第8話
夏休みだ!
でも俺とニシダは夏休みが始まっても相変わらず毎日学校へ行って、日替わりでやってくるその日の担当者に文化祭の準備のための仕事の割り振りをやっている。シフト表は夏休みが始まる前に全員(瑞希以外)に休み中の予定を訊いて、無理のない範囲で作成した。取り敢えず定期的に来られそうなやつが1週したところで、俺とニシダのどちらか1人だけが順番に行くことになった。
俺は寮に残った日は必ず1度は自習室を覗く。でも瑞希はいない。どうやらあまりの暑さに、さすがにもう自室で勉強をしているようだ。
俺は1人で、寮の閉館日に2人で忍び込む準備を着々と進めていた。まず倉庫からこっそり持ち出した脚立を、外側の外せる窓の下にたてかけておいた。そして7月最後の週末、大学入試に必要な書類に印鑑を貰うため実家に帰ったついでに物置からランタンを持ち出した。俺の親父は昔からアウトドアが大好きで、俺の1番古い記憶が登山で迷子になり遭難しかけたこと、というぐらいなので歴は長いらしく、アウトドアグッズなら無いものは無い。
「What do you mean by not going home for the Obon holiday?(お盆休みに帰らないってどういうこと?)」
「友だちんちで勉強するんだよ。その方がはかどるから」
もう日本に住んで20年以上経つというのにいまだに家では英語で話しかけてくるハーフの母ちゃんを軽くいなして、俺はさっさと実家を退散する。こんな家で育ったので俺はほとんどの英語を聞き取ることはできる。でも喋ること書くこと読むことは苦手。学校の成績にはほとんど反映されない無駄な能力だ。
ランタンは大事にリュックに仕舞う。いくら電気が使えるとはいえ、閉館中に宿舎の中に明かりが灯っていたら近所の人に通報されかねないので、一応夜はランタンの弱い灯りの中で過ごすのだ。ちなみに水上とニシダに閉館中の予定を訊いたところ、水上は「俺は実家に帰るよ。久しぶりに静かなところでゴロゴロしたい」とあっさり、そしてニシダは「俺は地元の友だちと遊ぶんだよ!一之瀬が最近付き合い悪いからな」とふくれっ面をするので、どうぞ、どうぞとにこやかに見送ることにする。そうして俺は、その日がやってくるのをワクワクしながら待っていた。
「瑞希、どこ行くの?」
ついに明日が計画決行の日となった午後、廊下に出たところで、玄関に向かう瑞希を見つけ素早く声をかけた。夏休みに入ってからというもの、食堂でたまに会うくらいしか一緒に過ごす時間がないのでこういう瞬間は貴重だ。
「コンビニ行ってくる。ちょっと息抜き」
「じゃあ俺も行く!ちょっと待ってて」
俺はもう一度部屋に戻ると、貴重品入れから財布を取り出して廊下に戻り、すでに玄関で靴を履いて待っている瑞希の元へ走った。
「瑞希、ずっと部屋にこもってるけど根詰め過ぎじゃない?」
ギラギラとした太陽の下、川沿いの遊歩道をゆっくりと歩きながら、俺はジィジィと競い合うように羽を鳴らす蝉たちの音に負けないよう大きな声で瑞希に訊ねた。姿を現しているのはほんの数匹なのに、濃い緑の葉っぱがわっさと茂る桜並木からは、一体何匹いるんだってくらいの蝉の声が大合唱を繰り広げている。
「うん、大丈夫。朝さ、バスケやりに行ってるんだよ。ほら一之瀬が教えてくれた公園に。あれがいいリフレッシュになってる」
「朝?いつの間に?」
「みんなが起きる前だよ。陽が高くなるとすぐに暑くなっちゃうからさ。それに昼にもちょっとだけ寝るし、夜も早く寝てるよ。あんまり遅くまで机のライトつけてると原口が嫌がるから。だからできるうちにやっとこうと思うとどうしても昼間はこもっちゃうんだ」
また、原口か。
「あいつマジで集団生活向いてねえよな」
俺がぼやくと瑞希は、ハハッと軽く笑って「でもさっき帰省したみたいだから今日からいないよ」と何でもないことみたいにさらりと言った。
こういうところだ。瑞希のこういうところが俺の心をかき乱すのだ。平気なフリなんかしてないで、嫌なら嫌だと、愚痴を言うなり悪態をつくなりすればいいのに。
「暑いね」眩しそうに空を見上げて瑞希が呟いた。
コンビニのエアコンで涼を取りながらゆっくりとジュースやお菓子を選んで、俺たちは会計を済ませるとまた来た道を寮へと引き返した。
歩き出した途端、瑞希がさっそく炭酸のペットボトルをプシュと開けるので、俺もそれに習ってプシュと蓋を回す。炭酸を口につけて傾けるたびに必然的に視界に入る青い空には色んな形の雲がたくさん浮いていた。
「雲の種類って、大きく分けると10種類しかないって知ってた?」
瑞希の喉元を流れる汗に目を奪われていた俺は、突然の瑞希の言葉に不意をつかれたようにハッとする。
「知らない」
「あの上に薄く拡がっているのが薄雲。下の方にある、綿あめみたいなのがわた雲。入道雲は晴れた日に出てるイメージあるけど、あれは積乱雲っていって、あの下では実は大雨が降ってるんだよ」
「へえ」
突然そんな話をされても、へえ、としか言いようがないのだが取り敢えず話を繋げようと、「よく知ってるね、雲のなまえなんて」と俺はなんとなく答える。
「家に図鑑があったんだ。雲の図鑑。星の図鑑。花の図鑑」
「まさか星とか花のなまえまで全部知ってるなんて言わないよな」
「さすがに星や花は数が多すぎて全部は知らないよ。でもよく見るやつとかなら大体わかる」
そう言ってまたペットボトルに口をつける瑞希を見ながら俺はぼんやりと考えた。
そういえば瑞希は、寮に入ってから割とすぐに寮生たちのなまえをほとんど把握していた。クラスのやつらのなまえもだ。
「瑞希はなまえを覚えるのが得意だよな。俺は超苦手なんだけど」
「得意なのかなあ。意識したことないけど」
「俺、1日会ったくらいじゃ人のなまえなんて覚えらんないよ」
「それは一之瀬が中身を視ているからじゃないの?」
「中身?俺が?」
「うん。中身を見極めようとするとなまえなんてどうでもよくなったりするじゃん」
そんなことは初めて言われた。セックスというすべてをさらけ出す行為までした女の子のなまえを覚えられない俺なんて、最低な人間の部類だとしか思えない。ちゃんと相手のなまえを覚えようとする瑞希の方が、よっぽど誠意のある人間だと思える。人に対してだけではなく、花や星や雲に対しても向けられているものだと知った今、それはますます尊いもののように感じられる。それはまるで、世界を慈しむかのようで……。
瑞希が、好きだ。心から。
もう抑えられない。明日から2人きりになったらなおさらこの気持ちをコントロールすることはできない。
「瑞希」
「ん?」
「後で話したいことがあるんだ。夕飯終わったら自習室……いや、原口いないなら瑞希の部屋に行っていい?」
「いいけど……明日の段取りならラインで送ってくれたから頭に入ってるよ?取り敢えず朝帰省するフリをして外に出て、また夜になったら寮の前で落ち合う」
「うん。それはいいんだ。けど、別の話」
「え?うん……わかった」
ぽかんとしている瑞希の横で、俺はグイと炭酸を一気に飲み干した。ぐふっとむせて、大丈夫?と顔を覗き込む瑞希を制して俺は口を拭うと、空に浮かぶ雲を見上げ改めて決意を固める。
俺は今日、瑞希に告白をする。
ソワソワと夕食を済ませたあと、俺は空いた食器を返却口に下げ食堂を見渡した。瑞希はまだ部屋で勉強しているのか姿を現さない。そろそろ帰省する人間が増えてきたのか、食堂全体が、どこかガランとした雰囲気だ。
「一之瀬、俺、先に部屋戻るよ」
自前の水筒にポットの中の冷たいお茶を注いでいた水島が、ノロノロしている俺に向かって言うと先に食堂を出た。水島も明日、閉館と同時に帰省する予定だ。
「あ、うん」
俺は振り向いて水島の背中を見送ると、よし!と気合いを入れて、意味もなくTシャツの裾を整え髪を両手でなでつけた。そして食堂を出て歩き出し、俺たちの部屋よりも3つ手前にある瑞希の部屋の前で止まった。すう、と息を吸い込むとコンコンと扉をノックをし、「瑞希」と呼びかける。
「はい」
中から瑞希の声がしたので、俺はガチャと扉を開けた。
部屋の中では瑞希が奥にある自分の勉強机に向かっている。
「ごめん、勉強中だった?」
俺が言うと瑞希は、「ううん、今ちょうどキリがついたから、ご飯行こうかなって思ってたとこ」と言って勉強机のライトをパチと消し、うーんと伸びをした。
「あ、じゃあ出直してこようか?」
「そんなに時間かからないなら今でも大丈夫だけど」
「時間は……かからない、と思う」
俺はまだ開け放したままだった扉を後ろ手に閉め、ゴクリと息を飲み込むと、椅子をこっちに向けて俺の顔をじっと見ている瑞希を見て口を開きかけ、もう一度閉じる。柄になく緊張していた。ドクンドクンと波打つ胸を右手で押さえて息を整える。そして……。
「俺、瑞希のことが好きだ」
言った瞬間、時間が止まったかと思った。
瑞希の顔も驚いた表情のまま止まっている。さっきまで気にならなかった、エアコンの音が急に大きくなって部屋に響き渡る。
次の瞬間、瑞希の表情がフッと曇った。え?
「俺は、女の子じゃない」
ゆっくりと噛みしめるように瑞希は言った。
「わかってる!女の子の代わりにしたいわけじゃない!そのままの瑞希が好きなんだよ」
何か誤解をされているような予感に焦って、俺は必死になって訴えた。
すると瑞希は一瞬怪訝そうな顔をすると、スッと俺から目を逸らし、「だったらなおさら無理だよ。だって俺は、男は恋愛対象じゃない」と言うと、そのまま口をつぐんでしまった。
ガツンと頭を殴られたような衝撃だった。そして次の瞬間、咄嗟に俺の口から漏れたのは……。
「
ヘラヘラと笑ってみせる自分の姿が、いつか俺が振った美鈴ちゃんの笑顔と重なる。俺はそのまま逃げるように瑞希の部屋を出ると、パタパタとサンダルを鳴らして自分の部屋に戻り、「おかえり〜」俺に向かって声をかける水上を無視して、ベッドに駆け込みバサッと頭から夏用の掛け布団を被った。
「あれ?カタツムリになった」
そんな水上の声も届かないほど、頭の中が真っ白になっている。
え?俺……振られた?
口元に持ってきた手が、ブルブルと震えていた。少しずつ思考力が戻ってくる。
そもそも俺、なんで振られないと思ってたんだろう。
「一之瀬、どした〜?」
薄い布団ごしに、水上ののんびりとした声が聞こえた。
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