たとえばオジサン

@takurada00cat

第1話 鉄塔

バスを降りて、傘をさす。

運動公園前のバス停の歩道は広く、舗装もしっかりとされていて水たまりで靴を濡らす心配もない。

7月だが湿度が高くないのか、今日は不快感が少ない。

ここで降りる乗客は僕ひとりだったようで、バスは扉を閉めるとすぐに出発した。

傘の外からふわりと風が吹くと、腹、肩、顔とところ構わずしっとりと濡れた。


「なにもこんな日に市民プールに出かけなくても良かったよな」


建物に向かってとぼとぼ歩きながらそうこぼす。

宗太と約束をしたのはつい2日前。

連日鬱陶しい暑さが続き、バテていたことと、2人とも奇跡的に課題が終わっていたこともあって、プールに遊びにいくことにしたのだ。

屋内プールだから天気なんて気にしてはいなかったが、家から市民プールまではバスを使うくらいは遠い。

建物とバス停とのあいだの行き来は外を歩くことになるから、ちょっと気が滅入る。

加えて、家からここまでのバスは本数が無い。

午前中は開館時間の1時間前に着く、今し方降りたバスだけだった。


「いくらなんでも早すぎたか」


別にプールが楽しみでないわけではないが、なんだろう、気分が。

正面玄関に向かうともちろんそこには「閉館中」の札があった。

あと1時間ここで傘をさしっぱなしにして待つのも、なんだか虚しい気がしてきた。

見回すと、2階に向かう階段が正面玄関の左右から続いていた。


「まあ、いいか」


市民プールと呼ばれてはいるが、国際大会も開かれるスイミングアリーナだ。ご立派に玄関上部にはカタカナの看板も出ている。

外向きに出っ張った2階入口は応援席へと続くらしく、「プール利用者は一階正面玄関からお入りください」とある。

この小さな屋根のおかげで2階入口前の床は濡れずに済んでいた。しばらくはここで時間を潰すことにしよう。


傘を閉じ、荷物をおろす。

遠くには山々、送電線とばか高い鉄塔がいくつか並んでいるのが見える。

市街地から外れているため、目に映る光景はのどかなものだ。

おかげで、より一層なぜ今日に限ってここにいるのだろうという気持ちが強くなる。


「たとえばどうだ、あの鉄塔が巨大なロボットでな、送電線がその腕だ。」


視界の左端からその声がやってきた。

知っているが、知らないオジサンの声。

唐突さにどきりとするが、オジサンは構わず続ける。


「あそこから腕を振るったら、送電線がこっちまで届くだろう。そうしたら君はどうやって避けようと思う?」


届くのか?

結構な距離があるけれど。

碍子がいし部分がびよーんと突っ込んでくるとして、ここに到達するときには直線的になるのかな。あの遠さからだから、結構なスピードと威力になるだろう、左右に飛び退けばあるいは


「ちなみに連続で何回もだ。ここは蜂の巣にされる。避けるのは至難だろう。」


どれだけ速く動くことが想定されているんだろう。

ロボット鉄塔ってのは上体のひねりがスムーズなのだろうか。

そもそも、この距離を届かせられるのに避けられないくらい速く送電線が行き来していたら、その動きの衝撃波の方が凄そうだけれど。


「というか、いきなりなんですか?なんで送電線の話になるんですか?」

「これは鉄塔の話だ。送電線はその腕であるから、そちらはおまけなんだよ。今君は暇だろう?」


いつも思うが、このオジサンは唐突でいて、さらに失礼だ。


『たとえばオジサン』


僕はそう呼んでいる。

誰なのかを知らない。何の用なのかを知らない。

この人について何も知らないが、突然やってきては、たとえばどうだと切り出して、何の話かわからないことを話し始める。

そんなオジサン。


「ちなみに、送電線は腕としてこちらの鉄塔に取られてしまうわけだから、あちらの鉄塔はただの塔になるわけだ。あんなところでぽつんと、寂しそうだと思うね。」

「立っていることがあらかたの仕事なんですから、寂しいとかはないんじゃないですか?大丈夫ですよ。」


訳のわからない問いを受けると、自分も整理をつけられないまま答えてしまう。

鉄塔の仕事がなくなって寂しい感情を抱えるなんて、考えたこともない。何をして『大丈夫』なのだろうか。


「そして、先ほどの腕による攻撃の話はどうだ。何か良い解決方法はあるかな。」

「避けられないなら届かないところまで退がるとか、何かとてつもなく丈夫で固いもので守るとかすればいいんじゃないですか?」


あの鉄塔がロボットにはならないし、腕も振るわないから、そんなこと考える必要もないんだけれどな。

赤と白の建造物を眺めそう思う。

大きく、背が高いがそれだけだ。建造物は動かない。

都道府県庁が変形して闘っている話が聞かれないことを見るに明らかだ。

現実ってのはそんなにユーモアはなく、明るくもない。

「オジサンは、」


その時点でオジサンの姿が見えないことに気がついた。

またいつのまにか、いなくなったらしい。

本当に何なんだろうか、あの人は。人かも怪しいが。


腕時計を見るとそろそろプールの開館時間だった。

荷物を取りあげ、階段へ向かう。

宗太が傘とトートバッグを片手に提げ、正面玄関へと向かってくるのが見えた。


今日は暑くなりそうだ。

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