白戸夕里①

 白戸夕里しらと ゆうりは、少しだけ口下手で、少しだけ空気が読めなかった。

 小学生というのは一見無秩序で本当的な生き物であるけれども、それでいて実際のところ非常に統制の敷かれたコミュニティを形成する。


 道徳感情よりも、本能的な好奇心や集団意識が勝っているからだろう。と彼女は今にして振り返る。


 当時は、そんなことを理解できなかった。

 自分も数学のテストで良い点を取れば、クラスメイトの葉寺夜澄はでら よすみみたいに周囲から賞賛を受ける。そう信じていた。

 幼稚園のときは、彼女だって自分とたいして変わらない、普通の子だった。だから自分もすこし頑張れば――。


 そして、クラスメイトたちを驚かせるつもりだった。


『夕里ちゃん、すごいね! 頭良いんだね』

『今度勉強教えてよ』

『ね、土曜日、お母さんがケーキ焼いてくれるっていうんだけど、夕里ちゃんも遊びに来ない?』


 寝る間も惜しんで勉強した。リコーダーの練習だってした。

 結果だって悪くなかった。今までで一番、先生からも褒められた。


 それでもみんなは、


『夜澄ちゃんまた百点なの、すごーい』

『本当になんでもできるよね』

『お母さんがいつも夜澄ちゃん見習ってがんばれって言うんだよ、もーっ』


 彼女のことなんて見向きもしなかった。

 負けているからだ。次こそは勝って、そしたら――。


『夕里ちゃんさ、もしかして夜澄ちゃんと張り合おうとしてない?』

『え、本気?』

『嘘だー。夜澄ちゃんに勝てるわけないじゃん』


 今回は社会のテストが百点だった。葉寺夜澄にも勝っている。

 他のテストの点数だって彼らよりもずっと上なはずだ。それなのに、なんで。


『無理だって』

『調子乗ってるんじゃないの?』


 言い返した。本当は、クラスのみんなと仲良くなりたくてがんばっていたのに。

 うるさい。あなたたちよりはずっと頭がいい。


『夕里、勝ち負けとかどうでもいいって。な? 仲良くやろう』


 一番腹立たしかったのが、葉寺夜澄だ。

 いつものリーダー面で仲裁に入ってきた。彼女の人気を奪うつもりでいるのに、まるでこちらのことなんて意に介していない。

 そうであっても彼女が根っからの善人やお人好しだったのなら、その生ぬるい甘さを受け入れていたかもしれない。


『なんでそんなムキになってんだよ、ウケる』


 違う。明らかに自分が上だという余裕からだ。小馬鹿にしている。他の連中よりも悪質なくらいだ。


『じゃあ、次、体育でも勝負するか? な、夕里?』


 白戸夕里がまだ運動は苦手なままだと知っているから、彼女はニヘラ笑いで勝負を挑んだのだろう。口惜しかった。

 万が一にも勝ったとして、彼女はクラスメイトたちから同情され、『運が悪かっただけだよ』『体調悪かったんじゃない?』『夕里ちゃん、マジになりすぎでしょ』と擁護されるだろう。

 逆に負ければ、いつにもまして小馬鹿にされる。


 勝負なんて、もう成立していない。

 だけど、逃げたくない。


 けれども結局、白戸夕里が安息を得たのは、中学に進学して葉寺夜澄と顔を合わせなくなってからだった。


 長年、どうがんばっても評価なんてされないとわかっていても、それでも自分を磨いてきた彼女は――やっと、周囲から認められるようになった。


 やった。やっとだ。

 最初は喜んだ。努力が実を結んだ。だけど、直ぐにむなしくなった。


 気づいたとき、彼女はもう学校で一番可愛くて勉強もなんでもできる白戸夕里になっていた。何か少し間違えても、テストの点数が一番でなくても、彼女を褒める声が小さくなることなんてない。

 一度認められてしまうと、今度はもう自分がどうがんばるかなんて、誰も見なくなる。

 認められているのは白戸夕里で、彼女自身のがんばりなんて、もう誰も興味がない。


 そう思ってしまうと、無性にやるせなかった。

 もうがんばらなくていい。気楽にやればいい。葉寺夜澄のように、クラスのリーダー面でヘラヘラと調子に乗っていればいいんじゃないか。


 高校に入って、また変わろうと思った。目立たず、普通に友達をつくりたい。

 そのつもりだったのに、入学式に彼女を見つけてしまった。


 葉寺夜澄だ。

 彼女に、彼女の取り巻きであるクラスメイトたちから受けた仕打ちは忘れていない。あれだけ、自分も同じように人気者となったとしても、決してあの記憶が薄れることはなかった。


 今度こそ、彼女から人気者の座を奪ってやる。

 そう思って、また中学のときと同じことをしてしまった。


 成績では学年一位、少し校内を歩くだけで視線を集めるほどにもなり――、


『あれ、夕里じゃん。なんだ、同じ高校だったのかよ』

『……そう、ですけど』

『へぇ、知らなかった。夕里は気づいてたのか? 声かけろって』


 葉寺夜澄は小学校の時と変わっていなかった。

 こちらのことなんて、まるで気に留めていない。


『えーヨスミン、白戸さんと知り合いなの? 笑う、めっちゃお嬢様じゃん、なんでヨスミンの友達にこんな美少女いるの』

『お嬢様? 美少女? あー……』


 彼女が何度かまばたきして、はっとなる。

 白戸夕里だって、自分の姿がどう変わったのかは自覚している。過去の自分の姿がどのようなものだったのかも。だから中学に入る前、辛い思いで減量した。今もその食生活、運動週間を続けているくらいだ。


『ま、なんつーの? 幼馴染みみたいな?』

『まじ、こんな可愛い子と幼馴染みとか超ラッキーじゃん』

『あはは、まーな。夕里、なにかの縁だし、また遊ぼう


 また?

 小学校自体、一緒に遊んだことなんてない。

 それに、なんでまだ余裕の態度なんだ。もう成績だって、周囲からの評価だって勝っている。過去の自分を知っているからか。

 内心では、まだ馬鹿にしているのか。

 なにか言ってやろうか。でも怒らして過去の自分を言いふらされる可能性もある。別に構わない。所詮、今の自分にある評価だって、上っ面のものだ。誰にどう思われても、関係ない気がした。

 しかし、余計なこともしたくない。なにより、関わりたくない。


 その日から、校内では彼女を避けるようにした。

 また、勝負なんて成立していなかったと思い知らされたようで、なによりも敗北感を覚えた。


 惰性のように、努力は怠らなかった。

 矛盾しているようだけれど、一度始めたことをやめるのもきっかけがないと難しい。

 多分、葉寺夜澄との再会で、また小学校時代の自分に戻るのも怖くなったのだろう。


 相変わらず、人気者だった。けれど、日に日に色あせていくようだった。

 息苦しく、高校生活でもメインイベントになる修学旅行もまるで楽しめなかった。ずっとクラスメイトたちと一緒の空間にいるのも疲れる。

 いつも自分の周りには誰かがいる。でも友達と言えるような相手はいない。


 お風呂には、適当な理由をつけて一人で入った。

 ゆっくり、湯船につかりたかった。


 ――そこで、白戸夕里は出会ったのだ。

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