの場所に残ったんだ。もしかして、その事自体、俺は実は瑞希にとんでもなく大変なことを強いてしまっているんじゃないだろうか。

 偶然通りかかった公園に入って入り口付近にあったベンチに腰掛ける。ぼんやりと公園の中を眺めているうちに、この公園に足を踏み入れたことが偶然ではなかったことに気づく。

 バスケットゴール。

 寮のすぐそばにあった、瑞希がよくバスケをしにいっていた公園に似ている。

「お兄さん」

 いきなり後ろから呼びかけられて、俺はぎょっとして「はい?」と振り向いた。

 そこには、よく見るコンビニチェーンの制服をきた金髪のロングヘアを垂らした年齢のよくわからない女性が立っていた。体を折り曲げて横から、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。

「な、なんですか?」

 訝しげに俺が答えると、金髪女性は少しホッとしたように体を起こして、「いや、泣いてるのかと思って」と言うと長い髪に手を入れてガリガリと掻いた。手の動きに合わせて髪がファサッと揺れる。

「いや、泣いてませんよ。あなた仕事中じゃないんですか?」

 俺が振り向いた公園の向かいには、金髪女性の着ている制服と合致するコンビニチェーン店が、夜中にも関わらず煌煌と灯りを灯している。

「今、ゴミ捨て。さっきここでアンタと同じように座って泣いてた子がいたからまさかのデジャヴ?と思って。ていうかもしかして知り合い?夕方頃、ここにいた女の子みたいにかわいい男の子」

「え……」

「なんかうずくまってたから大丈夫かなあと思って声かけたらボロクソ泣いてたんだよね。関係ないか。ね、ね、あーし今から仕事あがりなんだけど、良かったら一緒に飲みに……あ、ねえ!ちょっと待ってよ!」

 途中から金髪女性の声なんかまったく耳に入っちゃいなかった。俺はとにかく地面を蹴って、蹴って、ただ瑞希の元へ少しでも速く行こうと必死で脚を動かした。

 俺はいつも自分のことばっかりだ。

 自分が寂しいから。自分が気に入らないから。そして瑞希はいつも他人のことばっかり。周りに自分を合わせて、本当の気持ちはこっそり影で泣いて紛らわせて。

 俺たちはそんなふうに、陰と陽の関係で成り立っている。


 マンションに着いて玄関を開けると、ベッドの中にいた瑞希が「有司!」と上体を起こした。瑞希がいた位置はベッドの左側。いつもは右側で寝ているはずの瑞希は、俺の枕に頭を載せ、俺のブランケットを体にかけていた。

「瑞希……」

 俺が靴を脱ぎ捨てて瑞希に駆け寄ると同時に、瑞希もベッドから滑り降りると俺に駆け寄ってくる。

 ちょうどダイニングテーブルの横で出会った俺たちは、どちらからともなく互いに互いの体を抱きしめた。

「有司、ごめん。本当に俺、怒ってないんだ。有司に悪気がなかったのはわかるから。でも……まだ頭に体がついていかなくて」

 そう言って俺を抱き締める手にぎゅっと力を込める瑞希に、俺は、無理するなよ、と言ってやりたくなる。俺に触るの、まだ気持ち悪いだろ、と。

 だけど俺はその言葉をかろうじて飲み込むと、「瑞希が謝るなよ。瑞希は全然悪くない。体がついてこないのは当たり前だから」そう言って、そっと瑞希の腕を振りほどいた。

 瑞希はふるふると首を振ると、「俺、有司のこと好きだよ?」とすがるように俺を見つめる。わかってるよ。

「わかってる。俺も瑞希が好きだ。ただ今は時間が必要だよ」

 その言葉に、さっきまで熱を帯びていた瑞希の目が突然スッと冷めたように見えた。そして、「そう、かもね。ごめんね、俺の気持ちが落ち着くまで待ってくれる?」と軽く下唇を噛む瑞希の表情にまた違和感。

 その後、俺たちはそれぞれベッドの定位置に入って眠った。いや、俺が寝たのはもう明け方だったし、瑞希がいつ寝たのかはよくわからない。

 でも俺は確信していた。

 瑞希は、まだ何か俺に言えない気持ちを、ひとりで抱え込んでいる。

 どうしたら俺は、瑞希を楽にさせてあげられるんだろう。

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