三 目覚めと苦い思い出

「んん…」

 常盤に抱えられてる女の子がむずがるように唸った。

 しまった。話し込んでしまっていた。

 もう彼女が起きるなら、俺はいない方がいいだろう。

 気まずいったらありゃしない。

「じゃあ。また明日」

 智樹が慌てて挨拶をすれば、常盤も察したように挨拶を返してきた。

 智樹は右手を軽く上げ、帰ろうとして、忘れ物を取りにきたことを思い出し、自分の席にそっと歩み寄る。

 目を覚ました少女はぼんやりと常盤を見上げるばかりで、智樹に気づいた様子はない。

 常盤の息を潜めるような囁き声が聞こえる。

「目が覚めた?」

「大丈夫?」

「貪りすぎてごめんよ」

 智樹は自分の席からノートをとり、そっと教室を後にした。


 帰り道、智樹の耳にはいつまでも常盤の甘やかな声が残り、智樹は首を振ってその音を振り払うことになった。

 あいつ、あんな声出せるんだな。

 自転車を押しながら、智樹は坂道を下る。

 例えるなら日照りの続いた後の恵みの雨のような、穏やかに染み渡るように慈しみが染み込んでくる甘い声。

 あれで恋人じゃないってんだから、世も末だよな。

 まあ女同士だったけどさ。

 性の多様化が騒がれている令和でも、同性同士の恋愛はまだまだ難しいだろう。

 世間が厳しいというより、多数の人にとって他人事だから関心を寄せにくいのだ。

 それ考えるとあの女の子は凄いよな。常盤に告ったってことだもんな。どこで話が漏れて揶揄われるかわからないのに。

 智樹はふと思い立って感心する。同時に苦い思い出を思い出す。

 揶揄われるのが嫌なくらい本気だった子がいた。恋に恋するような淡いものだったけれど、確かにその時の自分にとっては本気だった。

 俺はホワイトデーにかこつけて、その子の家にお返しをしに行った。義理のお返しにしては大仰だったかもしれない。でも気持ちを知ってもらいたかったから。

 けれども、翌日学校に言った智樹を待っていたのは、クラスメイトからの揶揄の声だった。

 苦い思い出を再び封じ込めて、智樹は自転車に跨った。考え事をしているうちにいつのまにか坂の下についていた。

 もう常盤の声は耳に残ってはいなかった。

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