第23話

「一之瀬!こっち、こっち!」

 居酒屋の暖簾を潜った途端に、ニシダの大きな声が俺の耳に届いた。

 声のした方を見ると、オープンになった広い座敷の端っこに、長テーブルを2つ繋げてその周りをぐるっと囲んだ10人くらいの集団がいる。

 そのうちの1人がニシダだ。まだ入り口に突っ立ったままの俺に向かってぶんぶんと手を大きく振っている。

 俺はそっちに向かって歩いていくと、靴を脱いで小上がりになった座敷に入り、「すいません、遅くなって」言いながら空いているニシダの隣に座った。

「よっしゃ!全員揃ったか?」

 ニシダが、じゃあ飲み会開始、と言わんばかりに声を上げると、「あ、ごめん。こっち1人遅れてくるって。でも先に始めててだって」と女の子ばかり4人並んだ中の1人が手を上げ言った。きっとその子たちがニシダが仲良くなったという女子大の子たちだろう。

 あとは男がニシダ含め4人と、男たちの間にちょこんと座っている女の子が1人、多分その子はその左隣に座っているオシャレ眼鏡パーマのやつと既にカップルなのだろう、さっきから目配せ合って何やらキャッキャと喋っている。みんな俺が初めて合うやつらばっかりだった。

 ニシダは本当に人脈を広げるのが上手い。高校の時、ニシダと仲良くなってなかったら、俺はあそこまで遊んでなかっただろうし、ヤリチンの異名をもらうこともなかっただろう。なのにニシダ自身になかなか彼女ができないのが不思議でならない。

 なんとなく場違いな雰囲気を感じながら顔を前に向けると、ちょうど女子大の子たちと目が合った。彼女たちはちょっと戸惑ったようにこっちを見ながらコソコソと話していたけど、俺と目が合った途端サッと口を閉じた。あーね。

「こいつさ、おじいちゃんがイギリス人なんだよ。これが素だから」

 すかさずニシダがフォローを入れてくれて、俺もにっこり笑いながら、「そ、そ。カラコンとかじゃないから。いきなりイタイやつきたかと思ってびっくりするよね〜ごめんね〜」と軽い調子で一気に緊張をほぐす。途端に女の子たちが、え〜っ、すご〜い、などと言って色めき立つ。あ〜懐かし、この感じ。

「んじゃ飲み物頼むか」

 すいませ〜ん、とニシダが店員さんに向かって声を張る。

 そしてそれぞれ自分が飲むものを注文したあと、自己紹介タイムが始まった。

「一之瀬有司です。ニシダと同じ大学。学部は違うけど。恋人と同棲中です」

 俺は水上の指南通り、先制パンチを繰り出す。

「今日、彼女さんは来ないんですか?」

 目の前に座っていた女子がすぐさまカウンター攻撃に出る。

「今日は用事あるんだって」

 適当なことを言って交わす。彼女じゃないけど、と心のなかで呟きながら。

 やがて飲み物が到着し、みんなで乾杯を交わしたあと、俺は生ビールの中ジョッキを一気に半分まで飲み干した。

「一之瀬〜、飲みっぷりいいなあ〜」

 隣のニシダがからかうように俺の肩を叩く。

「今日、結構いけそう」

 俺はもう一度ジョッキに口をつけながら、1週間前の瑞希との会話を思い出していた。


「飲み会?」

「うん、ニシダと。あとニシダの友だち」

 あの日水上と学食で別れてからニシダにラインを入れ、水上が言っていた飲み会が1週間後だということを知った。

 てっきりその日のうちに行われると思っていた俺は、勢いのままに行ってやろうと思っていたのに、間があいてしまったため、瑞希と面と向かって報告せざるを得ないはめになった。

「いいんじゃない、行ってくれば。暫くそういうのなかったし、俺多分その日も早く帰れないしさ」

 瑞希はあっさりとそう言って、お風呂入ってくる、と帰宅したての脱いだ上着をダイニングチェアの上に置くと脱衣所に入っていった。呆然としている俺をその場に残して。

 なぬ?会費3000円だよ?あのケチな瑞希が……ていうか、2人でホテルに行くことはだめで、なんで俺1人で飲みに行くことはオッケーなんだ?納得いかね〜……。


 腹立ち紛れにビールがぐいぐい進む。彼女どんな人〜?と女の子たちが距離を詰めてくる。かわいい。でも時々凶暴。答えながら俺は、あれ?俺、またこの子たちの名前覚えてないや。と考えている。なにそれ〜、と女の子たちがケタケタ笑う。あ〜なんかもうどーでもいー気分。4杯目のビールをおかわりしたくらいまでの記憶はある。でも、そっから先の、俺の記憶は完全に無くなっていた。


「ん……」

 覚醒したばかりのぼんやりとした頭で、寒っ、と肩の下までずり落ちた布団を鼻の上まで引き上げた。

 途端に言いようのない違和感に襲われた俺の頭は一瞬にして覚醒し、まるで熱湯風呂から逃げ出すみたいに慌てて掛け布団の中から足の先まで飛び出した。

 うちのベッドじゃない!ていうか、ここどこ?!

 俺は辺りをキョロキョロと見渡す。

 狭いワンルームの片側の壁にはオレンジ色のカーテン。木製のローテーブル。上にはPCと小さな鏡、それぞれ背の違う化粧品の瓶が3本。そして床には散らばった服……服?!

 そこで俺は初めて、自分がパンツ1枚しか身に着けていないことに気がついた。

「ん……起きた〜?」

 背後から聞こえた声に俺はぎゃあと声を上げそうになった。

 俺の隣で長い髪をキャミソールの背中に垂らした女の子が、目をこすりながらこちらに寝返りをうつ。

 どなたですか?!

「あ、あの……」

 もごもごと口ごもりながら取り敢えずピンクのシーツのかかった羽毛布団を引き寄せ裸の胸元を隠した。昨日の飲み会にこんな子いただろうかと、一生懸命記憶を手繰り寄せる。だけどどれだけ考えても今、目の前で大きな目を俺に向けているこの子の顔が浮かんでこない。ちょっと、何やらかしたの?昨日の俺!

「ぶっ」

「ぶっ?」

「一之瀬くん、私のこと覚えてないんだ〜」

 女の子は両手で口を押さえて愉快そうに笑いながら、「昨日、私がついたときもう相当酔ってたもんね。ニシダくんが『帰るぞ』って言っても全然動こうとしないから私が一緒に残ってその後こっちに移動したんだよ?思い出した?」とチラと俺の顔を見た。

 思い出せない。ていうか昨日女子大の子が言ってた、1人遅れてくるってこの子のことだったのか。そしてここは……。

「あ、あの、俺、昨日……」

 ここはおそらく彼女の家だ。そして俺たちは半裸で一緒にベッドの中。ということは……考えたくない予想に俺の胃がひゅっとすくみ上がる。

 そこで彼女の顔がシュンと曇った。

「それも覚えてないんだ」

 途端に俺の脳裏に蘇る。柔らかい肌に、甲高い喘ぎ声に、ヌルっとした……うわああああっ!!なんでこっちは覚えてるんだあっ!

「ご、ごめん!!」

 俺は勢い良くその場で額をこすりつけんばかりに頭を下げた。ヤッてる!ヤッてるよ、俺!怖い!ヤリチンの習性がまだ抜けていなかったのか、このバカ!

 隣で女の子がゆっくりと上半身を起こす気配がした。

 ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!瑞希にバレたら……いや!それより彼女へのフォロー!自分の保身を先に考えるんじゃない!

 でもどうしても、どうにかして瑞希にバレないように、そして彼女も納得のいくようなうまい納め方はないだろうかとそっち方向に頭を高速回転させてしまう自分がいる。その方法さえ見つかればもう一生お酒が飲めなくても構いません、と何に対してなのかわからないけど必死に祈ってしまう自分も。

「困ってるね、一之瀬くん」

 俺の頭上に固い声が落ちてくる。

「もしかして、彼女、いる?」

 もしかしなくても、いる。……彼女じゃないけど。

 水上よ、いくら自己紹介で恋人いるアピールしても、遅刻してくる相手には通用しないぞ。ていうか誰か言ってくれなかったのかよ。いや、ちゃんと自分で言えないほどまでに酔っ払ってしまった自分が悪い。そしてあっさりとヤッてしまう自分も。

 ここは潔く、覚悟を決めるしかない。

「ごめん。一緒に暮らしてる恋人がいる。俺、昨日のこと本当に何も覚えてなくて。あなたのことを軽んじたわけじゃないんだけど、結果的にそうなってしまったよね。本当にごめんなさい」

「ゆい」

「え?」

「あなたじゃなくて、『ゆい』だよ。名前」

「あ……ごめんなさい、ゆい、ちゃん」

 その後、ゆいちゃんとの間にしばらく沈黙が流れた。その間俺はずっと頭を下げ続けている。不意にゆいちゃんが、子どもが甘えるときに使うような鼻にかかった声を出す。

「彼女よりゆいのこと、選ぶ可能性はどのくらい?」

 きたぁっ!急所をつく一撃。俺はぐっと唇を噛み締めると、「……ない、です。恋人と別れる気はないです」と言って、目を閉じた。

 言ってしまった。ここからあとは、向こうがどうでるか……彼女に今回のことをバラすと脅されるのか、責任を取れと迫られるのか。

 再びの沈黙。1秒が1時間にも感じられるような時間だった。

「あーあ」

 突然、ゆいちゃんが開き直ったような声を出すと、まだ頭を下げている俺の横をすり抜けてベッドから降りた。

「んもー男運ないな、私。よりによって彼女もちなんて。結構、本気でひとめぼれだったんだけど」

 ゆいちゃんは、上下キャミとパンティー姿のまま、部屋と繋がったキッチンスペースに向かうと、小さな冷蔵庫から缶チューハイを取り出してプシュと蓋を開けた。

「あ、あの……」

 そして、恐る恐る顔を上げる俺に向かって、「安心して。彼女にバラすとか言わないから。お互い昨日は酔っ払ってたしね」と言うとチューハイをグビッと音をたてて飲んだ。

 あ、良かった、話わかる子だ……でも、まだちょっと安心できないことが……。

「あの……」

「ん?」

「俺、今からサイテーなこと言っていい?」

 ゆいちゃんが訝しげに眉間にシワを寄せる。

「避妊……したかな、俺」

 その言葉にゆいちゃんはムッと目を細めると、缶チューハイを片手に持ったままツカツカと俺のいるベッドのそばまで来て、足元にあったゴミ箱から封の切ってあるコンドームの袋を拾い上げた。そして、これでいい?というように顔の横でその袋をひらひらと振ってみせる。

「あ、ありがとう」

 どうしてこの部屋にそれが用意されてあったのかは触れないことにして、取り敢えず安心した俺は床に散らばった服の中から自分の着てきた服を探し始めた。





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