第16話

「じゃあ、行ってくる」

「瑞希……」

 女装コンテストで瑞希がぶっちぎりの優勝を果たしたその1週間後、瑞希は地元にある第一志望の大学の入学試験を受けるべく、前日の土曜日から実家のすぐ近くにある叔父さんの家に行くことになった。

 俺も一緒に行きたかった。瑞希は叔父さんちに泊まるらしいけど、さすがにそこへ図々しくお邪魔するわけにもいかないので、俺はどこかビジネスホテルでもとってさ。当日の朝には大学の前まで着いていって、「頑張れよ!」ってエールを送って、試験が終わったら、「お疲れさま」って出迎えて、そのまま2人でラブホに行っていっぱいいっぱい愛し合いたかった!……同じ日に俺の入学試験が重なってさえいなければ。

 なんでかぶるんだ!とあまりの悔しさに未練がましく地下鉄の改札の前まで見送りに来て、「せめてチューしたい」と泣きそうに言う俺の頼みを、あっさり「無理」と切り捨てて、瑞希は改札の向こうに消えていった。


「一之瀬〜、いつまでも落ち込んでないで勉強しろよ。心理学部って1番ムズいんだろ?」

 瑞希の見送りから帰ってくるなりベッドでカタツムリになっていつまでも浮上できない俺を、水上が自分の勉強机の前から叱咤する。

「わかってるよ、わかってます。もうちょっとしたらするから」

 俺は布団の中からそう答えると、はあ、と大きなため息を、ひとつ、つく。

 そうだ、俺が今やるべきことは、自分の受験勉強をすることだ。一応、合格を勝ち取るための評定値は満たしているものの、当日の学科試験がボロボロでは受かるものも受からない。でも……辛い。

 明日の夜には帰ってくるんだ。それはわかってる。だから俺は、安心してここで瑞希を待てばいい。なのにさっきから俺の心はずっと乱れっぱなしだ。何故なら、今回の試験をお互いパスできた瞬間、俺たちは高校卒業と同時に離ればなれになる、ということが確定してしまうから。そうなったら俺は、一体どこで瑞希を待てばいい?

 俺はもう一度大きなため息をつくと、「もう就職しよかな」と投げやりに呟き、水上に「おう、そうしろ」と適当な相槌を返され「なんでだよ!」と突っ込んだ。


 その日の2限目はみんなソワソワとして落ち着きがなかった。教壇で英文法の説明をしている教師も、おそらく気づいているのだろうが、敢えて気づいていないフリをしている。その日、英語の授業中である午前10時に、学園大の内部推薦入試の合否が発表されるのだ。俺含めクラスのやつら何人かは、こっそり机の中にスマホをスタンバイさせ、その時が来るのを今か今かと待ち構えていた。

 黒板の丁度真ん中の真上にある時計の針が、カチッと10時のところを指す。次いで机の中のスマホの画面をトトッとタップする気配。

「ヤッ……!」

 ニシダのアホが授業中であることを忘れて大声で喜びの声をあげかけ、慌てて口を押さえている。教壇に立つ教師がジロッとそっちを睨み、肩をすくめてちっちゃくなったニシダに向かって、「良かったねえ」と言ってニヤッと笑った。

 俺は自分のスマホの、「合格」と書かれた画面を確認したあと、すぐに右斜め前方にいる瑞希の方を見た。瑞希の合格発表も、同じ日同じ時刻だったからだ。瑞希は、しれっとした顔をして授業を聞いているフリをしているが、その机の中には画面を上にした状態のスマホが置かれているのが俺のところからも見える。そして教師が黒板の方を向いた瞬間、瑞希はくるっと1ミリの狂いもなく俺に焦点を当てて振り向くと、親指と人差し指で小さく「マル」と作って笑顔の横に掲げてみせた。


「じゃ、無事全員合格できたことを祝して」

 水上の音頭に合わせて俺たちは、カンパーイ!と、それぞれ手に持っていたペットボトルを互いにぶつけ合った。

 合格発表のあった日の夜、俺と瑞希、水上、ニシダの4人は、俺と水上が寝起きしている寮の個室で大学合格の祝勝会を開いていた。寮にはまだ進路の決まってないやつもいるから、あまり派手にやるわけにはいかず、俺たちはこっそり、コンビニで仕入れた飲み物とお菓子を部屋に持ち込んで、俺のベッドに俺と瑞希、そして2つある学習机の椅子をベッドの横まで持ってきて、そこには水上とニシダが腰掛けて、ごくごく内輪の小さなパーティーを楽しんだ。

「3人は結局またおんなじ学校なんだね」

 ぷはっとペットボトルから口を離した瑞希が、腐れ縁の俺たち3人を順に見回して言う。

「いや、俺と一之瀬は同じキャンパスだけど、ニシダは別のキャンパスだから実質違う学校だよな」

 水上がいたずらっぽく笑ってそう言うと、ニシダが「そんなこと言うなよ〜、俺たちズッ友だろ?」と情けない声を出しながら、隣にいる水上の肩を抱いた。

「やめろ!ジュースがこぼれる」

「なんだよ~冷たいなあ」

 そんな2人のやり取りを、瑞希があはは、と声を出して笑って見ている。そしてニシダが、ふと気づいたように「そう言えば戸村は地元に帰るんだよな?じゃあ、おまえら遠恋……いでえっ!」言いかけたところで、水上がニシダの足を思い切り踏んづけた。

 一瞬、場がシンと静まり返った。ニシダもようやく、まずいことを言った、という顔をして黙り込む。

「俺たち、外に出てようか?」

 水上は本当に機転がよく回る。気を利かせるように俺と瑞希にそう言いながら腰を浮かせると、瑞希が慌てて「えっ?!いいよ、いいよ。せっかくみんなで楽しくお祝いしてるのに。ねえ?」と俺に同意を求めた。

「うん」

 俺が誰に言うとでもなく頷くと、再び場が和んで話題は大学は家からどのくらいの距離にあるのかという話に変わった。

 実は、俺と瑞希はこれまで、卒業後どうするかという話を一切してこなかった。

 俺は遠恋でも十分続ける自信はあった。暇さえあれば毎日だって電話するし、バイトしてお金が入ったら、休日には必ず会いに駆けつけるだろう。だけどそのことを瑞希に告げたとき、瑞希がどんな反応をするのかが怖い。瑞希も同じくらいの気持ちを持ってくれているのか確認するのが怖い。今、永遠の愛を誓うには、俺たちはまだ、あまりにも若くて、脆い。

「消灯〜!」

「あ、やべ」

 廊下から、寮長の早乙女の声が聞こえて、俺たちは慌てて立ち上がり、ジュースや拡げたお菓子をバタバタと片付けた。


 その日の夜は何度も目が覚めた。まだ夜は明けていないというのに、やけに部屋が明るい。何度目かの覚醒のとき、なんとはなしに、ベッドから起き上がって室内履きを履き、廊下へ出ようと思った。

 あの日、初めて瑞希に会った日、こうして廊下に出てトイレにいって廊下に戻ったら、玄関のガラス戸の向こうに瑞希が現れて……。

「瑞希……」

 扉を開けて玄関の方を見るとそこには、約束したわけでもないのに、まるで示し合わせたように、ガラス戸から差し込む月の明かりに照らされて、背中を丸めた姿で玄関の段差に座っている瑞希の姿があった。

 俺は思わず駆け出しそうになって、ハッと足元を見て室内履きを脱ぎ、音を出さないように手に持って裸足になって走り出す。もういつの間にか廊下の冷たさに指先が痺れる季節になっていた。

「瑞希」

 至近距離まで来たところで瑞希の背中に小さく声をかけた。

「えっ?有司、なんで?」瑞希が振り返る。

「いや、あんま寝れなくてなんとなく」

「俺もあんま寝れなかった」

「そっか」

 俺はそのままストンと自然に瑞希の隣に腰をおろした。

「今日、外明るいよな」

 俺が呟くと、瑞希がすかさず、「スーパームーンらしいよ」とガラス戸の外を眺めながら言った。

「へえ」と俺はガラス戸の枠のもっと外側を見ようと首を傾けるけど、残念ながらここから月を見ることはできない。

「懐かしいね」

 今度は瑞希が呟く。

「あ、もしかして瑞希が初めてここに来たときのこと?」

「うん、そう。俺、朝早く着いちゃって、有司がここで一緒に時間潰してくれたんだよね」

「そうだったねえ」

 あの出会いは強烈だったな、と俺はハハッと小さく笑う。

「まだ数か月しか経ってないのに、なんかもうずっと前みたいな気がするよ」

 瑞希もフフッと小さく笑って、ふわっと俺の顔を見る。そして俺も瑞希の顔を見た。

 ――別れないよな?

 俺は声に出さずに瑞希の目に訴えた。

 ――別れないよ。

 瑞希も声には出さないけど、俺を見る目がだんだんと熱を帯びていくのがわかる。

 俺たちは、まるでお互いの意志を確認し合ったとばかりに、ゆっくりと顔を近づけるとそのまま唇を合わせた。

 バタン!

「えっ?!」

 突然音がして、俺と瑞希は同時に音のした後方を振り返った。

 俺たちの背後には、3年生が暮らす個室が並んだ廊下が真っ直ぐ伸びていて、廊下に人影はないが、今、確かにどこかの扉が閉まった音がした。

「い、今誰かそこにいた?」

 瑞希が後ろの廊下を凝視したまま震える声で言う。

「わからない。なんかの弾みでドアが閉まっただけかも知れないし」

 俺もスウッと心臓が冷たくなっていくのを感じながら、頼むそうであってくれ、とひたすら心の中で願う。

「と、とにかく部屋に戻ろう」

「う、うん」

 俺たちは立ち上がって、裸足の足で廊下を自室に向かって歩いた。嫌な胸騒ぎがした。


 答えは朝になってすぐにわかった。朝食の時間に水上と2人で食堂に入っていくと、すぐに一部のグループがそれまで話していた会話を中断して、俺の方を見た。その中心にいたのは……。

「原口だったね」

 不意に後ろから声がして振り返ると、そこには固い顔をした瑞希が立っている。

「今朝、俺が起きたらサッと出ていったから変だと思った」

 渇いた声で淡々と話す瑞希に、「え?なんかあったん?」と水上が戸惑っている。俺は水上にはまだ何があったか話していない。

「ちょっと3年生、朝飯中に悪いけど緊急の話があるから全員寮長室に集まって」

 それまで傍観していた寮長の早乙女が、座っていた椅子からガタンと立ち上がるとそこにいた全員に向かって叫んだ。事情を知らない1、2年生たちは朝食を摂る手を止めて、ポカンとしてその様子を見ている。

「はいはい、急いで。同室のやつでまだ寝てるやついたら起こしてきて」

 早乙女に促され、俺たちは今入ってきた食堂の入り口から再び廊下に出ると、玄関のすぐ横にある寮長室に向かった。


 わけもわからずいきなり起こされて連れて来られたやつらが全員入り終わったところで、早乙女は内側から寮長室の鍵を閉めた。

 事務用の机と椅子しかないガランとした寮長室も、3年生16人が全員入ったらもうギチギチで、隣にいた瑞希の肩が今にも触れそうに近い。

「取り敢えず確認したいんだけど」早乙女が俺たちの方を見て喋りだす。「一之瀬と戸村は付き合ってるの?」

 その言葉に、事情を知らなかったやつらが「えっ?」と驚いて俺たちの方を見た。原口とその他数人は、まるで鬼の首を取ったかのようにジッと俺たちの返事を待っている。真横に立っている瑞希の表情は俺からは確認することができない。どうする、どうすれば……。

「付き合うのにいちいち申告する必要あんの?」

 冷静に答えたのは俺の、瑞希とは反対側の隣にいた水上だった。

「付き合うのは勝手だけど、こいつら寮内でイチャイチャしてたんだぞ?普通に考えて一緒に暮らしてる人間としてキモいんだよ」

 原口が少し尖った声で横槍を入れる。

「おまえの方がキモいだろ。オナニーオナニー言いやがって」

 水上の、言葉とは裏腹にさっきと変わらない冷静なトーンが気に障ったようだ。原口があからさまに顔色を変えると大声を出した。

「なんだよ!一之瀬なんか女とっかえひっかえしてたくせに!いきなり男に行くなんて、どうせ戸村がその女みたいなツラでたぶらかしでもしたんだろ!」

 その言葉に、プツッと俺の頭の中で何かがキレた。

「お前いい加減にしろよ!」

 そう言って、俺を追い越して先に飛び出したのはニシダだった。そしてそれを制したのは……。

「やめて」

 俺の隣にいたはずの瑞希がいつの間にかニシダの正面に立っていて、脚を踏ん張ってその両肩を掴んでいた。

「やめて……」

 原口の言葉に1番傷ついたはずの瑞希が体を張って止めている。その姿に、ニシダを含めその場にいた全員が呼吸も忘れたみたいに身動きできないでいた。

 沈黙を破ったのは早乙女だ。

「ケンカさせるために集めたんじゃないんだ。時間がないから要点だけ言うけど、寮内で問題が起きてるなんて、今学校にバレたらヤバい」

「問題ってなんだよ!」

 ニシダの怒りが再燃して怒声に変わる。

「一之瀬と戸村のことじゃない!寮内で対立してることがバレたらヤバいってこと。まだ進路決まってないやつもいる中で問題がデカくなると受験に支障が出るやつもいるだろ。だから、どうせ3年にはわかることだろうから全員集めたけど、他の学年や寮生じゃないやつらには絶対に口外しないで欲しい。いいな、原口?」

 早乙女が原口の方を見た。

「別に言いふらしたいわけじゃねえし」

 原口が仏頂面で答える。さっきまで言いふらしてたくせによく言ったもんだ。

「よし、じゃあ遅刻するからもう解散!朝飯食いっぱぐれたやつ悪かったな。急いで行ってくれ!」

 そう言われて俺たちは、押し出されるように寮長室から出るとそれぞれの自室に戻った。

「悪い。俺が煽ったみたいになっちまった」

 個室で2人きりになったとたん、水上がロッカーから制服を取り出しながら言う。

「いや……こっちこそ悪い。俺が無用心だった」

 俺も制服に着替えながら水上に答えつつ、内心は瑞希のことが心配でたまらなかった。急いで準備を済ませると、「先、行く」と廊下に出て玄関に向かう。

 すると、既に準備を終えた瑞希が、いつもなら玄関で待ち合わせて一緒に行くはずの瑞希が、ガラス戸の扉を開けて外に出ていくところだった。

「瑞希!」

 俺は慌てて追いかけて、室内履きのまま土間に降りると、半分扉から体を外に出している瑞希の学生服の腕を掴んだ。

 瑞希は振り向いて、俺に向かって軽く微笑むと、「しばらく別々に行こ?」そう言うと優しく俺の手を振りほどいた。

 この笑顔は知っている。瑞希の、平気じゃないのに平気なフリをしているときの笑顔、だ。

 駄目だ。なんとかしなければ。

 目の前でガシャンと閉まったガラス戸の向こうで、決して振り向かない瑞希の背中が遠ざかっていった。





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