第5話


「えっ? 人が虫に?!」


 居間に通され、冷や麦茶を飲みながら私が一通り話し終えると、咲奈は素っ頓狂な声を上げた。


「じゃあ、お父さんとお母さんも?」

「恐らく……」


 その顔を見ることが出来ず、私はグラスの結露を見詰めたまま、僅かに頷く。

 咲奈は何も言わないままグラスを置いて、立ち上がって居間を出て行った。


 ──これから私達はどうすれば良いのだろう。

 遠く離れた所に行けば、まだヒトは居るのだろうか。


 独り残された私の思考を、大音量の虫の合唱が阻害する。軒先の風鈴が、涼やかな音を立てている──。


「いやー、参った参った」


 そんな居間に、咲奈が気の抜けた声を出しながら戻ってきた。


「ってことは、やっぱり?」

「うん。両親の部屋で、2匹のトンボが連なってた」

「……それって……」

「へへへ。道理で車が残ってるわけだよ」


 私が顔を上げると、咲奈は頬を掻きながら元居た私の対面に腰を下ろした。

 咲奈の両親も、矢張り虫──2人とも蜻蛉トンボ──になっていた。その2匹の体勢は、今は一旦置いておこう。

 

「これから、どうしよう……」


 乾いた喉を潤す為にお茶の残っているグラスを持とうとしたけれど、両手が震えて上手く持ち上げられない。

 ……と、そんな私の手が不意に優しい温もりに包まれ、震えが収まってきた。


「今は、私達2人だけ。誰の目も気にしなくて良いんだよね!」


 咲奈の手に、ぎゅっと力が籠もる。

 そして咲奈は手を離すと躙り下がり、こっちを見て微笑みながら、テーブルの下から現れた自分の太股をパンパンと叩いた。


「おいで」


 グラスの麦茶を一息にあおった私は、恰も磁石に吸い寄せられる様にスススと咲奈の横に行き、頭をその太股に、横になった。


「えへへへ」


 頭上から、咲奈のはにかむ声が聴こえてくる。

 如何な状況であれ、この誘惑に、抗える者が居ようか。


 咲奈の手がゆっくりと、私の上を撫でる。


「ねえ、咲良ちゃん」

「……ん?」


 どれだけ経った頃か、おもむろに名前を呼ばれ、気の抜けた返事を返してしまう。

 急激な環境の変化に毛羽立っていた私の心は、いつの間にか凪いでいた様だ。このまま眠れそう。


「これからどうするにしてもさ」

「んー?」

「まずは、昨日学校に置いてきた自転車、取りに行かない?」

「そうね──」

「それで、鶴間つるま図書館に行って、色々調べてみない? あそこなら大きいから、何か分かるかも知れないし──」


 子守唄の様に聴こえる咲奈の声が、段々遠くなっていく。

 まどろみの中で微かに、咲奈の笑い声を聴いた気がした──。

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