第11話

 バタン。パタパタパタ……。

 薄っすらとした眠りの中で、瑞希の部屋の扉が閉まって、廊下を玄関の方へ向かって歩く足音を聞いた。

 目を開けると明るい。スマホ……時間を確認しようとシーツ上をまさぐるけど、どこにもない。瑞希の部屋に置いてきたのだろう。でも窓から差し込む光の感じだと今はまだきっと早朝だ。瑞希は多分バスケをしに行ったのだろうと思った。

 だんだん冴えてくる頭の中で昨日のことを思う。俺は瑞希が俺を弄んでいると決めつけた。でも本当にそうなんだろうか。あのとき瑞希は何か言いかけていた。俺は、きちんと瑞希と話し合う必要があるんじゃないのか。寮に居る限りどうせどこにも逃げ場はないんだし、瑞希が帰ってきてこの閉鎖された空間でまた2人きりになってしまう前に、せめて外で話をしよう。

 俺はベッドから起き上がると、新しいTシャツとパンツとタオルをロッカーとロッカーの横に置いてある衣装ケースの中から取り出し、まずは昨日からの汗を流そうと大浴場へ行くことにした。そして部屋の扉を開けると、扉のすぐ横に、俺が昨日瑞希の部屋に置いてきた室内履きが揃えて置いてあることに気づいた。左側の中敷の上には、室内履きの中に突っ込んだ形で俺の忘れてきたスマホが置いてある。それを見て俺は突然不安な気持ちになった。

 まさか叔父さんの家に帰ったってことはないよな。

 一瞬ヒヤッと焦ったような気持ちが胸に湧き上がったけど、すぐに、いや、そんなことはない、と思い直した。瑞希は、ちゃんと俺と向かい合うと言ったんだ。あいつは自分から言い出したことを放棄して逃げるようなやつじゃない。まだ出会って数か月で何がわかるのかときかれればそれはわからないけど、でもきっとそうだ。俺はスマホを拾い上げると室内履きに足を突っ込んで、大浴場に向かった。


 バスケットゴールのある公園に着くと、他には誰もいない公園のグラウンドの端っこで、瑞希だけが凛とした背中をこちらに向け、バスケットボールをゴールに向かって構えている姿が見えた。ジャンプをして手からボールが離れた瞬間、もう外れることを予感したのか、地面に着地すると同時にだらんと両手を下げて首を落とす。ボールはガンと音を立ててゴールのリングのふちにあたり、まるで意思を持っているかのように真っ直ぐ俺の方に向かって跳ね返り地面に落ちて転がった。瑞希が振り向いて走り出したあと、そこに俺が立っていることに気づきハッとした顔をする。

 俺は足元に転がってきたボールを拾い上げると、走るスピードを緩めながら近づいてくる瑞希に向かってボールを差し出した。

 瑞希は無言のままちょっとだけ頭を下げてボールを受け取り、そのまま俺を通り越して公園を出た。ついてこい、ということなのだろう。俺は黙って後ろをついていく。そして車道を横切って、川べりの遊歩道に降り、寮の方へ向かって歩いていく瑞希の背中を見ながら、1メートルくらいの間隔をあけて、ずっと後ろをついて歩いていった。外ではもう目を覚ました蝉が、そこらじゅうでジージーと鳴きだしている。

 瑞希は遊歩道の途中に点在している、おそらく散歩に疲れた人が休憩できるよう設置されたのであろうベンチのひとつに黙って腰を下ろした。座面がむき出しの木でできているもうかなり年季の入ったベンチだ。角は削れ、雨風にさらされて全体的に白っぽく色褪せている。ここでケリをつけるつもりなのか?よし、受けて立つよと俺は瑞希のすぐ隣に腰を下ろした。

 ベンチはちょうど、枝にわっさと葉をたくわえた桜の木の影になっており、直射日光は避けられるものの暑いのにはかわりない。俺はこめかみを流れる汗をTシャツの袖で拭いながら、瑞希の方から喋りだすのを待った。

「昨日、ごめん」

 膝に載せたバスケットボールを弄りながら唐突に瑞希が言った。

 それは……腹を蹴飛ばしたことに対する「ごめん」なのか、キスしたことに対する「ごめん」なのか……どちらなのかで意味は大きく変わってくるだろう。

 俺が何も答えないでいると、瑞希は付け足すように、「改めて俺のとった行動を考えてみたら、確かに弄んでるって思われても仕方ないことしてたなと思って。だから、ごめん」と言って、ボールをギュッと抱きしめた。

 あ〜何もかも全部自覚なくしてたってことなんだ……やっぱ、天然かよ。よし、じゃあ更に大事なことを自覚させてやる。

「なんで、俺にキスしたの?」

 直球を投げた。今度は瑞希が黙り込む番だ。蝉の声が邪魔だと思ったのはそのときが初めてかも知れない。1番大きく聞こえていた蝉の鳴き声が止む頃、瑞希が口を開いた。

「俺、子どもの頃シルバニアファミリーが好きだったんだ」

「はい?」

 いきなり何の話が始まったんだと思わず変な声が出た。

「知らない?シルバニアファミリー」

「いや、知ってるけど。ウサギとかリスとかのおもちゃだろ」

「うん、それ。あと家とか家具とかもあってさ、いつまでも遊んでられたんだ。でもあれって女の子のおもちゃってイメージじゃん。俺、親に買ってほしいってどうしても言えなくてさ。それで隣の家に住んでた4つ歳上のお姉さんちに行って遊ばせてもらってたんだよ」

 瑞希は一気にそこまで喋ると少し口をつぐんだ。話をそらそうとしているのだろうかと訝しんだけど、瑞希にふざけているような様子はない。俺は取り敢えずこの話の着地点を見つけるまでは黙って耳を傾けようと、ふうと息を吐いてベンチに座り直した。瑞希が再び口を開く。

「小学校から帰ってさ、弟が保育園から帰ってくるまでのあいだ、毎日のようにそのお姉さんの家にお邪魔させてもらってたの。でもお姉さんが中学校にあがってからは、帰る時間が合わなくなって行けなくなっちゃったんだよ。で、シルバニアファミリー使えなくなっちゃったんだ」

 フッと瑞希が遠い目をしながら自嘲気味に笑った。

「でも俺が6年生になったときにさ、家の前でばったりそのお姉さんに会ったんだよ。お姉さん、高校生になっててさ、めっちゃギャルになってた。そんで『瑞希くん、久しぶりにうちに遊びに来ない?』って言われたんだけど俺ちょっと怖くてさ、躊躇してたら『瑞希くんの好きなシルバニアファミリー、まだとってあるよ』って言われてつい家の中に入ったんだよ」

 瑞希はそこで、何か嫌なものでも思い出すように辛そうに顔を歪めた。

「家の中、誰も居なくて、シーンとしてて、ますます怖くなって帰ろうかと思ったけど、奥からお姉さんがシルバニアファミリー持ってきてくれたら、その誘惑に負けてすぐ夢中になって遊んだ。そしたら、そしたらさ……」

 バスケットボールに添えられた瑞希の手がザリッとボールの表面を擦った。俺はこの先の展開に嫌な予感を覚えながら、もう言わなくていい、という気持ちと、受け止めてやりたい、という気持ちの間で激しく、揺れた。

「『瑞希くん、かわいいね』って言われて突然キスされたんだよ」

 ……やっぱりそういう話か。俺は助けてやれなかった小学生の瑞希の姿を空想し、その時の瑞希の恐怖に同調し、胸が締め付けられるような気持ちになった。

「俺、走って逃げてさ、自分の家に帰って何度も何度もゴシゴシ唇洗ったけどあのぬちゃっていう感触が消えなくて気持ち悪くて、それからずっと恋愛とか避けるようになった。付き合った先にはあれが待ってるんだって思ったらもう無理で、告られても全部断ってた」

「え、告られて全部って瑞希何人くらいに告られたことあんの?」

 引っ掛かるのはそこじゃないだろうと自分で自分に突っ込みながらも、俺は口を挟まずにはいられない。

「え?そんなに多くないよ。ちゃんと付き合ってください的なやつは10人くらいだよ。そのうち半分は男からでふざけたようなやつばっかりだったし。デートのときはスカート履いて欲しいとかさ」

 いや、10人は十分多い。しかも男の方も絶対ふざけてじゃないと思う。もしふざけたような言い方だったんだとしたら、それは振られたとき用の保険だったんだと思う。冗談、冗談と笑って誤魔化して終わらせるために。

 俺は自分が瑞希に告ったときのことを思い出していた。瑞希は顔を曇らせながら、「俺は女の子じゃない」と言った。もしかしてあのとき、俺も今までのやつらと同類だと思われていたのか?ていうか俺みたいに瑞希に心酔していたやつがこれまでも何人もいたってこと?

 なんだかいわれのないショックで俺が青ざめていると、俺の顔色を察したのかたまたまなのか、瑞希が慌てたように「でも一之瀬は違うと思ったんだ。そのままの俺が好きって言ってくれたし。だから俺、ちゃんと真剣に考えなきゃなって思ったんだよ」と俺の目を真っ直ぐ見つめて言った。

 その瞬間、俺と瑞希の視線が一直線上に重なる。俺たちはそのまま、互いに吸い寄せられるように暫くの間黙って見つめ合った。あ……瑞希が、近い。

 今にもキスをしてしまいそうになった次の瞬間、瑞希が我に返ったように先に目を逸らした。そして、何かを誤魔化すように、んんっとひとつ咳払いをすると、「話戻すけど」と目をうろつかせながらバスケットボールを抱き直す。

「だから俺、キス恐怖症だったんだ。でもなんか……昨日朝からずっと一之瀬と一緒にいたら、その、なんか……一之瀬とだったらできそうな気がしてきちゃって」瑞希はグッとボールを額に押し付け「だから、しちゃいました!ごめんなさい!」と叫んだ。

 俺は俺に向かって頭を下げる瑞希の頭頂部をぼんやりと眺める。つむじがど真ん中にあってきれいだ。

 そこに着地するか、と俺は瑞希の頭から目をそらすと、はああ〜っと大きなため息をついて肩を落とした。

「本当に軽率なことしたと思ってる!ごめん!」

 瑞希が更に深々と頭を下げる。もう、いいって。

 やっぱり瑞希は天然だ。俺が聞きたかったことはそんなことじゃなかった。あのキスは俺に対する好意だと、そんな言葉を自分が期待していたことに改めて気づく。なのに……ただの実験台かよ!

 ここまでくると俺がこだわっているイエスかノーかだなんでもうどうでも良くなってきた。ただ、最後の悪あがきとして俺は瑞希に、「で、どうだった?俺とのキスは」と訊ねた。

 瑞希はハッと顔をあげると、恥ずかしそうに顔を背け、胸にギュッとボールを握りしめながら、「うん……大丈夫だった。気持ち良かった」と言うと、ボールの上で組んだ腕の中に赤く染まっていく顔を埋めた。

 俺は意味もなくちょっとだけ勝ったような気持ちになって、「じゃあ、瑞希のファーストキスの相手は俺ってことで」と言うと、勢いよくベンチから立ち上がった。

「よし!コンビニ行くか!」

「え?でも俺、財布持ってきてない」

「今日の朝ごはんは俺が奢ってやる」

「え〜、じゃあ昼は俺が奢るよ」

「んじゃ昼は駅前のステーキハウスね」

「なんでだよ」

 瑞希が笑う。その顔を見て俺も笑う。

 結局俺たちは、いまだに宙ぶらりんな関係だけど、こういう感じもまあ悪くない。そのときは真夏の強い太陽と青い空が、きっとそう思わせたんだろう。




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