第6話 女の嫉妬は鬼より恐ろしい
「……戦鬼イオが、破れたか」
「えぇ。どうやら、帳歩を追い詰めたことで、レガの意識を覚めさせてしまったようです」
「バカな子だなぁ。大人しくしときゃあよかったもんを。お前、止めらんなかったの?」
「無茶を言わないでください。僕はあなた方と違って、ただの人間なんですから」
「つっても、お前は『あの猿』の力を使えるわけだからさぁ」
「時間と労力の無駄ですよ。仮に鎖で縛ったところで、彼女は食い千切って行動をしていたと思います」
「ったく、暴走機関車かあいつは……」
「現実問題、戦鬼イオはどうします? 救援を出すなら、準備をしますが?」
「やめとけ。どう転ぶかは知らんが、奴らも中学生で、立派な大人だ。自分の行動に責任をもたせなきゃ、成長しねーぜ」
「了解です」
「それに、歩はあの沙貴って女の子が絡めば、人が変わる。そこを刺激されれば、もしかしたらおもしれーことになっかもな」
「彼らは、互いの存在を強く認識している傾向にあるようです。いわゆる、共依存というものでしょうか?」
「コラコラ、愛の力ってんだよこーゆーのは! 結構なことじゃねえか。令和のガキにしちゃあちょっと昭和臭ぇ~ってところが、すごくいい!」
「ジェネレーションギャップには対応できないのですが?」
「厳しいねぇー。ま、とりあえずレガの方は時間を置いての交渉で良いだろ。歩のヤツ、存外、精神力がタフみてーだからな。上手くやれば、レガのコントロールだってやってのけるかも知れねーぜ?」
「油断は禁物です。どのような状況であれ、相手は最強の戦鬼です。慎重に事に当たるべきかと」
「だからこそ、お前も直にぶつかってみるんだな」
「僕が?」
「お前の特殊能力を知っているからこそ、だ。期待してるぜ? 三種の神器の内一つ、知恵の獣の能力をもったお前ならば、そう苦労はねーはずだ」
「……僕から言わせれば、帷歩の方がよっぽどわからない相手ですけどね」
――――――――――――――
~12月10日 17時10分 オリックスマンション103号室・帳家~
沙貴の指示通り、歩は伊織を背負いながら、自宅に戻った。ひとまずは近場で休ませた方が良いと言われたわけだが、歩の家が選ばれた理由は、ちょうどマンションの前で歩の母と鉢合わせたからだった。
「あらあらあら~♪ どうしましょどうしましょ~?」
小柄で年の割に若作りだと評判の歩の母は、眠る伊織と不機嫌そうに頬を膨らませる沙貴、そして左頬に大きなもみじを作った歩の気まずそうな顔を見て、一人興奮していた。
(ったく、何を期待してんだか……)
三つ編みに束ねた長い茶髪を振り回す母親の姿を見た歩は、彼女が昼ドラが大好き だということを思い出していた。
「ごめん、お母さん。ちょっと、
「うん、オッケ! じゃあ、お母さん何か甘い物でも用意するわね。疲れた時にはスイーツが良い――って、もうそろそろご飯の時間だから、そっちもがんばっちゃお~!」
「……用意すんなら薬でしょ?」
「抜かりないわ! さぁ、いくわよ~!」
空回り気味に張り切る母が台所へ向かうところを見送った後、歩は沙貴と眠り伊織と共に、自室に入る。
同時に、歩は思った。
物が少ない部屋にしておいて良かったな――と。
物欲に乏しい傾向にある歩。故に、部屋の中に物が散らばることも少ない。勉強机にベッド、少ないマンガ本やゲーム機を入れる木造の小麦色の棚。クローゼットの中には、衣類を入れるケースが入っているくらい。あえて特徴的な物を挙げるとするならば、置き所に困った木刀や竹刀といった、長い棒状の物を入れるための傘立てが、ドアの隣に置いてあるくらいだ。
そんな殺風景な自室のベッドに、歩と伊織を寝かしつけ、沙貴は伊織のバッグをベッドのそばに置いた。
「少しでも怪しい真似見せたら、通報するからね?」
「わ、わかってるよ!」
隣でスマートフォンを片手に睨みつけてくる沙貴に対し、歩は苦笑するしかなかった。道中、彼女の視線が背中にチクチクと刺さり続け、少しだけ胃が痛くなった。
すっかり誤解されているようで、沙貴の態度は完全に冷え切っている。そのせいもあり、慣れない女の子の扱いに悪戦苦闘してしまい、その手つきを「エッチ」だと言われてしまった。濡れ衣も良い所だが、反論したら論破されるのがオチなので、沈黙を貫く。
昔から、歩は沙貴に口喧嘩で勝てたことがなかった。
「じゃあ、後は伊織が起きるのを待つだけだから……」
沙貴は紫色の座布団の上で正座をし、フクロウのような目をしながら歩を見据える。小刻みに首を傾げる様は、見ていて不気味だった。
「はいソコ」
(出たよ……)
そして、同じくもう一枚の座布団に座るよう、指で示して見せた。
過去のお馴染み、そして長い間ご無沙汰だった、説教タイムの始まりだ。
「とりあえず……ぼくから話して良い?」
「ドーゾ」
げんなりとした歩は、おとなしく指示に従う。座布団の上であぐらをかきながら、頬を膨らませている沙貴を見る。
本人は決して認めないが、沙貴はええかっこしいなところがあるので、他人が見ている前ではおしとやかな優等生のような振る舞いをしている。
だが、今は勝手知ったる幼馴染と二人だけ。本性と呼ぶべき、勝気でわがままな部分を剥き出しにしている。
「え~っとね……どう話したらいいのかな?」
「がんばって頭の中、整理してね? もし、警察の人に事情聴取されることになったら、下手な言い訳なんか通用しないからね? 殴られちゃうよ?」
「だ、だから! ん、んー………………」
「ふ~ん? 無言になっちゃうようなことしちゃったりしちゃったんだぁー。へぇぇぇ~~~~~?」
沙貴の瞳の闇が濃くなった。デンプシーロールと呼ばれるボクシングの技術か、あるいはメトロノームのように上半身を揺らす様が、チキンレースでよくある、破裂寸前まで空気を入れられる風船のように、歩の恐怖心を膨れ上がらせる。
「きっと、アユくんはいじめられた時の反動が凄まじかったんだよね? それで、たまりにたまった鬱憤をたまたま近くに通りかかった伊織に向けて発散して、ついにはレイ……イヤァアアアア!」
一人勝手に妄想を暴走させた沙貴が、手で両耳を塞ぎながら顔を真っ赤にして叫ぶ。
「あ、あの、それだけは違うからね!?」
事実無根なだけに、全力で訂正に入る歩。
「じゃあなんであんなことになってたの!? おしゃぶりが必要なら買って来ればいいじゃない!」
「おしゃぶり!? 沙貴ちゃん、ぼくらの関係性を何だと思ってるの!?」
「でも、伊織は汗だらけだったし、なんかおっぱいの部分がやたら湿ってたし、大人の階段上ったみたいな色気がムンムンしてたし……!」
自分で言ってて恥ずかしかったのか、沙貴は顔を真っ赤にしながら悶える。
「さ、沙貴ちゃん? 沙貴ちゃ~ん?」
「あ、アユくん!」
「は、はい!?」
沙貴が急に声を張り上げるものだから、歩は反射的に佇まいを直す。
「これだけ言っとくね?」
「これだけって?」
「ひ……避妊は! ちゃんとしなきゃいけないんだよッ!」
「どうしてもそっち方面に落ち着かせたいのか君は!?」
「だってだってアユくんが、アユくんが悪いんだもん! 絶対そうなんだもーん!」
「うわわわ、イタタタ!」
沙貴は部屋の隅の傘立てに置かれていたピコピコハンマーを手に取り、ひたすら歩の頭を叩き続ける。沙貴が夏祭りのおみくじで当てた景品だったのだが、使わないし、かといって捨てるのも気が引けたので、歩に渡した物だった。
それがまさか、このような形で牙を向いてこようとは……。
「うっさいなぁ、もう……」
ピコハンの音で安眠妨害されたのか、伊織が呻き声を上げる。
「か、杜若さん!」
歩は血相を変えて伊織の表情を覗きこむ。
「良かった、無事だったんだね」
「と、帳……?」
伊織は瞳を揺らしながら、歩の顔を見返す。それから、彼女にとっては見覚えのない歩の部屋を眺め、困惑する。
「ここ、ドコ……?」
「ぼくの家。ごめん、君の家がどこかわからなかったから、とりあえずは近くのぼくの家で休ませようって、沙貴ちゃんがさ」
「……そっか」
伊織の視線が、歩の隣に立つ沙貴に移る。
「大丈夫、伊織? どこか、痛むところはある?」
「だいじょぶだよ、沙貴。あんがとね」
伊織は視線を逸らしながら、沙貴に礼を言う。その表情は、歩を殺そうとした人とは思えない、穏やかなものだった。
「…………」
沙貴の目が再びフクロウと化し、歩を捉える。
「沙貴ちゃん……繰り返すけど、本当に君が思うようなことは何もないからね?」
「…………」
沙貴は何も答えず、歩の勉強机に腰を下ろす。
どうしたらいいかわからなくなったので、ひとまず歩は伊織に向き直る。
「レガのことなら、心配しないで。今は、大人しくしてくれてるから」
「……そっか。やっぱり、意識を取り戻したんだ」
伊織が、警戒心を解いたのがわかった。ピリピリしていた室内が、多少穏やかなものに変化した。
「杜若さんのおかげだと思う。じゃなかったら、ぼくもレガの暴走を止められなかったかも」
「そこは……アタシのせいにしときなよ。アタシが余計なことしなきゃ、あんたは普通のままでいられたかも知れないのに」
「前のこともあるから、それはわからないけど……」
歩はあえて、お茶を濁すような発言をした。沙貴の手前、レガに操られて人を殺したなどと、口が裂けても言えなかった。
「で、でも……本当に、ごめんなさい!」
歩は勢いよく伊織に頭を下げる。
「あんなこと、やっちゃいけないってわかってるはずなのに! 君のこと……その、謝っても許されることじゃないってわかってるけど……とにかく、ごめん!」
「帳、うっさい」
伊織の返事に、歩は表情を歪めた。
報復を恐れ、顔面にびっしりと汗が張り付く。
「そんな風に謝られると、かえって傷付くんだけど?」
(……んんッ?)
ゆっくりと頭を上げながら、歩は怪訝そうに伊織を見る。
ベッド上の彼女は、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「あんた、そんなに嫌だったの?」
「嫌って、何が?」
歩は、呆気にとられた。てっきり伊織が殺しにかかってくるかもと思っていたが、逆に彼女の態度は柔らかくなっていた。
いつのまにかイスから腰を上げていた沙貴の挙動は気になるが、とりあえずは伊織の言葉を待つことにする。
「アタシの胸、気持ちよかったと思わない?」
「んぎゃッ!?」
突如、歩の側頭部にピコハンの一撃が炸裂した。いかにピコハンといえど、両手持ちのフルスイングでぶつけられれば痛い。というか、首から「グキッ!」って音が鳴った気がした。
「か、杜若さん。そ、それは、お互いあまり気にしない方がぬふっ!」
今度は、左肩に大根下ろしを食らった。ピコハンといえど、全体重を乗せられると叩きつけられれば痛い。
「なっはっは! わかってるよ、あんたに悪気はないって」
「伊織、怖がらなくていいから正直に言った方が良いよ? 慰謝料寄こせって」
「沙貴ちゃんは頼むからちょっと大人しくしてて!」
「むぅ~! わたしだって困るんだからね!!」
「ごめん、ホント勘弁して今は!」
ピコハンを握り締めながら詰め寄る沙貴を、歩は必死でなだめる。
「ま、まぁともかく! 杜若さん、体力が戻るまで休んでてよ。もうすぐ母さんが夕飯を作ってくれるはずだから。食欲は? お腹空いてるかな? 甘いもんくれるとか言ってたっけね!?」
「う、うん。まぁ……」
「良かった。それじゃあ、ぼくは母さんの方を手伝ってくるから、ちょっと沙貴ちゃんと話でもしてて――」
「あ、帳!」
「ん?」
逃げるように部屋から出ようとしたところを、伊織に呼び止められる。
「ごめん、ちょっと話があるんだけど。すぐに」
「話?」
怪訝に思う歩だったが、とりあえずはベッドのそばに近寄る。
「どうかした?」
「うん。ちょっと、レガについてさ」
口元を掛布団で隠しながら、伊織が流し目を向ける。
「レガ、か……うん、沙貴ちゃん?」
「何?」
「ちょ~っと……席を外してもらえないかな~って――」
「…………(スッ)」
「わぁぁぁ! だから警察は待ってって!」
歩は、沙貴のスマートフォンを取り出そうとする手を必死に止める。
「…………(ブンッ! ブンッ!)」
「ピコハンもちょっとよそうか!」
今度は、空いた手で沙貴の手からピコハンを奪い取り、傘立てに戻した。……この話が終わったら、こっそり捨てておくべきだろう。
「沙貴。悪いけど、ちょっと帳と二人で話をさせて?」
伊織が、申し訳なさそうに笑いながら、沙貴に懇願した。
「な、なんでよ?」
「ちょっと、真面目でデリケートな話。部外者は首突っ込まない方がタイプのヤツなんだ」
「ぶ、部外者って……わたしは、アユくんの幼馴染なんだからね!」
「わかってるよ。未来の旦那様を奪うようなこたぁしないからさ」
「ッ! ……うぅぅ……!」
真っ赤になった沙貴が、救いを求めるように歩を見る。
しかし、伊織の真剣な表情を見た歩は、浮かれそうになる気持ちを押し殺し、沙貴に両手を合わせて見せた。
「ごめん、沙貴ちゃん。杜若さんの言ったこと、本当なんだ」
「巻き込みたくないって? ……どういうことなの?」
「ごめんね。今、中途半端に話したところで、君が信じてくれるとは思えないんだ。だから……」
「わたしのこと、疑ってるの?」
「ぼくが逆の立場なら、たぶん、信じられないから……」
歩は、正直に告げた。両手を合わせ、眉をしかめながら、全身全霊で事の重大さを示して見せる。
「沙貴ちゃん。お願いだから……」
「……わかった」
しぶしぶといった様子だったが、沙貴はとりあえず頷いた。
「ごめん。いつか、ちゃんと話せるようになったら、するから」
「どーぞごゆっくり!」
「ぶっ!」
沙貴は再び傘立てからピコハンを取り、その柄の部分を歩の顔面に叩き込んだ。そして、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら部屋を出て行った。
めり込んだピコハンを引き抜いた歩は、ドアを見つめながらため息をついた。
「ふぅ……後で機嫌直してくれると良いんだけど……」
怒る沙貴の顔を思い返し、申し訳なさを感じながら、ピコハンを再度傘立てに戻した。やはり、これは捨てておくべきだろう。
「ほっときな。あんたがちょっと優しくすりゃあすぐ落ち着くって」
「そうかなぁ?」
「学校でだって、いっつもあんたとの話ばっかしてんだから。ありゃ、無自覚っつーか、素で気付いてないと思うよ。初めて直に見たけど、めっちゃ愛されてるじゃん」
「そ、そりゃ、ぼくだって……」
「おっとこれ以上はやめときな。胸焼け寸前なんだわ、マジで」
わざとらしく苦しそうに手で胸を抑える伊織。彼女のおチャラけた態度に安堵しながらも、歩は渋面を浮かべて見せる。
「でも、気を付けた方が良いよ? 沙貴ちゃんには、ここまでキミを連れてきてもらったわけだし。それに、結構首を突っ込むタイプだからさ、彼女。君、根掘り葉掘り訊かれることになると思う」
「だろうけど、シカト決めるっきゃないってのは、あんただってそう思うだろ? なんせ、戦鬼の話は今の人類にとっては未知の領域――トップシークレットって言われるくらいヤベーネタなんだからさ」
「そ、それは……うん、そうだろうけど」
少し迷ったが、歩は頷いた。
出来れば、彼女との間に隠し事はしたくなかった。ただ、伊織の語るリスクを背負わせない方がよっぽど重要だ。霧人からのいじめに巻き込まないこととは、話の次元が違う。
受け入れる必要がある。
「それより……レガはどうなった?」
「あ、うん。また奥に引っ込んだみたい」
沙貴に見つかって以後、歩は体に不調を感じなかった。レガの意識が覚醒した時は、吐き気に似た不快感を味わったのだが、今は問題なかった。
「レガのヤツ……なんだってそんな臆病になっちまったんだ? その気んなりゃあ、アタシを食い殺すなんてこたぁヨユーで出来たってのに」
「わかんないけど、簡単には動けないってことなんじゃないの? 一応、本人は僕の体を乗っ取る……みたいなことは、思ってないみたいだけど」
「そもそもそこが信用できんの? って話なんだよね。だって、レガの言うことじゃん」
「わざわざ、ぼくを生かしておく理由も無いと思うけど?」
「そりゃ、そうか」
「納得されてもねぇ……」
少しだけ虚しい結論に、歩は苦笑する。戦鬼レガという強過ぎる相手を思うが故に、説得力があると感じられたようだ。
「それより杜若さん。今さらだけど、戦鬼って何なの? ぼく、その辺の事情は全然詳しくなくてさ」
自分の中に得体の知れない化け物がいる。せめて、その正体が何なのか知らない内は、おっかなくて何も出来ない。
「専門的な話はわかんないけど、要は人間を超えた体と、妖怪みたいな特殊能力を持った人間だと思っとけばいいんじゃない?」
「人間って……とてもそうは思えないけど」
レガの腕は鋼鉄のようで、クマのように大きな体格をしている。人型ロボットと言われた方が、まだ納得できる。
「レガは特殊なケース。あれが異常なだけ。アタシとあんたの恰好見比べてみりゃあ、わかりそうなもんじゃない?」
「そう言われると、確かに……」
歩は、戦鬼イオの姿を思い返し、自分と見比べる。
見た目の違いの差異を表現することはデリケートな問題ではあるが、総括して、あの訳の分からない雷さえ見なければ、戦鬼イオが人間と言われたら信じてしまうだろう。
それを、伊織が「自分を人間と思っても良い」のだと、言外に伝えてくれていると思うのは、歩の希望的観測だろうか?
「ちなみに、アタシが知ってる限りだと、他の戦鬼も人型が多いよ」
「そうなんだ……」
「他の」と言うからには、少なからず何人かは、自分のような境遇にある人間がいるらしい。それは、未知の体験に悩む歩にとって、少なからず希望に思えた。
「ともかく、今日はゴメン。正直、あんたがレガを抑えつけられるなんて、夢にも思わなかったから」
伊織は、気まずそうに頬を掻く。やはりと言うべきか、彼女はレガが歩の身体を奪い、振りをしていると決めつけていたらしい。
「そんな、それこそ気にしないでよ。そう思われるだけのヤツなんだってことは、ぼくも身をもって思い知ってるわけだし」
でなければ、伊織ががむしゃらに襲い掛かってくるわけがない。教室で少し会話しただけの仲だが、彼女は理性的で、周りを良く見ていると思った。
決して、霧人達のように、快楽的に他人を傷つけるような者ではなかった。
「……うん」
伊織が、照れ臭そうにはにかんだ。歩もようやく安堵し、微笑む。
互いに、自分が許されたのだという認識を共有した瞬間だった。
その時、携帯の着信音が鳴り響いた。それは、伊織の体から聞こえてきた。
「あ、ちょっとゴメン」
伊織はスカートのポケットに手を突っ込み、そこから折り畳みタイプの桃色のガラケーを取り出した。それを開き、表示されたであろう画面を確認する。
伊織は、申し訳なさそうに笑った。
「ごめん、アタシもう帰るね」
伊織は少しだけ気怠そうだったが、それでもしっかりと立ち上がった。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「うん。ご飯に誘ってくれたトコ悪いんだけど、姉ちゃんから「早く帰れ」ってメールがきてたからさ。久しぶりに実家に来てるから、ちゃんと顔合わせとかないと」
伊織が、手にした携帯を指差した。
「そうなんだ、それじゃしょうがない……………………えっ?」
仲睦まじい姉妹だと微笑ましく思ったところで、歩は耳を疑った。
伊織の口ぶりだと、伊織の姉はレガに殺されたとばかり思っていたが……。
「あ、あれ? 杜若さん、お姉さんって二人いたの?」
「ん? 一人だけだけど?」
「一人?」
「うん」
「んんんんんー?」
歩は、襲われた時の会話を反芻する。
そして、気付いてしまった。
「……そういえば、杜若さん」
「何?」
「レガはお姉さんの仇だって話だけど……ぼく、何があったのか、詳細を訊いてなかったよね?」
仇とは、一般的に恨みのある相手とされる。そして、一般的な感覚としては、親しい物を殺した相手に用いる言葉だと、歩は思っている。
その上で、思い返してみる。
伊織は、姉が「死んだ」とは、明言していなかった。
「あぁ、そっか。話してなかったっけ?」
「こうなったらダイレクトに訊いちゃうけど、ズバリお姉さんは生きてますか?」
「うん、生きてる」
「おぃー!?」
歩は脱力した。と同時に、あの時の彼女の怒りの理由が、理不尽な物に思えてきた。
「……何があったのか、聞いていい?」
「急いでるから、明日でいいなら良いよ。あんたにとっても無関係じゃないし」
「……お願いね」
命を狙われた手前、問い質さずにはいられない。
ただ、彼女にも事情はあるだろうし、急ぐ話でもなさそうだから、ここは従うことにした。
「わかった。う~~~んっしょっと」
伊織は上半身を後ろにそらし、豊満な胸を張り上げた。
「う~ん! そんじゃ、帳。また明日ね!」
床に置いたバッグを拾い、伊織は玄関に向かうべく、閉じられたドアの取っ手を握る。
「大丈夫? 送ってこうか?」
「ヘーキヘーキ! アタシの強さ、よくわかってんだろ?」
「それはもう……」
間違いなく、歩が知る中では最強の中学生だ。人間ではまず勝てない。そんじょそこらの不良では、束になってかかったとしても、秒で消し炭にされるだろう。
「きれーな花にはナントヤラってね。そんじゃ♪」
伊織が部屋のドアを開けると、
「きゃっ!」
「「えっ?」」
「あ、あはは~……」
ドアの向こう側に、尻餅をついた沙貴が、廊下の壁に背をつけながら、気まずそうな笑みを浮かべていた。
どうやら、聞き耳を立てていたらしい。
「さ、沙貴ちゃん……」
「へぇ~? 沙貴ぃ、良い趣味してんじゃん?」
歩は呆れ、伊織は少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「な、なんのことだか……」
言い繕おうと頭を捻っている沙貴だったが、
「別に良いさ。どうせ、意味わかんなかったろうしさ」
伊織は余裕のある笑みを浮かべながら、玄関で革靴を履く。
「そんじゃ」
「うん、本当に気を付けてね?」
「はいよ。約束は、明日必ず守るからな」
伊織は、一瞬沙貴に視線を移し、それから歩に微笑んだ。
「また明日な、歩!」
いたずらっぽく笑いながら、伊織は歩の家を後にした。
「……ふ~ん?」
不貞腐れたように頬を膨らませた沙貴が、歩を睨む。
「ど、どしたの沙貴ちゃん? その目は、何……?」
沙貴が、横からジト目で歩を睨んでいる。
「随分仲良くなったんだね~?」
「き、聞き耳立ててたんならわかるでしょ? 少なくとも、君が考えてるようなことは何もないからさ」
「……ホントに?」
「ホントだって。ひょっとして、本気で疑ってたの?」
「うん」
「…………」
その後、母親から夕飯の用意が出来たことを告げられるまで、歩は沙貴から延々と嫌味を言い続けられるのであった。
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