第5話 赤鬼の力
~一二月一〇日一六時一五分 オリックスマンション二〇二号・織部家~
「はぁ……」
夕日に照らされ、オレンジ色一色になった部屋の中で、
まだ少し、頭がぼんやりしている。普段なら、平日のこの時間帯は部活でソフトテニスの練習をしているから、今の時間帯にこうして部屋でゴロゴロしていたことが、夢の中の出来事だと思えてしまう。現に、全身を支配する倦怠感は、完全に解消されていない。
ひとまずベッドから起き上がる。直後に、勉強机の脚に小指をぶつけてしまい、うずくまる。この時の激痛が、沙貴に今の状況が夢ではないと教えてくれた。
「まったく……なんだってのよ、今日は……?」
今日は、とにかくおかしな一日だった。
殺人事件が起きたすぐ隣で、いつも通りの日常を強いられたかと思えば、
生徒達が騒ぐのを抑えられなくなった学校側は、即座に今日の予定を午前授業に切り替え、生徒全員が帰宅させる。当然、全ての部活動は活動停止となった。沙貴は、日課であるソフトテニス部の練習に参加することなく、真っ直ぐに家路についた。
(でも、思ったよりあっけない決着だったわね)
沙貴は、今年になってから自分達に迷惑をかけつづけた転校生――蘭霧人の姿を思い出す。
口に出したら非難されるだろうが、沙貴は今回の一件――蘭霧人と彼の仲間達が大怪我を負ったことを、好意的に受け止めていた。
霧人は支配欲が強く、自分に刃向った相手は上級生だろうと一方的に殴りかかっていた。沙貴は直接的な被害を受けていないが、彼の下品な言動のネタにされ続けた生徒達の痛々しい姿は、見ていて不快だった。自らが強者だと威張り散らし、お山の大将を気取って天狗になる霧人を見る度に、「消えてほしい」と願ったものだ。
(でも……)
霧人が怪我をした理由を考えると、胸がざわついてしまう。。
「アユくん、なんかヘンだった」
今朝、幼なじみが見せた挙動を思い返し、沙貴は眉をしかめる。
ここ最近は当たり前になっていた、歩のビクビクオドオドした態度が、嘘のように見られなくなった。元々、ボーっとしていたところはあったけど、あそこまでリラックスしている姿は、もしかして初めて見たかも知れない。
そして、霧人達を蹂躙した時の、獰猛な獣のような姿。
その二面性を、例えるなら、普段は大人しいけど、怒ったら優れた体重で猛獣を撃退するカバを彷彿とさせた。
あの時は、我が事のように喜んでいた沙貴だが、今は考えを改めていた。
よく考えてみれば、歩は自分一人で考えを整理して、気持ちを立て直せるような人間ではない。それが出来るなら、そもそも今日までいじめで苦しんだりはしていないのだから。
では何故、歩は変わることが出来たのか?
(何か、あったっていうの……?)
急に不安に襲われ、沙貴は自分の体を抱いた。歩が自分の問題を自らの力で乗り越えた――それ自体は、すごく嬉しいはずなのに。
ずっとそばにあった何かが失われたような、そんな喪失感に、身を震わせる。
「……もう、しょうがないわね!」
沙貴は起き上がり、ベッドから降りた。
今日は、得体の知れない恐怖がまとわりつく日だ。
だけど、沙貴が問題視しているのは、歩のことだけだ。沙貴がいないと弱気でダメな幼馴染が暴走している。ならば、彼を良く知る沙貴としては、責任をもって止めなければならない立場にある。
あくまで、幼馴染だからだ。
決して、好きとかそういう話とは違う。
そもそも、気になるのなら、直接歩に確かめれば良いだけのことだ。歩はどんな時だって、沙貴のことを第一に考えてくれるのだから、何か気まずいことがあっても、遅かれ早かれ口を割るはずだ。
結構悩んだように思ったが、気付けばたったの二分弱。沙貴は制服姿のまま、再び外へ飛び出した。
下の階の103号室――帳家を尋ねるも、不在だった。歩は学校側から、霧人達との喧嘩について事情聴取をされている。それがまだ長引いているのかも知れない。歩の部屋は通路側にあるため、窓を凝視すれば、中の様子は漠然とでも知り得る。しかし、人の気配は感じなかった。歩の両親がいれば居場所を聞けたかも知れないが、彼の父親は仕事に出ているだろうし、母親の方は、沙貴の母も含めた、ご近所の婦人会とかでお茶をしに出ていることを思い出す。
「長引いてんのかなぁ……?」
もしかしたら、まだ学校に残っているかも知れない。学校全体を揺るがす大きな問題だったら、教師の尋問が長引いている可能性は、充分にあった。
このまま家の扉の前で待つのも変な話だと思ったので、沙貴は二度手間を覚悟で、学校に向かうことにした。既に空は暗くなり始めていたが、そんなことを言っている場合ではなかった。
~一二月一〇日・一六時三二分 満田中学校隣、有料駐車場~
「くっ!」
戦鬼イオが苦悶の声を上げた。予想だにしない反撃に遭い、焦燥感を露わにする。
「こ、こいつ……!」
イオが放った必殺の手刀は、歩の首には届かなかった。歩の左手に手首をつかまれ、攻撃を止められてしまったのだ。
瞬時に、丸太のように太く、真紅の鋼のような皮膚に変質した、歩の左腕に。
「こいつ……やっぱりレガに!」
イオは歩を睨むが、彼はまるで動じない。それどころか――
「これは……君のせいだよ……」
歩は、責めるような目でイオを見据えた。恐怖に揺れていた黒い瞳の色が、金色の輝きを放ち始める。
それは、歩が戦鬼レガの力を行使している証だった。
「レガ……やっぱり
「…………」
歩は無言で、近くに生えていた雑草を引き抜き、左手で根っこを掘り起こすように土を削り取った。
「?」
イオは、歩が何をしようとしているのか、わからなかった。一瞬、目潰しをして逃げようとしているのかと疑ったが、それはレガの力を使ってまですることではないと考えたため、すぐにその可能性を捨てる。
しかし、歩は伊織の予想を裏切り、左手にもった土を投げつけてきた。
それも、伊織の想像もしない意図をもって。
「ッ! マズイ!」
イオは反射的に、雷のエネルギーによる電磁バリアを眼前に展開した。SFに登場するような、ローレンツ力で敵弾を物理的に弾き返す技術をイオなりに再現した術で、試したことは無いがガトリング銃の弾だって平然と弾き切る自信があった障壁なのだが、レガの土は軽々とこれを破ってしまった。
イオの肉体にダメージは無いが、バリアを破壊された衝撃を受け、後方に吹っ飛ばされてしまった。幸い、道路上を沿った動きになったおかげで、周辺の住宅を損傷させることにはならなかった。もっとも、今の光景を見られていたら、見えない何かに壁を破壊されるという、オカルトな光景になるのだろうが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
レガとの力の差は、歴然としていた。向こうにしてみれば、ちょっとだけしか妖力を込めていないと思われたが、それでもレガの投げた土は、イオの最強の盾を簡単に破壊出来る程のパワーを誇ることを、身をもって思い知った。
(長引くと不利! 一撃必殺しかない!)
イオは全ての妖力を両手に注ぎ、金の光を集束させる。そして、今度は歩の喉元めがけて、左手で地獄突きを仕掛けた。その身を最強の矛に変えた特攻だったが、歩の右手に手首を掴まれた、阻止されてしまった。
しかし、これはブラフ。本命は、右手の手刀による首の切断!
イオは右手を横一閃に振り抜く――そのはずだった。
「あぅッ!」
瞬時に全身の力が抜け落ちてしまい、右手の光が霧散する。イオは立っていることさえやっとの状態になり、なんとか歩の首に右手で手刀を叩きこむも、触れただけで傷一つ付けられなかった。
(何が起きて――って、えぇ!?)
イオの疑念は、彼女の腕を包んでいたはずの金色の光が、歩の右手に流れていく様を見たことで、確信に変わる。
「こ、こいつ、アタシの力を……うっ!」
気付いた時には、もう遅くなっていた。イオは、歩の拘束から逃げられなくなっていた。
歩からの思いもよらぬ反撃に、イオは動揺を隠せない。レガに相手の妖力を吸い取る力が備わっているなんて話、聞いたことがなかったからだ。
(『連中』の情報が間違ってた? ……いや、でもあいつらは何度もレガと戦ってるって話だし)
協力者から情報によると、レガの〈
(もしかして、帳のせい? いや、そんなはずない!)
一瞬、歩の仕業かと疑うイオだったが、すぐにその考えを止める。
帳歩自身は、ただの人間のはずだ。
「逃げた方が良い……」
「えっ?」
「レガの本能が……君を殺すと叫んでる……!」
とうとう、歩の全身が、完全にレガのものに変化した。口角から唾を垂らしながら、レガはイオに顔を近づける。
(や、ヤバい!)
猛獣のようなレガの目を見たイオは、思わず背筋を凍らせる。
レガは丸太ほどもある太い左腕を使い、伊織の両手首を掴み直し、彼女の体を吊り上げた。
「くそ、何すんだ、離――きゃあ!」
イオが、突然嬌声を上げる。
レガは、右手だけを人間である歩のものに戻し、イオの豊満な胸を鷲掴みにしたのだ。
「あッ! やめ、どこ触って――あガッ!」
初めて男の手に触れられる感覚に翻弄されるイオだったが、レガの目的があくまで自分を殺すことだということを、胸骨ごと胸を握り潰そうとする握力を通じて思い知らされる。
戦鬼の体は、骨も含めて、人間よりはるかに丈夫だ。しかし、同じ戦鬼であり、かつ身体能力では圧倒的に上をいくレガに思い切り掴まれてしまえば、簡単に骨や筋肉を損傷させられるだろう。
しかし、レガの右手は、イオの体を握り潰す前に、その動きを止めた。それに伴い、レガの全身が震え出す。
「死ぬ……やめろ、アユム……! こいつはお前の敵、ダ……!」
「えっ……痛ッ!」
レガの左手が広げられ、イオは地面に落とされ、尻もちをついた。妖力を著しく削られたことで、人間態である
伊織は少し離れると、そのまま、苦悶し続けるレガ――ではなく、歩の姿を観察する。
「大丈夫……彼女は、敵じゃない……!」
歩が叫ぶと、レガの肉体が透き通るようになり、自分の身体を抑えるように抱く歩の姿が見えるようになった。
「何、言ってヤガる! こい、ツ……ハ、テキ……」
「敵討ちってことは、こっちが悪いかも知れないんだぞ……今までの奴らとは、違うから……抑えて、レガ!」
「バカ、ヤロウ……!」
何度も何度も震えて、やがて歩は倒れた。それに伴い、半透明だったレガの肉体は、完全に見えなくなる。
「と、帳……」
伊織は、歩が元に戻ったことを認めた。そのことに戸惑うも、意識を保っていられず、自身も前のめりに倒れてしまい、意識を失った。
◇◆◇◆
一分後。先に目を覚ましたのは、歩だった。
「はぁッ! はぁ、はぁ……」
荒い呼吸を繰り返しながら、歩は自分の手の平を見つめる。レガの衝動に突き動かされている間の記憶を、歩ははっきり覚えていた。
「さ、最低だ~……!」
歩は泣きそうな顔のまま、気絶した伊織のそばで膝をついた。
姉の仇として狙われているらしいのに、返り討ちにしてしまった。それだけでなく、痴漢行為までしでかしている。これでは、今まで以上に伊織の歩への憎しみは膨れ上がることだろう。
主に痴漢行為のせいで、歩は今までとは別の意味で死にたくなってきた。しかし、最低限の責任は取らねばならない。
歩は、男の責任――ではなく、あくまで救急の為、伊織の口元に手を持っていく。
掌を通じて、伊織の呼吸を感じた。
「……うん。良かった、生きてるね」
伊織の全身は汗でびしょ濡れになっているが、胸は呼吸する度に上下している。命に別状は無いと判断して、良さそうだ。
問題が無ければ、傷ついた彼女を介抱するために動く必要がある。
それにしても――と、歩は思った。
(戦鬼か……思った以上に、キレやすいっぽいね)
レガの衝動――というより防衛本能は、歩の想定よりずっと強力だった。下手にワガママをするのではなく、歩の生存本能をも利用するような動きを取るものだから、真っ向から否定し切れる感情でもないため、止めるのが難しい。レガを止めたいのならば、心の底から自分への殺意を抱かなくてはならないだろう。それは、簡単に出来ることではなかった。
「うぅん……」
「あ、いけね」
伊織の唸り声をきっかけに、まずは彼女を安全な場所で休ませようと動き出す。
「相当疲れさせちゃったね、ごめん」
一言、謝らなくては気が済まなかった。歩は伊織の上半身を抱き上げ、そのまま背負おうとする。お姫様抱っこでも出来れば一番良いのかも知れないが、歩の素の身体能力では、両腕だけで彼女の身体を持ち上げることは出来ない。
「うわわわっ!」
しかし、歩自身も消耗していたこともあり、頭一個分身長が高い伊織の体を支えきれず、前のめりに倒れてしまった。
「ご、ごめん杜若さん。痛かった、よね……?」
しかし、伊織は目を覚まさなかった。腕に多少の擦り傷は出来てしまったが、他は歩がクッションになったようだ。
思った以上に、消耗が激しいらしい。怪我をしても目が覚めないのは、医療に明るくない歩の目から見ても、危険な状態に思えた。
あぐらをかいて座る歩は、伊織の頭を膝の上に置き、寝かせつける。そのまま上着のポケットからスマホを取り出そうとしたが、すぐに手を止めた。
伊織の正体は、戦鬼という未知の生命体だった。もし今、安易に救急車を呼んで、搬送先の病院で戦鬼の存在が発覚・問題視されたら、社会全体を揺るがす事態になるだろう。そうなると、伊織の今後に悪影響を及ぼすだけでなく、他の戦鬼を捜索する動きが出てくるだろう。そうなると、歩が目を付けられるばかりか、身の回りの人達にまで迷惑が及ぶだろう。そう思うと、安易に119番をコールすることは躊躇われた。
伊織にしたって、こうしてわざわざ人間のふりをしてまで中学校に通っているのには、理由があるはずだ。それを邪魔して、余計に恨まれるようなことになるのは、御免被りたい――というのが、歩の本音だった。
「どうしようか……?」
歩は悩んだ。ただでさえ傷付いている伊織に、これ以上つまらない追い打ちをかけず、助ける方法を考える。
しかし、この時点で歩は間違いを犯していた。
――今、心配するべきは、伊織のことだけではなかった。
「アユ……くん?」
「えっ――」
背中越しに聞こえてくる、聞き覚えのある声に、歩は背筋を凍らせた。
ゆっくりと、ゆ~っくりと、背後を振り向く。
「さ、沙貴、ちゃん……?」
そこには、不自然な程に無表情な織部沙貴の姿があった。心なしか、瞳の黒がいつも以上に大きく、そして渦巻いているように見える。
冷静に自分を客観視し――そして気付かされた。
気絶した女の子を抱きしめている自分の姿勢は、他者の目にはどう映るものか?
「……何、してるの?」
「え~っと……」
あまりの気まずさに、歩は声を上げることが出来なかった。沙貴の無言のプレッシャーに気圧され、冷や汗を流し続ける。
(ひょっとしてぼく……変質者?)
学校の敷地を示す金網フェンスに貼られた、普段は気に留めない『チカン注意!』の看板に視線を移した歩は、胃がキリキリと痛み出すのを自覚する。
努めて冷静に、歩は沙貴の立場になって考える。
今、自分は沙貴に背を向けている。
あぐらをかいて座っている。
立っている沙貴の目線からは、伊織の顔は自分の腰辺りで隠れていることだろう。そして、示し合わせたかのように、伊織の体はうつ伏せの状態になっていた。頭部以外は、沙貴の位置からでも確認できるだろう。
つまり、この姿勢……、
(もう、警察には会いたくない……)
肩に置かれる、柔らかい手。振り向くと、沙貴が仁王立ちしながら、歩を見下ろしていた。
にこやかな笑みを浮かべ、青筋を立てながら。
沙貴が、右手を振り上げる。レガの力の影響とは違う理由で、歩の目には、彼女の動作がスローに見えた。
夕暮れ時の都会に、「パシーン!」と乾いた音が響いた。
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