優しき天神は生贄を欲す 其の漆《なな》
改めて、琥珀…いや、天神様が生贄はいらないと仰った事を伝えると、やはり叔母夫婦は半信半疑だった。
自分が死にたくないばかりに、嘘を吐いているのではないかと言われたが、事実、私がこうして生きていても祟りや天変地異が起きていない事が、私の言葉が嘘ではない事を裏付けている。
私が逃げたのだとしたら、今頃この村…いや、この山は天神様の加護がなくなっているはずなのだ。
だが山も村も、何の問題もなくいつも通りである。
叔母夫婦は二人でこそこそと相談していたが、結局今は信じる事にしたようで、改めて私に向き直った。
「じゃあ…天神様は生贄がなくても、これからも山を守ってくれるんだね?」
「はい、そう仰ってました」
「…ならあんたは今、何処で何をしてるんだ?」
やはりそうくるか。
生贄として喰われなかったのなら、今まで一体何をしていたのか、当然の疑問だ。
(どうしよう…?山で暮らしていると、言っても良いのかしら)
そんな事を軽々しく伝え、山に村人が足を踏み入れるようになっては困る。
天神様がいない事を知られたら、きっと皆んな、山の実りを求めてやって来るはずだ。
今まで山と人間が上手く共存出来たのは、お互いに過干渉しなかった為である。
山で暮らす動物や"人ではない者"は人間の暮らしに干渉せず、また私たち人間達も、山の深くまで足を踏み入れない。
それが大昔からの約束事なのだ。
だが人間が今まで約束を守って来たのは、山の怒り…つまり天神様が怖かった為で、その天神様がいなくなったのなら、山の生態系を壊すだろう。
私を含め、人間とはそういう生き物なのだ。
「私は…、今はもう山を降りてます。まだ住む場所とかは、その…はっきり決まってないんですが…」
何とかこの話を
「だったら…、帰って来たらどうだ?」
「え?」
予想外の言葉だ。
私はずっと邪魔者だと思っていたが、そうではなかったのだろうか。
「また家の事とかやって貰えると助かるんだがな…。ほら、
ちらりと
私が生贄として山に行ってから、随分と苦労しているのがよく分かる。
(どうしよう…)
勿論、家族の為に家事をするのも働くのも、苦ではない。
それに、こう言われると、どうしても断りにくい。
根っから臆病で、人の顔色を
断ったら何を言われるだろう、冷たくされはしないだろうか。そんな恐怖から、人から何かを言われた時、はっきりと断る事が出来ない性格だった。
…嫌われる事が怖かったのだ。
(…断れない、よね)
両親を失った幼い私が生きてこられたのは、間違いなく叔母夫婦のおかげで、例えどんな状況であれ、衣食住を与えてくれてのは叔母夫婦なのだ。
その叔母夫婦が望むなら、戻るしかない。
だが、分かりました。と答えようとした私の肩を、誰かが強く掴んで引き留めた。
「?」
振り返ると、いつの間にやって来ていたのか。背の高い、見知らぬ男が立っている。
(?、…誰…)
思わず絶句する。何故なら、そこに立っていたのは琥珀によく似た、
琥珀に瓜二つだが、額には角が無く、髪の色も目の色も、私達人間と同じ、少し茶がかかった黒色をしている。
(素敵な人…。…だけど、琥珀にそっくり…)
旅人だろうか。この村では見た事がないくらい、整った顔立ちをしている。
叔母夫婦も怪訝な顔をしている事から、新しく村に来た人でもなさそうだ。
ずっと肩を掴んだままの男に固まっていると、男はずい、と私と叔母夫婦の間に割り込んでくる。
「おい、まさかこの家に戻るつもりじゃねぇだろうな?」
「え!?…そ…その声…」
その声は、聞き慣れた琥珀の声色そっくりだ。
まさかという思いで全身を見ると、間違いない。
鬼の特徴が無くなっているせいで、一瞬分からなかったが、琥珀そのものである。
「え…、あ、嘘…その姿…」
驚いていると、琥珀の大きな手が私の口を塞ぎ、叔母夫婦に向き直った。
「悪ぃな。俺の連れが
「つ…連れ…?」
さすがの
それでなくても、身体の大きな琥珀は迫力があるのだ、仕方がないだろう。
「あぁ、今こいつは俺と暮らしてる。生贄に差し出したんだ、もう死んだも同然の女だろう?帰って来いってのは、虫が良すぎるんじゃねぇか?」
その言葉に、今度は
何故なら、この村のしきたりでは婚前交渉も去ることながら、婚礼を挙げる前の男女が、一つ屋根の下で暮らす事すら許されていない。
「一緒に…暮らしてる…だって?」
「お…叔父さん!違うんです、これは…」
このままでは、いらぬ誤解を招いてしまう。
慌てて弁解しようと口を開くが、叔母夫婦の耳には届いていなかった。
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