第9話

 スマホの画面を見てそろそろ始発が出る頃だ、と確認したあと俺はのそのそとベッドから這い出し、そっと音をたてないように自分のロッカーを開くと、上の段からNORTH FACEのリュックサック、そしてハンガーからTシャツを何枚か外し、貴重品入れから財布を取り出してリュックの中に放り込んだ。そしてパジャマ代わりに履いていた緩いハーフパンツを脱ぎ、ロッカーの下の段に畳んで入れてあったジーンズに履き替える。ロッカーの中に設置されてある貴重品入れの上には、実家から持ってきたランタンが押し込められてあった。

「一之瀬、何しとん?」

 水上の声がしてビクッと肩を震わせる。

「あ、ごめん。起こした?」

 振り返ると、二段ベッドの上の段で、上半身を起こした水上が眠い目をこすりながら俺の方を向いていた。

「んーまあ、いいけど。それよりこんな早くに着替えて、まさかもう家に帰るんか?」

「うん……始発で帰ろかな」

 バスケで早く起きる瑞希でもさすがに今ならまだ寝ているだろう。

 瑞希と顔を合わせるのが怖かった。

 ひと晩眠れない夜を過ごした。何度も寝返りをうち、何度考えても、今日また告る前と同じ態度で瑞希と接する自信が持てない。

 しょーもな。と自分自身に呆れる。前に俺は何と考えた?美鈴ちゃんを断る前。断られるなら断られるで、ちゃんと向き合って話しをして、友だちとして関係を続けるのか、気まずいから少し距離を置きたいのか、なるべくお互いの意志を確認しあって尊重しあいたい、などと殊勝なことを考えていたはずだ。なのに実際断られたらこうだ。結局、俺の考えていたことなんてただの理想論で、現実の俺は振られたらもう逃げ出すしか術のない、ただ口ばっかりの意気地なしなのだ。

「これ、瑞希に渡しといてもらっていいかな」

 俺はロッカーからランタンを引きずり出すと、ベッドの上にいる水上に押し付け、下のベッドからスマホを取ってジーンズの後ろポケットに突っ込むと、リュックサックを掴んで「んじゃ、また1週間後に」と言って部屋を出た。


 廊下をパタパタと歩き玄関まで来ると室内履きを脱ぐ。あ、しまった。靴下を履き忘れた。まあ、いいや、と靴箱から自分のスニーカーを出して裸足のままの足を突っ込む。そしてまだ鍵の閉まったガラス扉の鍵をカチャンと回し、早朝ながらもうすっかり明るくむわっとした真夏の空気の中に身を晒した。

 この時間でもうあちぃ。よくこんな中バスケができるよな、と思いながら門の外にリュックを放り投げ、自分も門を乗り越える。そしてリュックを拾い上げた、その時だった。

「一之瀬えっ!!」

 驚いて声のした方を見ると、瑞希がすごい勢いで、ガラス扉を押し開け飛び出してくるところだった。

「えっ?」

 瑞希は飛び出してきたそのままの勢いで門に足をかけ、俺のいる方に乗り越えようとしてくるが、驚いたことにその足は素足のまんまだ。

「ちょっ……瑞希!待って、その足で飛び降りたら……」

 俺が止める間もなく瑞希は思い切り門の上から飛び降りるとアスファルトの地面に足をついた。思わず、痛っと俺の方が顔をしかめると、その胸ぐらを、いきなり瑞希にグイッと掴まれる。

「なにしてんだよ、おまえっ!!」

「な、なにって……帰るんだよ。瑞希はバスケ行くんだろ」

 焦ってなんとか逃れようとする俺を、瑞希はがっちりホールドして放さない。

「ちげーよ!スリッパの音がするからまさかと思って覗いたら一之瀬が出てこうとするから追いかけてきたんだよ!」

 瑞希が更に強く俺の胸ぐらを掴んだ。

「おまえ、まさか逃げんのか?!」

「え……逃げる?」

 俺は次の言葉が続けられない。ていうか瑞希のこの必死さの意味がわからない。

「瑞希はもう俺と2人は気まずいだろ。だから、俺がいない方がいいんじゃないの?」

 やけくそで放った言葉に、「ふざけんな!!」瑞希の怒号が飛んだ。

「俺はひと晩寝ないで考えて、おまえの気持ちとちゃんと向き合うって決めたんだ!なのに告った本人が逃げんのかよ!」

「え?ええっ?」

「ちゃんと責任取れよ!!」

 そう言うと、瑞希は掴んでいた胸ぐらを放し両手で俺の胸をドンと突いた。そして俺をぐっと睨みつけるその目には、薄っすらと涙すら浮かんでいる。

 俺はただぽかーんとその場に立ち尽くしていた。

 え?これ、どういう状況?俺の気持ちと向き合うって……これって期待していいってことなのか?……うーん、わからん。わかりにくいよ、瑞希。

 頭の中は混乱したままだったけど、とにかくその時はただアスファルトの上に素足で立っている瑞希の足が痛々しくて、俺は思わず自分の履いていたスニーカーを片方脱ぐと、「わかったからさ。取り敢えず中に戻ろう」そう言って、スニーカーを指で持ち上げて、アスファルトの上に転がった小石を踏みつけている瑞希の足元に置いた。


「そのまま。そのままの角度で押さえてて。俺が隙間から腕突っ込んで中の鍵外すから」

 ここは寮の宿舎の裏、暗闇の中、ランタンの灯りだけを頼りに、俺と瑞希は開いた脚立の両側の脚に乗っかって共同で窓を外す作業に集中していた。

「重い〜」

「待って。あと少し」

 俺は瑞希が両手で持ち上げて少し角度をずらした窓の隙間から、腕を突っ込んで、内側にあるスクリュー式の鍵をくるくると回し、全部回し切ったところで「オッケー、降ろしていいよ」と腕を引き抜いた。

 瑞希が持ち上げていた窓を窓枠に戻し、完全に鍵の開いた窓をガラガラと横に滑らせ全開にしたところで、2人でふうと息をつく。そして先に宿舎の中に入った瑞希に、俺はランタンを渡し、脚立の下に置いていた2人の荷物を持つと脚立を登って自分も宿舎の中へと忍び込んだ。

「よっしゃ、潜入成功」

 俺は言いながら瑞希のバッグをはい、と瑞希に渡す。ここに来たとき初めて瑞希が門を乗り越えるため俺に渡したバッグだ。

 俺たちは倉庫の窓を閉めると、廊下へ続く扉の鍵を内側から開け、パタパタと暗い廊下を歩いて瑞希の部屋へ移動した。寮に忍び込んだ後は、建物の位置的に外側から見ても灯りの目立ちにくい瑞希の部屋にいようと2人で決めていた。

「ふはーっ。緊張した。でもなんかワクワクするね」

 部屋に入った途端、瑞希が急に安心したように大きな声を出す。

「瑞希、ご飯は?」

 エアコンのスイッチを入れ、自分のリュックを、嫌だけど取り敢えず借りるしかない原口の机の上に投げ出しながら俺が訊ねると、瑞希は自分のバッグを自分の椅子に、そしてランタンをベッドの上段に置いて、「もう食べたよ。一之瀬は?」と俺ににっこり笑いかけた。朝のあの怒りようはどこへやらだ。

「俺も食った。今日はどこにいたの?」

「図書館で勉強してたよ。一之瀬は?」

「俺はショッピングモールをぶらぶら」

 寮は午前で閉館だったのだか、大体毎年夕方くらいまではしばしの別れを惜しむ寮生たちが近辺をウロウロしているので、一旦帰るフリをして夜8時に寮の前で待ち合わせることにしていたのだ。

「そっか」

 ご飯は終わったか。俺はそのまま、次の言葉を探せないでいる。今の時間、いつもだったら、それぞれ自室で過ごしたりお風呂に入ったりしている時間だ。でも俺にとってはそんなことよりももっと気になることがある。瑞希、俺のこと……。

「ねえ、一之瀬。これ、手伝ってくれない?」

 俺の思惑を断ち切るように、いきなり瑞希が俺に何か参考書のようなものを押し付けた。薄暗がりの中、目を凝らして表紙を見ると、『大学入試 リスニング問題集』と書いてある。

「え?手伝うって、どうすりゃいいの?」

「一之瀬、英語の発音めっちゃいいじゃん。英語の授業で当てられたときいっつも気になってたんだよね。ていうか一之瀬ってハーフなの?」

 いや、今更かよ。俺は赤ちゃんのときから母ちゃんの英語で育ってるからネイティブの発音はできないこともないけど、あんまり目立ちたくないからわざと日本人ぽく発音していたが……見抜かれてた?

「母ちゃんがハーフだけど俺は別にバイリンガルってわけじゃないから自信ない。それにこれスマホに音声ダウンロードできるじゃん」

「うん、やってみたんだけどさ。やっぱり実際、会話しながらの方が早く覚えられそうじゃん。ダメ?」

「いや……ダメじゃないけど」

「やった!」

 取り敢えず、どうしていいのかわからない俺はまんまと瑞希のペースにのせられて、そのまま2人で瑞希の椅子と原口の椅子をランタンの灯りの下に寄せて座り、何故かリスニングの練習を始めることになった。なるべくネイティブっぽくして、という瑞希の要望に応えるべく母ちゃんの発音を思い出しながら問題文を読んでいく。

「ん〜……b!」

「……ハズレ」

「え〜っ、自信あったのに」

「どこでそう思った?」

「morningって単語が聴き取れたから」

「あ〜……」

 これは完全に耳が英語に慣れてない人のやらかすやつだ。取り敢えず聴き取れた単語だけで答えを推測するという。何度も何度も繰り返し聴いてもっと大事なセンテンスを拾えるようにならないと。

 それから2時間ぶっ通しでリスニングの練習を繰り返し、いい加減疲れたところで時間も遅いしそろそろ寝ようかという流れになった。

「シャワー使えるんだよね?寝る前に浴びたいな」リスニング問題集を机の本立てに仕舞いながら瑞希が呟いた。

 シャワー……瑞希が言うだけで何でもない言葉でもエロワードに聞こえてしまう俺はもうヤバいかもしれない。

「俺は明日でいいや。瑞希ランタン持ってっていいよ。風呂場の電気はつけても外に漏れないから」

「えっ!俺、1人で行くの?」

 瑞希が驚いたあと不安そうな顔をこっちに向ける。そうだ。瑞希は幽霊とか信じちゃってる系だった。俺は暫し、瑞希のすがるような視線を視界の端に感じたあと、はあ、とため息をつき、「じゃあ風呂場の前まで一緒に行くよ」と肩を落として頷いた。

 その後、風呂場の扉の前で座り込んだ俺は、中からの「一之瀬いるー?」という瑞希の呼びかけに、「いま〜す」と答えるというやり取りを何度か繰り返し、ついでに同じ部屋で寝るということまで約束させられますます頭がこんがらがった。これどういう状況……?俺の気持ちと向き合うとは言ってくれたものの、イエスかノーかはまだ言われていない。なのに俺をこんな生殺しのような状態に追い込むなんて、これが無意識にやっていることなんだとしたら……天然が過ぎるよ、瑞希……。



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