優しき天神は生贄を欲す 其の伍《ご》
やって来たのは琥珀だった。
きっと山の中で眠っている所を降られたのだろう。頭から足元まで、ぐっしょりと濡れている。
「琥珀…!」
慌てて駆け寄ると、琥珀は大きなくしゃみをした。
「あぁー、くそ!いきなり降ってきやがって…」
「やっぱり外で眠っていたんですね。最初に廃寺で暮らしていると仰っていたのに、全然帰って来ている様子がないから気になっていたんです」
「てめえがいるのに、一緒にいられる訳がねぇだろうが」
「何故です?私と過ごすのがお嫌ですか?」
「…そういう問題か?ずっと思っちゃいたが、お前の頭の中はどうなってんだ」
「はい?」
「はい?…じゃねぇ!!俺は鬼だって言ってんだろうが!!!」
「はい、それは聞きました」
「鬼っつーのは、人間を喰って…いや、人間以外も勿論喰うが、人間を喰らうモンだ」
そこまで言うと、琥珀はぎろりと私を睨む。
だがそんな事は勿論分かっており、今更何の話なのかと首を
「…そうですね。鬼とは本来、人間を喰らう存在でありましょう」
分かっていますよ、と言わんばかりに頷くと、琥珀はいつか見た時と同じように、がくっと肩を落とした。
「…もう良い、てめえと話してると気が抜けるぜ」
何かを諦めたように私の前にどかっと座り込むと、琥珀は近くにあった手拭いで頭を拭き始める。
「そういや、随分果物を集めてやがったな。それでなくても少食のてめえが、あんなに食えんのかよ?」
「あ、いえ…。あれは…」
もともと琥珀には話そうと思っていた。
琥珀に手伝って貰えれば…いや、せめて共に村まで行き、生贄は必要ないのだと村の人達に話してくれれば、その後の事がやりやすいからだ。
だが話の取っ掛かりを探す手間が省けたと、昼間に思い付いた事を話して聞かせた私に、琥珀は目も向けずにふーんと興味なさそうにしている。
「…まぁ、金が手に入れば、美味い物がたらふく食えるな」
いくら鬼とはいえ、暮らしぶりを見ていると、近隣の農村や町を襲うわけでもなく、ひっそりと山奥で暮らしているだけだ。
特に面倒な事をせずとも、生活水準が上がるはずの今回の話は、琥珀にとっても、まさに
何故か思ったよりも反応が薄く、琥珀は私が集めてきた果物を手に取ると、パクりと一口
「ま、良いんじゃねぇか?好きにやれよ。俺には関係ねぇからな」
(もっと食いついて来ると思ったのにな…)
当てが外れてしまった。
どうしようかと手元を見つめて黙っていると、琥珀はドンっと床を叩いた。
「!?」
驚いて顔を上げると、琥珀は私に顔を寄せて、苛ついたように睨んでくる。
「え…あの…」
何か気に触る事でも言ったろうかと思案するが、琥珀は舌を鳴らして私の顔を掴んだ。
「…その顔だよ!」
「は…はひ?」
大きな手で顔を掴まれているせいで、上手く声が出せずに変な声が出てしまう。
そんな私に、喰い付く勢いで顔を寄せた琥珀は、じぃっと私を見つめてから顔を離した。
「その何かを言いたいのに、我慢してる
「あ…」
「何にそんなに気ぃ使ってんだ?言いてぇ事があんなら、はっきり言え!!苛々すんだよ、てめえのその態度!!」
「……」
微妙な間が空いてしまい、しばしの沈黙が場を支配する。
「あの…」
「あぁ!?」
怒っているのか、それともこれが素なのか。
乱暴に怒鳴ってくる琥珀に気圧されるものの、私は勇気を振り絞って口を開いた。
「あの…、一緒に村まで来ては貰えませんか?」
心臓が早鐘を打っている。
ばくばくと心臓が鳴る身体は、自分の身体ではないみたいだ。
「私は…生贄として山に来た身です。そんな私が一人で下山しては、お役目を
殺されるかも知れない。
そう続けようと思ったが、その恐ろしい言葉が出て来ない。
声に出して言ってしまったら、現実になってしまう気がするからだ。
思えば、幼い頃に両親を失ってから、人に対して自分の意思を伝えた事などなかった。
いつもいつも他人の顔色を見ながら、自分の感情や言葉を押し殺して生きて来たのだ。
ごくりと生唾を飲み込むと、黙ったまま私を見ていた琥珀がにやっと口角を上げた。
「言えんじゃねーか、自分の意思」
「…!」
「てめえ見てると、操り人形を見てるみてぇな…妙な気持ち悪さがあったんだよな」
そう言った琥珀は、大きな手で私の頭を撫でる。
「良いぜ、付き合ってやるよ。人間の集まる場所なんざ、しばらく行ってねぇからな」
「……」
琥珀に頭を撫でられると、何故か今まで感じた事がないような、不思議な気持ちになる。
私はその気持ちの正体が分からぬまま、琥珀と村へ行く事になったのだった。
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