第3話

 ん?

 掃除当番を終え寮に帰ろうと、玄関に向かう途中に瑞希の姿を見かけた。

 もうとっくに寮に帰ったと思ってた。本当は一緒に帰りたかったけど、掃除が終わるまで待っててもらうのも悪いなと思ったし、何より俺がそんな心配をしている間に瑞希はもうとっくに教室から姿を消してしまっていたから。え、もしかして俺のこと、実はキライ?と数ある選択肢の中で1番最悪な回答に頭をぐるぐるさせながら、箒で同じところを何度も掃いていたら「一之瀬、ちゃんとやれよ〜」と遠藤に後ろから膝カックンをされた。


 瑞希は、体育館の開け放たれた扉の前に立ち尽くしたまま、中の様子をじ〜っと眺めていた。体育館の中からは、バレー部が柔軟を行うイチ、ニ、サン、という掛け声や、卓球部が球を卓球台に打ちつけるカツーンという小気味良い音が漏れ聞こえている。ちょうど体育館の横にある渡り廊下を渡っていた俺は、さっき、「もしかして俺のことキライ?」と考えていたことなんかすっかり忘れて、ほぼ反射的に瑞希に近寄って行った。

「瑞希」

「あ、一之瀬」

 瑞希が振り向いて俺の方を見る。その顔は少し切羽詰まったような顔になっている。どうかした?と訊ねるまえに、瑞希は掴みかからんばかりに俺に向かって早口でまくし立てた。

「バスケ部ってどこで練習してんの?今日は休みなの?それともどっか別に専用体育館とかあるの?」

「バスケ部?」

 バスケットボールが床を打つ音は残念ながら体育館からは聞こえてこない。聞こえてくるはずがないのだ。何故なら、うちの学校にはバスケ部がないから。

「うち、バスケ部ないんだよ」

 俺がその事実を告げると、瑞希は目と口を同時に大きく開いて少し固まった後、「バスケ部のない学校なんてあるの?!」とびっくりしたように大きな声で叫んだ。体育館の中にいた卓球部員のひとりが緑色のネットの向こうからギョッとした顔をしてこちらを振り返る。

 どこの学校にでも必ずありそうなバスケ部。それが残念ながらうちにはない。数年前まではちゃんとあった、らしい。でもある年の3年生の部員数人が不祥事を起こし無期限の活動停止になったことと、数いる教師の中で唯一バスケ経験のあった顧問が他の学校へ転任になってしまったことが重なり、結局復活する機会がないまま、また今年度を迎えてしまったらしい。俺がその経緯を話すと瑞希は、顔にショックの色を浮かべがっくりと肩を落とし、そのままトボトボと俺を置いて歩き出してしまった。

「も、もしかしてバスケ部入るつもりだった?」

 俺は慌てて瑞希の後を追いかけ、横に並ぶと瑞希のうつむく顔を覗き込む。

「いや……」

「え?」

「入るつもりはなかったよ。どうせもうすぐ受験だし。ちょっとショックだっただけ」

 入るつもりはない、と言いながらも瑞希はまだショックの抜け切らない顔をして、フラフラと足元もおぼつかない感じで俺の方を見もせず答える。瑞希が右手に提げていた大きな紙袋が、フラフラと歩いている足に当たってガサッと音をたてた。中身は朝着ていた、ベージュのブレザーの制服のようだ。

 俺は落ち込んでいる瑞希には申し訳なかったけど、瑞希が前の学校の制服を脱いで、俺たちと同じ制服を着ていることがなんだかちょっと嬉しかった。それは瑞希がもうヨソものなんかじゃなく、ちゃんと俺たちの仲間になったのだ、明日からもここにいるのだ、という証みたいなもので、俺を心の底からホッと安心させていたからだ。

「あ、そうだ!」

 俺は突然あることを思い出して大きな声をあげた。そして、俺の声に驚いてやっとこっちを見た瑞希に向かって、ウキウキとした気持ちになりながら笑いかける。

「いいとこあるよ」俺は腕を大きく振ると、瑞希についてくるよう合図した。


 学校の門を出て寮を通り越し、川沿いの道に出ると右に曲がって真っ直ぐと歩いていく。せせこましい住宅街にある幅の狭い川の水はお世辞にも綺麗とは言えず、コンクリートの塀と柵が張ってあって中には入れないが、川を沿うように敷かれている遊歩道はきちんと整備されていて、脇にはズラリと桜の木が植えられている。あと1ヶ月半、早ければ、美しいピンクの桜並木が見られたのに、今見る限りは緑の葉っぱをつけただけのなんてことはないただの木だ。

「あの、一之瀬、いいとこってどこ?」

 何も言わずにズンズン先を歩いていく俺に、瑞希が堪らずといった感じで不安気な声をあげた。まあ、昨日今日会ったばかりの俺に「いいとこ」って言われても、俺の価値観とかまだ知らないわけだから、もしかしたら「いいとこ」=「いかがわしいとこ」なんて可能性もゼロではないもんな。でも、安心しなよ。きっと気にいるから。

「ほら、あそこ」

 やっと見えてきた、車道を挟んだ遊歩道とは反対側の区画、桜ではなく名前も知らないような木々に囲われた、どこにでもありそうな児童公園を、俺は指差しながら瑞希の方を振り返った。

「あ」

 遠目にもわかる「それ」を見て、瑞希の顔に光が戻る。

「バスケットゴール!」

 瑞希が叫んだ。

「ここの公園、バスケットゴールがあるんだよ。よくみんなここでバスケの練習してる。ほら、今日もやってるし」

 フェンスによって遊具エリアとグラウンドエリアに分けられたグラウンドエリアの方、隅っこに建てられたバスケットゴールの周りでは、中学生らしき男子が3人、バスケットボールを地面に打ちつけながら何やら真剣勝負をしている。ただし勝負をしているのは2人だけで、あとの1人は見学だ。どうやら人数の都合で、1体1をやっている間、残りの1人は必然的に見学になってしまっているようだ。

「また空いてそうな時、来たらいいよ。ボール持ってる?良かったら俺が壁くらいにはなるけど」

 俺が言い終わるか終わらないかのうちに、瑞希は公園を囲う低い柵を跳び超え、グラウンドの周りに生えている芝生の上にほとんど投げ捨てる勢いで持っていた紙袋と通学用カバン、そして剥ぎ取るように脱いだ上着を落とすと、「俺も入れてよ!」と中学生のグループに向かって手を振りながら走り寄っていった。置いていかれた俺は、ただただ唖然としてその場に立ち尽くす。

「アグレッシブだな〜……」

 俺はそう呟くと、よいしょと柵をまたいで公園の中に入り、瑞希が落としていった荷物を拾い上げて芝生の上にきちんと揃えて置き、その上に芝を払い落として2つ折りにした瑞希の学ランを載せ、自分はその横にあぐらをかいて腰をおろした。

 いきなり走り寄ってきた高校生に、中学生たちは最初こそ戸惑っていたものの、その後4人で話し合いがついたらしく、やがて2対2での勝負が始まった。さっきまでの1対1とは違い、今度はパスが入るので、より動きがダイナミックになっている。

 瑞希が放つボールは、どれも面白いくらいに綺麗な軌道を描いてゴールネットをパシュッと揺らした。そしてゴールが決まるたびに、味方の男の子と嬉しそうにハイタッチをする。

 ああ、めちゃめちゃバスケ好きなんだ。

 連れてきて良かった。俺がそう思ってほっこりとした気持ちになっていたとき、俺の通学カバンの外ポケットに突っ込んであったスマホがブブッと振動した。カバンからスマホを取り出し画面を開くと、インスタにDMが届いている。中を見てみると、「美鈴」と書かれたアイコンの窓から、やけに大きな目をした女の子がこちらを覗いて微笑んでいた。そしてメッセージ欄には、『昨日、楽しかったねー♡良かったら今度、2人で会いませんか?』の文字。

 ああ、そういえば昨日の子、「みすず」って呼ばれてたっけ、と薄っすらと思い出しながら、親指をトトト、と素早く動かし、『楽しかったね。2人はちょっとまだ早いww またみんなで遊ぼ』と入力して送信した。まるで流れ作業のようになんの感情もなく。

 ……やっぱり、俺って最低かも知れない。しばらくスマホの画面を見つめたままぼんやりとそんなことを考えたあと、顔を上げてまた瑞希の姿を追う。瑞希は見事シュートを決めた中学生に向かってとびきりの笑顔で駆け寄ってジャンプしながらまたハイタッチをした。その姿がなんだかとても眩しくて、俺は思わず目を細めた。


 30分くらいバスケに興じたあと、瑞希は中学生たちに別れを告げ、自分の荷物や上着を回収するためにこっちに向かって走ってきた。走ってくる途中でまだそこに座ったままでいる俺と目が合い、意外なものでも見たかのように、きょとんとした顔をする。

「あれ、ごめん。もしかして待っててくれた?俺つい夢中になっちゃって。先に帰っててって言えば良かったかな」

 俺は苦笑して、「いや、面白かったから。なんか見入っちゃった」と、そばまでやってきた瑞希を見上げながら言った。

「そんなに面白かった?」

 瑞希が俺の右側にドサッと腰をおろして、ふ〜あっちぃ〜と右手の甲で左頬に滲んだ汗を拭う。そんな仕草ひとつにもドキッとしてしまうほど、瑞希のシルエットはどこを切りとっても魅力的だ。

「なんか飲み物買うならすぐそこにコンビニあるよ」

 俺の邪な視線を気取られないよう咄嗟に適当なことを言ったら、「おっ、やった!今、それ、めっちゃ求めてた」瑞希がやたら食いついてきたので、俺たちは立ち上がってお尻に突いた草を手のひらではたき落とし、コンビニへ向かうことにした。


「バスケ部なくて残念だな。やっぱり入りたかったんだろ?」

 コンビニを出たところで俺が脇にコーラを挟んだ恰好で鞄に財布を仕舞いながら何気なく言うと、瑞希はスプライトの蓋をパキパキと音を鳴らして開けながら、「いや、バスケは好きだけど本当に入る気はなかったよ。早めに受験の準備したかったから、引っ越しを機に引退しようって決めてたんだ」と言って、炭酸の強いスプライトを顔をしかめてちょっとずつ飲んだ。

 受験……。

 その言葉の響きがなんだか俺を不穏な気分にさせる。勉強が嫌だとか面倒くさいだとかそんなんじゃなくてもっと別の意味合いで。

 こういうことはすぐにはっきりさせておいた方がいい。曖昧なままにしておくと、いつまでもモヤモヤとした気持ちを引きずった上に結局予想通りのバッドエンドになって、精神衛生上とてもよくない。

 俺は覚悟を決めるときっぱりと瑞希に向かって問うた。

「瑞希は大学、どこに行くの?」

「え、地元だよ?大学からは1人暮らし許されてるから実家から通えるとこ」

 あっさりと返ってきた答えを俺は心の中で、ですよね〜と軽く受け流す。

 ていうか受け流さざるを得なかった。

 さっき瑞希が俺たちの仲間になったのだとかなんとか言って浮かれていた気持ちが、穴の空いた風船みたいに一瞬でしぼんでしまった。そうだ。瑞希にとってここは、家庭の事情により一時的に身を寄せているだけの仮の住まいだ。ホームじゃない。そのことが俺をとても寂しい気持ちにさせていたけど、それは俺の独りよがりであって瑞希には関係がない。じゃあ俺は、卒業までの数か月、この限りある時間を大切にしよう。

 遊歩道に沿って寮へと歩く帰り道、瑞希がスプライトの蓋を持つ腕に提げた紙袋、ベージュのブレザーの上に、2つ折りにした黒の学ランを突っ込んだ袋がまたガサッと音をたてた。



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