大学生編

第22話

 雨が重い。

 さっきまではポツポツと肌に感じる程度だったのに、今ではバタバタと叩きつけるように俺のTシャツの肩を濡らしている。

 ――どこだ?瑞希……。

 前髪から伝ってまつ毛にかかる水滴を手のひらで拭いながら俺は、傘をさす人々の間をすり抜けてあてもなく瑞希の姿を探し走った。


 狭い高架下の人気のない場所で、瑞希の姿を見つけた。

「瑞希!」

 気だるそうに金網にもたれて俯いていた瑞希がゆっくりと顔を上げて俺を見る。その目は遠くから見てもわかるくらい、暗く沈んでいる。

「瑞希、帰ろう。風邪引くよ」

 そう言って腕を掴む俺の手を、瑞希はそっと振り払いながら、イヤイヤをするように首を横に振った。

「いい加減にしろよ。言いたいことちゃんと言ってくれなきゃ、仲直りもできない」

 少しイラついただけなのに、コンクリートの反響のせいでまるで怒りにまでレベルアップしてしまったような俺の声が、瑞希の顔色を変える。

「仲直りなんかしたって意味がない」

「え?」

「俺と有司は、違うんだよ」

 そのとき、ようやく俺の方を見た瑞希の目は、さっきまでの暗く沈んだ様子とはうってかわり、強くはっきりとした光を宿して俺を睨みつけていた。怒りではなく、悲しみに満ちた光だった。


 〜大学生編〜


 ハッ、ハッ、ハッ……。

 まるで痛みを逃がすみたいに、瑞希は目を閉じて俺の体の動きに合わせ息を吐いていた。

「……っ」

 瑞希の顔がギュッと歪み、それに同調するように俺と繋がっている1点にもグッと力が入る。

 俺は瑞希がイキそこねないように、それまでよりももっと速い動きで手を動かす。

「イ……」ク、という言葉を飲み込むように、瑞希は自らの手を口元に持っていくと、その人差し指を前歯で思い切り噛んだ。


「やっぱさ、たまにはホテルでやろうよ」

 パンツの上に長袖Tシャツを1枚着ただけの姿でベッドの端しに腰掛けていた俺は、キッチンの前で蛇口からコップに注いだ水道水を飲んでいる瑞希に向かって言った。

「はあ?なんでタダでやれるのに金払ってやんなきゃいけないんだよ」

 瑞希の方は、シャワーを浴び終えた体の上に上下スウェットをきちんと身につけて、首には体を拭いたときに使ったバスタオルをかけている。

 瑞希はそのバスタオルで水を飲み終えた口を拭うと、俺の提案を丸めたタオルと一緒に開け放したままの脱衣所のドアの向こうにポイとシュートした。

 こっちからは見えないけど、きっとタオルは、脱衣所に置いてある洗濯かごにキレイに収まっているはずだ。

 洗濯は2日分を溜めてからする、というのが俺たちの決めたルールだ。

 ちなみに瑞希がいる方のダイニングは今電気がついているけど、俺のいるベッドルームの方は電気がついていない。

 仕切りになっている引き戸を全開にすれば2つの部屋はほぼ繋がる。ゆえに、どちらかの電気を消していてもどちらかがついていれば、十分双方の部屋に灯りが行き届く。だから電気代節約としてどちらか1室しか電気をつけてはいけない、というのも俺たちが徹底して守っているルールだ。

 1DKのこの部屋に2人で暮らし始めてから2年、互いの親との約束により、学費以外の生活費はほぼ自分たちのバイト代だけでまかなっている俺たちにとって贅沢は許されない。だけど……。

「瑞希が声、我慢しすぎて集中できないんだよ」

 俺が思い切ってそう言うと、瑞希は見たこともない変な表情をしながら、「べ、別にちゃんと気持ちいいんだからいいだろ!俺のことなんか気にしないで集中したらいいじゃんか」と言って、電気消すよ、とダイニングの壁に手を伸ばした。

 そう、このマンションは、壁が薄い。ついでに床も天井も薄い。四方八方の部屋からそこの住民の生活する音がだだ漏れ聞こえてくる。

 瑞希は自分の喘ぎ声が上下左右に漏れやしないかといつも気にしながら、俺とセックスをする。

 瑞希がダイニングの電気を消すのと同時に、俺は急いでベッドの縁に紐で吊るしてあるランタンのスイッチをONにした。中でクリスマスツリーの周りに雪が舞い上がる。

 ぼおっと光るランタンの灯りの中、俺たちは体を寄せ合うようにしてベッドの中に潜り込むと、互いの体の形を確かめ合いながら、眠るのにちょうどいい位置を探した。

 でも、やっぱりもう少し周りを気にせずに思い切り抱き合いたいな。

 そんなことを思いながら瑞希の髪の匂いを嗅ごうと顔を瑞希の頭に近づけると、「そう言えばさ」まるでタイミングを見計らっていたかのように瑞希がぽそりと呟いた。

「何?」

「俺、研究室入ったから明日から帰り遅くなると思う。そんで夕方のバイトを土日に回すから、ちょっとあんまりこういうこともできなくなるかも」

「は?」

 突然の瑞希の報告に俺の頭がまるでついていかない。こういうこと?ってセックスってこと?

「えっ?ちょっと待って。そんなに時間ないの?寝る前に30分とかそんなもんだよ?」

「時間だけの問題じゃなくてさ、余裕?みたいな」

 え、いやいやいやいや。どんなに忙しくてもセックスは別腹でしょうが。ご飯を食べるのとおんなじように、もっと本能的にしたくなるもんなんじゃねーの?

 納得のいかない俺の反論を聞く前に、まるで受付窓口終了しましたと言わんばかりに、瑞希は頭上のランタンをパチとOFFにした。


「やっぱおかしーよ、あいつ。20歳の男の性欲じゃねーよ、あれ。今までだって『緩んだら嫌だ』とかいってあんまり挿れさせてくんなかったのにさー」

「あのさあ」

 ぼやきの止まらない俺の目の前で、水上は不機嫌そうな声を出しながらトレイに載った自分の天ぷらうどんに一味をパッパッとふりかけた。

「真っ昼間の学食で他人にする話かよ、それ」

 そして箸を取ってズズッとうどんをすする。俺が頼んだ唐揚げ定食は、俺の目の前でまったく手を付けられないままもう冷め始めている。

「だって誰かに聞いて欲しいんだよ。そんでこんな話できるのは水上くらいだし」

「俺は聞きたくねーよ他人の性事情なんか。頼むからまどかの前でそんな話すんなよ」

「水上く〜ん」

 名前が上がった丁度のタイミングで、向こうから手を振りながらやって来たのは水上の彼女である円ちゃんだ。

 俺たちの学校は、付属の高校までは男子校だけど、大学になると共学になってガラッと雰囲気が変わる。水上は大学に入学するやいなや、あっという間に同じ学部にいた円ちゃんというかわいい彼女をゲットした。

 名は体を表すと言わんばかりに円ちゃんはえんのように丸い顔をしていて、その顔のフォルムに黒髪のショートカットがよく似合っている。

「何の話してたの?ていうか一之瀬くん、なんでそれ食べてないの?」

 円ちゃんは水上の隣に腰を落ち着けると、斜め前に座る俺の前に手付かずで置いてある唐揚げ定食を指さした。

「なんか腹いてーんだって。昨日食い過ぎたらしい。その話してた」

 水上の雑過ぎるウソをあっさりと真に受けた円ちゃんは、「え〜、じゃあ瑞希くんも今頃大変なんじゃない?連絡した?」と手をパタパタと振ってみせた。

 この大学には俺たちが暮らしていた高校の寮から上がったやつも何人か通っているので、俺に男の恋人がいることは、まあ知っているやつは知っている。

 でも瑞希の大学には同じ寮どころか同じ高校から進学したやつは瑞希以外にはいない。そして瑞希は周りに男の恋人がいることをカミングアウトしていない。

 ただ、入学早々3人(内訳:女子2、男子1)に告白されたという瑞希の身を案じた俺が、「頼むから恋人がいることだけは公にしてくれ」と懇願すると、瑞希は申し訳無さそうに「彼女……ってことにしてもいい?」と言った。

 俺はそのことを悲しいとは思わない。むしろそれで瑞希が安心して大学生活を送れるのならそれでいい。

 ただ、また高校のときのように、瑞希が人目を気にし過ぎる余りに俺と別れたいと言い出さないかどうか、俺にとってはそれだけが唯一の気がかりだ。

「そう言えばニシダから仲良くなった女子大の子たちと飲み会やるから来いって誘われたぞ。俺らは断ったけど」

 水上が丼ぶりの汁を1滴も残さず綺麗に飲み干したあと、指で口を拭いながら言った。

「え?俺も瑞希も誘われてないけど」

「おまえらいつも誘っても来ねーからだろ」

「一之瀬くん、瑞希くん命だもんね」

 円ちゃんがふふふと笑い、水上がガタと席を立った。

「どうせ家に帰っても1人なら行ってくれば?」

「え〜だって女子大って女子がいっぱい来るんだろ?誘われたらどうすんだよ」

 真面目に唇を尖らせる俺に水上がピクリと眉を動かした。

 本当はツッコミを入れたいところなんだろうけど、高校のときの俺のモテ具合を知っているだけに何も言えずにいるのだろう。

「自己紹介で『同棲してる恋人がいます』とかなんとか言っとけばいいだろ」

 水上は、ぶっきらぼうにそう答えると、行こう、と円ちゃんを促し、トレイを持ち上げて返却口に向かってさっさと歩き出した。

 円ちゃんも、じゃね、と俺に手を振るとちょこちょこと水上の後を追いかける。

 1人ぽつんと残された俺は、全面ガラス張りの学食の中から外を眺めた。学生が行き交う沿道の桜は、もうだいぶ花びらが散ってしまって深緑の葉っぱが目立っている。

 う〜ん、飲み会ね、飲み会。

 コンパじゃないんだし、水上の言う通り恋人がいることを公にしておけば、なんの問題もなく、今のこの寂しさを紛らわすためのちょうどいいイベントかも知れない。

 どうせ家に帰っても1人なんだし。

 ちょっとお金はかかるけど、おあずけ食らう身としては、それくらいの贅沢、許されたっていいんじゃない?

 俺はようやく、もう冷めきってしまった唐揚げに箸を伸ばすと、反対側の手で上着のポケットからスマホを取り出し、画面にニシダのトーク画面を表示させフリック入力を始めた。












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