白戸夕里②
広い浴槽の反対側で、楽しそうに入浴している女子数名が視界に入る。
見覚えのない顔ぶれだった。
記憶力には自信がある。一度でも話しかけられていれば、名前までとはいかなくても、薄ら覚えているはずだ。クラスが別で、今まで関わりもなかったのだろう。
会話が自然と耳に入ってきた。やり取りをつい目で追ってしまう。
屈託なく笑い合って、じゃれている。風呂場と言うこともあって、全員が素肌を見せていた。肌を合わせるようなことまでしていて、あまり友達らしい友達もいなかった彼女は、見てはいけないものを見てしまったように思う。
茹だる以外で、顔が少し赤くなった。
女子同士の戯れだ。
今までにも学校で、似た類のものを目撃したことはあったはずである。
ただ、白戸夕里は違った。
小学生の彼女は周囲に馴染めず浮いていた。中学生になってからは、その能力や外見から良い意味で距離を取られていた。
だから友達らしい友達もいなかったし、彼女に気安く戯れを図る者もいなかった。
純粋に仲の良いであろう彼女たちが微笑ましく、なによりもうらやましいと感じる。
自分も誰かとあんな風に――。
そうだ。最初は、ただ友達がほしいだけだった。
小学生のあのとき、誰よりも必死にがんばっていたのは、それだけの理由だった。
今の彼女の周りには、たくさん人が居る。けれどやはり、彼女が望んだ友達ではなかった。
高校で再会した彼女には以前のように親しげな友人がいて、自分にはいない。
なにがいけないんだ。自分と他の友達のいる人間との違いはなんだ。
『
『あはは、わかる?』
『……食い過ぎじゃないか?』
『ちょっと太ったみたいな言い方やめてよ! うらやましいんでしょー? 触りたいんでしょ、このわたしの胸をっ』
千冬と呼ばれた女子が無邪気に笑うと、横の一人が無表情でそのまま胸を触った。
衝撃的だった。
肩や腕ならともかく、明確な合意もなく胸を触るという行為は犯罪である。いや、肩や腕だって場合によってはセクシャリティの問題になる。ただ仲のいい友人同士てあれば、互いの信頼関係の上で許されることもある。
しかし、胸は違う。
白戸夕里も、友達はいない。だがもし友達がいたとして考えれば、腕や肩を触られるのは許せる。けれど、胸は嫌だ。
服の上からでも、気分が良くない。同性相手でも、やはり拒むだろう。
ふと葉寺夜澄を思い返す。彼女の格好は小学生のころよりもだいぶ派手になっていた。そういう子たちは貞操観念が薄く、もしかしたら胸を触り合うような行為も日常的にしているのかもしれない。あの女なら、男の一人や二人いるだろうし、友人同士でそういったこともしているのではないだろうか。
では、今目の前に居る彼女たちもそうなのか。
あまりそうは見えない。ただ浴室で、化粧を落としているからという可能性もある。
『ふわふわっじゃん。えっ、なんか私のと違うんだけど』
『ふふふふっ、恐れ入ったかな?』
『えいっ』
『つねるのはダメでしょ!?』
『いや、恐れおののいてつい……』
わからない。白戸夕里もあまり人を見る目には自信がなかった。
けれど、彼女たちに嫌悪感はない。いやむしろ――、先ほどから自然と目が向かってしまう。千冬という女の子に。
さっきからの会話の通り、胸が大きい子だ。
顔も可愛らしい。胸に反して少し幼さを感じさせるが、そこになにか背徳的なものすら感じた。
見ているだけで、その大きな胸がいかにやわらかいのか伝わってきそうだ。
実際に触ってみたらどれほどすごいのだろうか。
自分でも、おかしなことを考えているのはわかった。でも目が離せない。
胸に、そんなに興味があるのか。いや、違うと思う。
『散々もまれたし、今度はわたしがみんなの胸を……』
『この世は弱肉強食だぞ、千冬』
『その胸は一方的にもまれるべき胸だ』
『黙ってもっと胸をもませろいっ!』
数人から囲われ、抵抗むなしく胸をもまれ続ける彼女の、その反応が――ずっと渇いていた白戸夕里の奥底にぐっとなにかを抱かせたのだ。
嫌がっているが、本気で拒んでいるわけではない。
『ちょっと、やめてやめて! ほら、騒ぎするぎると他のみんなに迷惑だからっ』
一見して常識的なことを口にするけれど、胸をもまれることへの抵抗感はさほどなく、しかし顔をしっかりと赤らめて羞恥心はあるようだった。
千冬という子が、あまりにも素を隠していないように見えたのだと思う。
だから、そんなにも胸をもまれる彼女に興味を持ってしまったのだ。
白戸夕里は、自分がそうであるように、ずっとなにか建前や見栄みたいなものがこの世界にはあると思っていた。
だから一度でも評価やイメージが固まってしまえば、その後も周囲はそのように扱う。
あの人はああだから。この人はこうだから。
目の前の自分を誰も見ていない気がしていた。
だけど、千冬という女の子はどうだ。
あまりにも無防備で、あまりにもそのままである。
彼女と話してみたい。彼女と友達になりたい。それどころか、――胸をもんでみたいと思った。
しかし胸をもむという行為、これは白戸夕里に取って友人同士で行っていいことではない。友人に抱く気持ちではない。
考える。つまりこれは、好意なのだと。
一目惚れだったのだと、理解する。
なんの取り繕いもなく、ただ友人に胸をもまれて為す術もない千冬という女の子を――まだ会話したこともないというのに、どうやら好きになってしまった。
白戸夕里は行動力があった。
今まで築き上げてきた努力と成功の実績で十分な自信もあった。
次に、偶然彼女と――千冬と再会したとき、白戸夕里は直ぐに行動に移した。
気持ちを伝えた。なるべく正直に伝えた。
けれどほとんど初対面の相手だ。友人同士では抵抗しなかった彼女でも、自分のことは拒むかも知れない。
自然と、膝を床についていた。頭をさげる。
土下座だった。
自分でも少し異常だと思った。でも千冬の前では、まるで学校で今まで振る舞ってきた姿と全く違う、本当に自分の感情に正直な言葉が出て来た。体も本能のままに動いた。
止められるか、心配になるくらいだ。
千冬が胸をもんでいいと許してくれる。
多少言葉で言い負かした気持ちもあるけれど、そうやって簡単に言いくるめられる彼女がとても可愛らしい。
どうにかなってしまいそうだった。まさか胸をもめるなんて。
このままではおかしくなってしまいそうだ。
その予感は当たり、歯止めの利かなくなった白戸夕里に対して――千冬は口づけをした。
乱暴に止めてくれて構わない、そう告げていたはずなのに。約束を守らず、彼女の胸を好き放題したのは、白戸夕里なのに。
それでも千冬は、優しく、愛のある行為で彼女を止めた。
そんな千冬を、好きだと思う気持ちは、もう抑えられなくなっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
白戸夕里と千冬の関係性は、修学旅行の後も続いた。
友人として、新しく始めることができたのだ。
願ってもないことに、白戸夕里が喜んだのもつかの間。葉寺夜澄が自分たちの間に割って入ってきた。もうずっと前のことなのに彼女への恨みは晴れていない。なによりすっかり貞操観念を忘れた彼女に、純情な千冬と関わって欲しくなかった。
拒んで、嫌って、追い払おうとするけれども、千冬と葉寺夜澄はどんどん仲良くなっていった。
自分よりも、親しげに見えさえもする。
そんなことはない。葉寺夜澄が千冬の胸をもんだことはないはずだ。口づけだってしていない。そう言い聞かせて、耐える。耐えるけれど、また別のことが怖くなった。
少し前までは、小学生の自分のことを葉寺夜澄が言いふらしても構わないと思っていた。しかし、それを千冬に知られることは、避けたい。
千冬がどう思うかはわからない。多分、嫌うことはないと思う。それでも、あの頃の自分は誰からも好かれていなかった。
結果的に、ほとんど自分が原因で、千冬にすべてを知られてしまう。
葉寺夜澄との言い合いも激しくなり、収拾がつかない状況だった。白戸夕里も、自分が悪いとわかっていた。おかしい、千冬の前ではどうも理性的になれない。
やはり、彼女は自分に取って特別だった。それなのに、どうしてこんな好き勝手振る舞ってしまうのか。好きな人間の前なのに、嫌われてしまうようなことをしてしまうのか。他の人にはこんな自分を見せることなんてないのに。
千冬は、怒った。白戸夕里を怒った。
それから、葉寺夜澄に謝らせた。白戸夕里とのわだかまりを清算させた。
白戸夕里自身ですら、客観的にどれほど葉寺夜澄に非があったのかはわからない。当事者であり、恨んでいる。葉寺夜澄が嫌な人間に見えて仕方ない。
けれど、自分が実際されたことをただ事実としてあげつらえば、それはたいしたものではない。
けれども千冬は、白戸夕里の感情だけを
もう上限に来ていると思っていた好意が、感情がまた強くなる。
千冬が自分のことを考えてくれている。それがなにより嬉しかった。
けれども、千冬と葉寺夜澄の仲もまた深まっていた。
先日の騒動もあったから、口には出さなかったけれど、白戸夕里は千冬と二人きりになっている間も、葉寺夜澄の気配を感じるようだった。
憎々しい。しかし、以前ように過去のことで恨んでいる気持ちはもうなかった。
それなのに、前よりも憎々しい。
わかっている。葉寺夜澄はそんなに悪い人間ではない。彼女が自分と仲良くなろうとしてくれていたことだって、わかっている。あれは嫌みの類いでなかった。
もしかしたら、彼女とは友達になれるかもしれない。
彼女とは。
千冬とは、違う。やはり、友人に向ける感情と、千冬に向ける思いは違う。
そうであれば、千冬との関係がもう一歩進めば、葉寺夜澄と仲良くできるようになるかもしれない。そうだ、葉寺夜澄がもう自分と千冬の関係を邪魔しないとはっきりすればいい。
千冬との関係が、今のように不安定なものでなければ。
ただの友達。
おそらく千冬はそう思っている。しかし関係性というのはお互いの気持ち次第で日々変化する。一方だけが友人と思っていても、もう一方が無関心であれば、その関係は破綻するかもしれないし、もしかしたら本当に友人同士になるかもしれない。
だから白戸夕里はあえて、千冬に対して友人に向けるべき感情ない好意を強く持ち続けた。自分の強い気持ちが千冬の気持ちを引き寄せると信じていた。
『お泊まり会……したいです』
千冬が恩を抱いていることにつけ込んで、白戸夕里は提案した。
関係性を進めるために、今も横にいる葉寺夜澄をもう気にしなくてもいいように。
しかし、焦っていたのも事実だ。千冬への純粋な好意だけでなく、葉寺夜澄を警戒する気持ちが、今まで以上に彼女を早まらせた。
結果は失敗し、三人でのお泊まり会となってしまう。
それでも悪くはない。葉寺夜澄とだって、仲良くなりたいと、少しくらいは思っている。
『あたしも、千冬が好きだ。だら夕里と同じだろ』
葉寺夜澄の言葉が、すべてを崩した。
許せないと思った。しかし、千冬をつれて逃げる彼女の背が消えて、騒ぎの中に取り残されて、我に返ってしまう。
自分は千冬がハッキリと拒絶しないことに、今までどれだけのことをしてきただろうか。
葉寺夜澄は言葉を選んでいた。
それでも、彼女が『千冬の嫌がることをするな』と白戸夕里に注意していたのは明らかだ。
関係ない。千冬に拒まれたわけでもない。
しかし、白戸夕里が好きになった千冬は、嫌なことでも拒みきれないからこそ、押しに弱いからこその彼女ではなかったろうか。
自分は、そんな彼女につけ込んで、これまで散々どれだけのことを――。
後悔した。千冬は嫌がっていないかも知れない。でもそれは合意ではない。歓迎はされていなかった。
拒絶しない彼女は、白戸夕里がしてきた身勝手な振る舞いに罰を下すこともない。
それが、なにより罪を感じた。
千冬が、拒絶しないのであれば、嫌わないのであれば――自分が彼女を拒むしかない。
けれども、そんなことはできなかった。
白戸夕里に取って、彼女への好意はもうどうにもなからなかった。そうであれば、千冬でも彼女を嫌悪するように振る舞うしかない。それならできる。少し自分でもはばかられるような求愛行動をすればいい。恥は感じる者の、彼女を嫌うフリよりはよほど楽だった。
その結果か、千冬に呼び出された。
今度こそ、拒絶される。もう友達でもないと言われる。
その後、千冬は葉寺夜澄と付き合うかもしれない。泣きたくなるくらい嫌だ。葉寺夜澄となんて仲直りしなければよかった。あんなやつとはやっぱり友達になれない。
そう思ったけれど、葉寺夜澄なら千冬を幸せにできるとも考えた。
なにより、千冬に無理矢理迫るようなことはしないだろう。想像していたよりも貞操観念はまだしっかりしているらしい。少なくとも自分よりは。
最後通告と思っていたのに、千冬は思ってもみなかったことを口にした。
『……白戸さんはわたしのこと、どうして好きになったの?』
わかった。
千冬はまだ、あれだけのことがあっても、白戸夕里を受け入れる理由を探している。
許して、友人であり続けようとしてくれている。
自分が好きになった人を、また愛おしく思う。
けれど、受け入れられてはいけない。許されてはいけない。友人ではもういられない。
白戸夕里は、ほんのわずかな間、逡巡した。
千冬との幸せだった時間を思い返して、刹那だけ後ろ髪を引かれた。
けれど、また自分は千冬相手に好き放題するだろう。ダメなのだ。
「千冬さんを好きになった理由なんて、胸に決まっているじゃないですか。胸ですよ、千冬さんの大きい胸です。それ以外ありません」
悲しいことに、大して嘘でもなかった。
最低な自分を正直に告白した。嫌って、終わらせてくれと願った。
―――――――――――――――
シリアスな感じで続いてますが、ラスト1-2話でコミカルハッピーエンドになる予定なので最後まで読んでいただけますと幸いです。
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