第12話
その日は1日中、大変だった。
何気なく瑞希の方を見ると、必ず目が合うのだ。向かい合ってコンビニ弁当を食ってるとき。勉強の合間に、ちょっと休憩と飲み物を飲んでいるとき。コンビニに買い物に行って、夕御飯は何にしようかと悩んでいるとき。
そして目が合った瞬間、慌てたように目を逸らされる。
……うん、わかるよ。俺も、そうだったから。
初めて彼女ができて初めてチューしたとき、その心地よさにはまって何度も何度もしまくった。したいよね?俺だってしたい。だけどさ……俺たち、付き合ってないよね?
なんかここでチューをしてしまったら、色んな意味で終わってしまう気がした俺は、敢えて瑞希の視線に気づかないフリをした。
瑞希は俺をキスの実験台にして、思いのほかその気持ち良さに気づき、もっとしたいと思っているのだろう。でも俺はこっから先はもう被実験台になるつもりはない。だってそれを許してしまったら、俺は今度こそ自分の恋心を諦めてしまうことになるから。瑞希にとって、ただの都合のいい人間に自分から成り下がってしまうんだ。それだけは絶対に嫌だ。
夜になって、俺たちはまたランタンの灯りの下で顔を寄せ合ってリスニングの練習をしていた。
瑞希はすごく飲み込みが早くて、まだ3日目だというのに随分と正解率が上がってきている。それは、いい。いいんだけど……合間にチラチラ俺の顔を見るのはやめてくれ……。
「そろそろ寝よっか」
俺は、ん〜っと腕を上に伸ばし、左手を右の肩に載せて揉みながら、凝り固まった首をゴキゴキと鳴らした。
「うん」
瑞希も同意すると俺からリスニング問題集を受け取って自分の学習机に向かう。俺はその隙に、「んじゃ俺は自分の部屋で寝るから」と椅子から立ち上がり部屋の出口に向かった。
「あ、一之瀬!」
瑞希が慌てたように俺を呼び止める。
「ん?」
俺は立ち止まり、瑞希の方を振り返る。
「……キスしたい」
持て余した気持ちをどうにかしたいと、絞り出すような声で訴える瑞希に、俺は率直に、困ったな、と思った。
思春期だもの。仕方ない。うん、わかる、わかるよ。でも俺にだってプライドくらいある。
「してもいいけど、次したら最後までするよ?」
俺は毅然とした態度で瑞希に向かってそう答えた。次にキスしたら、昨日瑞希が俺の腹を蹴飛ばして中断させられた、あの続きをするよ?そうなってこそ、俺らは対等ってもんだろう。
ランタンの灯りがチラチラと揺れて、扉の前に立っている俺からは、窓の近くの暗がりにいる瑞希の表情を読み取ることができない。
暫く返事が返ってこないことで、瑞希がようやく諦めたのだと判断した俺は、ドアの方に向き直りその取っ手に手をかけた。やっぱ無理だよね、そんなの。瑞希は、男は恋愛対象じゃないのに。
「いいよ」
その言葉は、唐突に俺の背中に投げかけられた。
「え?」
俺は予想もしなかった言葉に、もう一度確認を入れるように後ろを振り返る。
「いいよ。最後まで」
はっきりとした口調で、瑞希は俺のためにもう一度、そう言った。
俺の脳に、まるで電気のようなピリッとした衝撃が走った。
「最後までって、どういうことかわかってんの?」
ビリビリと痺れていく感覚が身体中に拡がっていくのを感じながら、俺は瑞希に駆け寄っていた。
瑞希は俺が近くに来てもまったく動じることはなく、俺の目を真っ直ぐ見つめながら、「わかってるよ。セッ……だろ?」と少し躊躇いがちに言葉を濁しながらも真剣に答える。
事の展開に頭が追いつかず、俺は思わず一瞬言葉を失った。え……本当に?
「昨日みたいなのはもうなしだからな!」
相手は完全に合意しているというのに、俺は何故か必死になって、瑞希の両腕を掴み更に詰め寄る。
「うん」
「途中でやめろって言ってもやめないからな!」
「わかってる」
俺は右手で瑞希の左手をひくと、左手でベッドの上からランタンを取り、瑞希を連れて部屋を飛び出した。
もつれ込むように俺は瑞希を自分の部屋に連れ込むと、ランタンを水上のベッドに置き、瑞希を下の段の俺のベッドに座らせ、自分の学習机のところに行って、上から2番目の引き出しを開けて中をまさぐった。焦って手がうまく動かずに、引き出しの中身が飛び出してあちこちに転がる。
俺はお目当ての、3つ連なったコンドームの包みを見つけると、前の女の子の使いかけのやつでごめん、と心の中で瑞希に謝り、手のひらでグシャと握った。そしてさらに奥にしまってあった、リボンのついた小さな紙袋を開くと中から個包装された潤滑ローションを取り出す。これは去年、寮でクリスマス会をやったときに、誰かがふざけてビンゴ大会の景品の中にまぜたものだ。使い道がなくてずっとしまいっぱなしになっていたけど、まさかこんな形で使うことになるとは思ってもみなかった。
俺はコンドームとローションを一緒に手に握りしめると、瑞希のところへ戻っていって、ベッドの端に腰掛けている瑞希の横に片膝をつくとそのままゆっくりと瑞希を押し倒した。瑞希も自分から少しずつ体をずらしていって、俺と瑞希はベッドの真ん中で、俺が仰向けになった瑞希の上で四つん這いになるという、昨日中断される前とまったく同じ姿勢になった。
「え、なにそれ?」
俺が枕元にコンドームとローションを置くと、耳元の異変を感じた瑞希がすぐに反応をする。
「ゴム。と、ローション」
「なんで、ローションとか持ってるの?」
「ビンゴゲームの景品でもらった」
言いながら、嘘は言ってないはずなのになんだか嘘くさく聞こえていることに自分で気づく。本当なんだよと言い訳する代わりに、少し冷静さを取り戻した俺は、大事なことを置き去りにしている自分に気づいた。
本当にこれでいいんだろうか。
キスがしたい瑞希と、セックスがしたい俺?それでフィフティフィフティ?俺が求めていたものはこれなのだろうか。いや、違う。俺が欲しいものは……。
「瑞希は本当に俺とこんなことがしたいと思ってる?」
「えっ?」
「キスがしたいから仕方なくじゃなくて?」
心臓がドクンドクンと脈打った。2回目の告白だ。瑞希は本当に、俺のことを求めてくれてる?
「えっと……」
俺の下で瑞希の目がうろっと泳ぐ。俺の心臓の鼓動が更に速く、速くなっていく。
「わ……わかんないよ!」瑞希が叫んだ。
わかんない?!
え、わかんないってどういうこと?ちょっと俺をこれ以上混乱させるのはもうやめてくれ。天然すぎ……いやもう天然じゃ済まされないよ、瑞希!
俺の顔があまりに強張っていたのだろう。フリーズしている俺の下で、瑞希は両手で自分の顔を覆うと更に叫んだ。
「だって俺、誰ともしたことないんだもん!どんな感じなのか全然わかんないし、正直今ビビってるよ!ほら!」
そう言って瑞希は、俺の左手を取って、自分の胸の上に持っていった。瑞希の心臓が、俺の心臓の音と同じくらい速く鳴っているのが俺の左手ごしに伝わる。
ドクンドクンドクンドクン。俺の鼓動と瑞希の鼓動が重なっていく。
そしてその言葉は、俺の口から自然にこぼれ落ちた。
「瑞希、俺のこと好き?」
瑞希は少し口ごもると、恥ずかしそうに目をほんのちょっと逸らしながら、小さな声で「……好き」と呟いた。
俺の胸にじわっと温かいものが拡がる。
「じゃ俺のこと、これからは『
俺はそれだけ言うと、瑞希の返事を待たずにその唇に口づけた。
◆
ぱち。
と、目が覚めて、隣で寝ているはずの瑞希がいないことに気づいた。
バスケに行ったか……とぼんやりとスマホを手繰り寄せて思う。俺は裸のまま、瑞希が寝ていた跡がそのまますっぽりと残ったような空間にじりじりとすり寄ると、瑞希の残り香を嗅ぐようにシーツに顔を埋めた。
可愛かった。めっちゃ可愛かった。あんな顔しちゃうんだ。あんな声出すんだ。そしてなにより俺を高揚させているのは……両想い!俺と瑞希はついに両想いになったぜ!
俺は、く〜っとシーツに顔を埋めたまま喜びを噛みしめると、瑞希が帰ってくる前にシャワーを浴びておこうとガバッと起き上がった。
ベッドから降りたその瞬間、扉がガチャと開いて「有司〜、洗濯機回すけど一緒に洗うもん……」と洗濯かごを抱えた瑞希が顔を出す。と、瑞希は俺のぽろ〜んと出ているものを見るなり、「ご、ごめん!」と焦って扉の向こうに消えた。
なんだよ今更、と思いながら、瑞希が俺のことを「有司」と呼んだことにまたニヤつき、新しいTシャツとパンツとハーフパンツを身につけると、ベッドに散らばった昨日着ていた服をベッド脇に置いてある自分の洗濯かごに入れて部屋を出た。
部屋を出ると、瑞希が扉のすぐ横の壁にもたれて立っている。
「洗濯もん」
俺が自分の洗濯かごを見せると瑞希はちょっと照れたように頷いて、俺たちは2人でランドリー室に向かった。
「バスケ行ってなかったんだ」
廊下をランドリー室に向かって歩きながら俺が訊ねると、瑞希は少し唇を尖らせて、「行ったんだけどすぐ帰ってきた」と言って洗濯かごを両手で抱きしめた。
「なんで?先客でもいた?」
俺が自分の洗濯かごを片手でぶらぶらさせながら何気なく訊くと、瑞希はじろりと俺を睨みつけ、「ジャンプすると響くんだよ!」と言うとズンズンと先に歩いていってしまった。
響く?立ち止まって暫し考え、あ、と俺は自分が昨日瑞希にした行為を思い出し、「瑞希、瑞希、ごめん」慌てて瑞希の後を追いかけ、追いついたところで必死に言い訳をする。
「俺、男の子とするの初めてで加減がよくわからなくて……」
「わーっ!!言わなくていいってば!別に怒ってないし!」という瑞希はやっぱり怒ったように乱暴に俺の洗濯かごをひったくると、ちょうど到着したランドリー室の1番手前の洗濯機に、俺の洗濯かごと自分の洗濯かごの中身を次々にドサッ、ドサッとぶちまけた。
50人の寮生に対して5台しかない洗濯機はいつも順番待ちで、終わった洗濯機から勝手に他人の洗濯物を取り出して使ったりするけど今日はどれも使い放題だ。明日も明後日も明々後日も。でも5日後には、他の寮生たちが帰ってくる。またいつもの日常に戻る。こんな風に、瑞希と2人きりでいられるのはあと4日間しかないのだ。
「瑞希」
俺は、洗濯機の洗剤投入口を開け、洗剤のボトルから蓋に洗剤を入れて正確に量をはかっている瑞希を後ろからそっと抱きしめた。
「こぼれるよ」
振り向かず、抗いもしないで、瑞希は静かにそう言った。
「今日だけでいいから、1日中一緒にベッドの中で過ごしたい。コンビニで食べ物買い込んで、勉強道具も持ち込んでいいから、ずっとくっついていたい」
こんな必死な気持で誰かに頼み事をするのはどれくらいぶりだろう。だってみんなが帰ってきたら、もう次にイチャつけるチャンスなんて何か月も先だ。寮生活は楽しいけれど、みんながみんなでお互いの行動を見張っているようなものだから、こんな蜜月期間はきっと今しか持てない。だから瑞希、今日だけは俺のわがままをきいてくれ。
瑞希は前を向いて黙ったまま洗濯機の電源を入れた。ゴォンと洗濯機が回る音がして、表情は見えないけど俺の腕の中にある瑞希の体が、だんだんと熱くなっていくのがわかる。「……うん」瑞希が小さく頷いた。
やった……。俺はぎゅうっと深く瑞希を抱きしめた。
「でも俺、まだケツが痛……」
「おーい!一之瀬〜、戸村〜?」
瑞希がいいかけた途中で明らかに建物内から第3者の声がして、俺たちは同時に「ええっ?!」と叫んで振り返った。
2人で顔を見合わせていると、もう一度「いないの〜?」と声がかかる。あの声は……水上だ!
俺と瑞希はバタバタと声が聞こえてきた玄関の方向に走った。
「あ、やっぱ、いんじゃん」
ちょうど室内履きに履き替え終えた水上が俺たちを見て微笑む。
「なっ、なんで水上がいるんだよ!」
「いや、家にいるのも2日が限界でさ。暇だし、おまえら居るだろうと思って帰ってきちゃった」
「きちゃったって……なんで俺らがいるって」
「だって一之瀬が戸村にランタン渡しといてって言うからさ、あ〜こいつら忍び込む気だなって」
しくった……。そういえば去年の年末もランタンでここで水上たちと過ごしたんだっけ。
そのとき、「ういっす〜」と玄関扉を開けて入っできたのはニシダだ。
「なんでニシダまで来るんだよ!」
その登場に、もう俺は泣きそうになって叫ぶ。
「俺が呼んだんだよ。多分一之瀬たち寮にいるから行かん?って」と水上。
「ニシダは地元の友だちと遊ぶんじゃなかったんかよ!」
「それがさあ、みんな今年は受験受験で誰も遊んでくれなくてさ」
ニシダが拗ねたように頬を膨らませた。
もうめちゃくちゃだ。せっかくの俺と瑞希の蜜月期間が。
俺が絶望に打ちひしがれている中、ふと隣りにいる瑞希の顔を見ると、瑞希は、仕方ないね、という表情を浮かべて苦笑いをしていた。
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